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受洗したよ。

もうすぐクリスマス。Christmasです。masとはミサのことなので、キリストのミサということです。何故この日に特別なミサを行うかというと、色々な諸説があるようですが、基本的には、キリストの降誕(誕生)を祝うからこのような名称がついたようです。昔、古代ローマ時代とかは、日の区切りを今のような深夜0時とかではなく、日没で区切っていたため、クリスマスは、「12月24日の日没から12月25日の日没まで」のようです。いつもふらっと仕事帰りに一番最後のミサに参加するのですが、今年は、このご時世ですので、事前に予約してコロナ対策(人数制限、短時間、歌禁止)の中で静かに祈りをささげてこようかと思います。

なお、この投稿は、goen゜アドベントカレンダー参加投稿3本目。これがラストかな。いい機会いただきました。

改宗というか無宗教だったぼく

表題通り、もうお気づきかと思うのですが、ぼくは、クリスチャンです。日常で自分は、クリスチャンです!キリスト教信者です!って宣言することもないのですが、いい機会なので。クリスマスですしね。

もともと、ぼくは、田舎育ちで、実家は、真言宗でした。空海(弘法大師)さんのところです。真言宗にも数多くの宗派があるようですが、どの宗派かもわかりませんが、とにかく小さい頃から般若心経だけは唱えることが少しできた。近所のお寺も真言宗。近所の保育園も。なので、自然と。ただし、ぼくを可愛がってくれた曾祖母は、神道だった。なので、家には、神棚もあるし、仏壇もあるし、もちろん、クリスマスツリーもおもちゃみたいのだったがあった。日本ではこれが当たり前だとは思う。日本は、無神教というより無宗教。つまり、これといった宗教をもちあわせていないが、何かしら生活の一部として共存しているというか、自然と取り込んでいる。昔から自然を畏れ、敬い、神を見出すことができ(神道)、仏教が入ってきてからは仏教も幅を利かせてきた。神仏とも入信の儀式がないので、時代や生活様式などによって、自然と生活に溶け込んできた。お国柄というか、なんだろうね。海外に行くと絶対に宗教というものとは切り離せない場所や場面に遭遇するのに。今の日本って不思議。。。お寺や神社や教会ってあちらこちらに存在しているのに、生活の一部ではなく、特別な場所になっているというか...。今になって色々思うところもあるが、つい最近まで、少なくとも結婚するまで、宗教というものを意識するは皆無だった。実家が真言宗ということなので、ぼくも真言宗なのかな...ってくらいで。仏寄りだな。自分って。そのくらい。

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結婚するにあたりお勉強が必要!

33歳のときに結婚しました。今から12年前。
結婚の話が具体的になったときにキリスト教に出会った。
妻がクリスチャンだったため。
特にカトリックでは、教会で結婚式をあげるには、非信者のぼくも結婚準備講座なるものを半年近くかけて受けなければならない。
そこでは、キリスト教とはなんたるものか?結婚、その後の夫婦生活、家族に関して、生涯に関してのお勉強がある。意外とこれが面白く、大学の教授(神学とかではない)や幼稚園の園長や経済学者、政治学者など様々な分野の人から講義をうけた。ちょっと穿った目で見ていたので新鮮な驚きでした。一人暮らししていると、たまに宗教勧誘の飛び込みあったりするでしょう。ちょっと妄信的というか、どっぷり現世というか日常からかけはなれている感じ。そんな感じはまったくなくて。ウィットに富んだ眠くならない話で、科学的に歴史的に文学的にアプローチしたりして、とても楽しく講義を受けることができた。その人達が普段どういう生活や働きをしているのかも含めて。

でも、その時は、キリスト教に受洗するなんて思ってもいなかった。
ひとつのお約束として、結婚して子供が生まれたら、その子供は、クリスチャンになるということ。つまり、幼児洗礼を受けるということ。結婚観や家族、夫婦に関しての制約みたいなのもあったけど、特に大きな問題に感じることはなかった。
逆に、結婚というものに対しての理解が深まった感じ。こういう講義なら全然やったほうがいいかなと思うくらい。無料だし(失礼な言い方すみません)、ウェディングの準備で忙しい時に毎週時間取られるけど、リズムができて、結婚式への盛り上がりも高まるというか。とにかく、仏のこともも薄くしか知らなかったけど、キリストのことも薄くだけど知ることができた。教会っていいな!くらいな感じで。結婚式あげた「東京カテドラル聖マリア大聖堂」がめっちゃかっこよかったし。

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祈りとともに

無事に半年の勉強(結婚講座)を終えて、2008年の真夏に結婚をして、しばらく経った2013年に息子も生まれ、その息子も2歳の時に洗礼を受けた。その間、東日本大震災もあった。悲しいこと、厳しいこと、向き合わないとならないことなど。我が家が特別になにかあるわけではなく、それぞれの家庭・家族、個人にも色々なことがおこって、社会も揺れ動く。そんな日々が過ぎていく中で、ふと気がつくと自分の中に「あ、なんか、受洗してみようかな」という気持ちが湧いてきた。

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妻はクリスチャンなのだが、絶対に入ったほうがいいと強くいざなうことはしなかったし、日曜礼拝などもほぼいかないし(もう少し行ったほうがいい気もする)、妻の家族も敬虔なクリスチャン一家だが、絶対洗礼受けたほうがいいよ!なんてことは、身振りも素振りもまったくなかった。goen゜の森本さんもそうかな。彼女の絵や美的感覚、センスや魂(気持ち)の根っこには、教会にある壁画やステンドグラス、銅像、賛美歌、お御堂などもすごく影響あるのかなとも思う。共通していえるのが、教会に属すること、クリスチャンであるコト自体を自分の中にしっかりと根ざしてはいるけど、相手に対しては、特になにも求めないというか。

全世界には、キリスト教徒が20億人以上(全人口の1/3以上)いると言われているが、日本では、2%にもみたないマイナーな存在。特に、現代の日本では、若い人ほど無宗教であり、無神論者が多いかと思う。でも、日本人は、祈る人種だと思う。ぼくはそう思っている。合格祈願、商売繁盛、無病息災、食べる前のいただきます(感謝の祈り)、ことあるごとに祈っている。生を受ける前にも祈る。安産祈願。願いであり、祈り。時代によっては、迫害され、命を脅かされようとしても。長崎の黒島を仕事で訪れた時、隠れキリシタン(潜伏キリシタン)を先祖に持つ方々とお話した時もそう感じた。祈りを捧げる。

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ぼくの考えでは、キリスト教だろうと、仏教だろうと、神道だろうと、イスラム教だろうと、ヒンドゥー教だろうと、自然信仰でもなんでもいい。無宗教、無神論であってもいい。それぞれにある、何かに寄り添い、拠り所があれば。ぼくの場合は、身近な大切な人が拠り所にしている、どこか心の中に見出しているものが、キリスト教のカトリック信仰の中にあっただけで。それを共有してみたら、同じ感覚を得られたら、どんな関係性が構築できるのか、自分自身になにが起こるのかを知りたいなと思っただけだと思う。少しずつ生活の中、人生の中、節目節目の中で取り入れ、咀嚼していきたいと。だから受洗することに決めた。

受洗と準備

受洗を決めてからのアクションは、結構すばやかった。
まずは、所属教会(近所、徒歩2分)の主任司教(息子の幼稚園の園長でもあった)に志願し、1年間(実際には10ヶ月)の洗礼準備講座を受講しました。もっと短い、半年くらいの講座もあったり、3ヶ月のもあったりするらしいけど、ここはみっちり。結婚準備講座も面白かったが、こちらの講座も神学、哲学、歴史なども含めて毎週楽しく勉強することができた。特に、韓国から来ていた助祭が大変面白かった。常にiPadを持ち歩いている(キャソックという平服との対比がまたなんとも言えず...)をのだが、音と映像とホワイトボードを駆使して、すごい早口の日本語(時々英語まじりw)で機関銃のようにしゃべりまくる。時々、よくわからないジョークを交え。みんなポカン。ポカン。食らいつかないと置いてきぼりだった。

一緒に受講していたメンバーも、下は、大学生から上は、70代の老夫婦まで。受洗する理由も様々。プロテスタントからの改宗、夫婦そろって今後の余生をどう生きるかを考えた末、ぼくのように特に切迫した理由もない人達など様々でした。毎週、90分、顔合わせるので、本当に大学のゼミのような感覚で、あっという間に一年が過ぎました。その間に息子の小学校受験なども並行してたので、とにかく人から話を聞くという、インプットしまくりの一年だった。

そして、ようやく、2018年、4月1日の復活祭に合わせて、洗礼を受けました。ゴッドファーザー(代父)は、一回りほど下の義弟。ちなみに、ゴッドファーザーとは、立会人でもあり、信仰における親でもある。先導者というか。なので、何かぼくにトラブルあった時は、しっかりと頼りたい(苦笑)。
洗礼名は、ルカ。この洗礼名というのは、聖人と呼ばれる方々の名前から自分で選びます。このルカは、聖路加病院の「路加(ルカ)」でもあって、医学の象徴であり、芸術の象徴ということもあって、ルカに決めました。直感です。聖路加病院は、毎月通っているし。ちなみに、サンタクロースは、聖人ニコラウスの聖伝がモデルになっていると言われています。

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受洗名が与えられ、洗礼を受けるというのは、ちょっと新たな自分を見出した感じ。生まれ変わったとは言わないまでも、何かちょっと新しい自分。と同時に何かに守られている感じも。これは不思議な感覚で、ゴッドファーザーなのか、聖人なのか、精霊なのか。そういう感覚を父と子と精霊の関係の中で見出す、祈る、感謝すること自体が自分の拠り所になるという気がする。まだ、わからないけど。いつもいつもじゃないけど、今は、自分のペースで自分の変化を見つめていければと。

今の自分

とくに何かが変わったわけではない。普段の生活もいつもどおりだし、コロナ禍の中では、ミサにもいけてない。でも祈っている。少しでも。不安や恐怖もあるし、焦りやプレッシャーもあるけど(仕事もプライベートも)、こういう流れのときには祈りながら流れるしかない。抗う時ではないと思っている。いや、抗いながらも流れていくのか。受洗したぼくが得た唯一のものは、自分を見つめ直す回数が少しだけ増え、その分、自分の内と外の境界線を把握することができ、輪郭というか、今の見え方を意識することを時々できるようになったかなと。

冒頭にあるように、普段からぼくは、クリスチャンです!と公言しているわけでもないし、特に発することを必要と感じていないが、こんな時代だからこそ、十字を切るように、何かを告白したり、何かの拠り所を見つけたり、先が見えないからこそ、祈ってみるというのもありかなと。ぼくがね。心のままに。

今年も残すところ、あと1週間。2020年、様々なことがあり、そしてあっという間に流れていった気がする。安心できない、常に何かに怯え、余裕なく、畏れながら。だから、見落とし、おざなりに、無下にしてきたものも結構あるかなと思う。

新年迎えるまでに、今一度、振り返り、来年に想いを馳せてみたいかと。

色々とお世話になりました。来年も引き続き宜しくお願いします。

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EVOWORX & SUPER goen゜ 矢野 賢史

P.S クリスマスまであと2日!25日には、このツリーも解体されてしまう。残り少ない期間ですが、お近くにお寄りの際には是非!


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