【連載小説】無職の僕が大企業の社長を選ぶ話(第35話)
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【前回までのあらすじ】
堤 孝晴は遺言状に込められた会長の真意に気付き、後継者を決定した。その事を聞いた白石スミは会社を去る決意を固めた。
明日の段取りを済ませた頃には夕方になり、スミさんは退勤した。いつものように深々と頭を下げてから帰って行く。僕はスミさんの僕へのお辞儀の角度が日に日に深くなって行くのが、ちょっと気になっていたのだが、今日、話して何となく理解した。あれはスミさんなりの、僕への敬意の表れだったのだ。真面目だけど不器用なスミさんらしいと思った。僕もスミさんの敬意に最大限応えなければならない。
夕食の時間になり、僕はダイニングルームへ向かった。しばらくすると三姉妹が揃ってやって来た。揃ってやってくる事は今までなかったので、もしかすると、明日の事で何か打ち合わせていたのかも知れない。
「孝晴、早いねー」
「孝晴さん、お疲れ様」
「孝晴くん、お待たせ」
全員が席に着くと給仕が食事を運んでくる。今日は何とステーキだった。しかも特大だ。
「孝晴くん、いつもお代わりするから、大きめにしておいたわ」
そう美香さんに言われて他の人たちの皿を見ると、ステーキは普通のサイズだった。厚意は有り難いが、僕は居候の身だ。特別扱いは困る。前にも伝えたのだけど。
「美香さん、困りますよ。僕は……」
「今日は特別よ」
「特別?」
「そう。孝晴くんとの夕食、今日が最後なんでしょ」
「明日は後継者の発表ですからね」
「孝晴、帰っちゃうんだねー」
そうだ。明日、僕は後継者を発表する。それが済めば僕の役目は終わる。
「そうですね。皆さん、短い間でしたが、お世話になりました」
お世話になった御礼は明日、改めて言うつもりだが、僕は取り敢えず簡単に御礼の言葉を伝えた。
「孝晴くん、帰ってからどうするの」
「そうですね。しばらくはのんびりして、その後、新しい仕事を探そうと思います」
「気が向いたら遊びに来なさいよ」
「そうですよ、もう他人じゃ無いですから」
「わたしは帰国しても、リモートでいつでも話せるからねー」
そうか。みんな気に掛けてくれてるんだな。
「ありがとうございます。これから大変だと思うけど、皆さんならきっと上手くやれますよ」
「さあさ、話は終わり。食べよう。料理が冷めちゃうよ」
場の空気がしんみりしそうなのを悟って、美香さんが音頭を取った。
「頂きます!」
僕はわざと普段より声のトーンを上げた。
熱々の鉄皿に盛られた分厚いステーキ。付け合わせはにんじん、じゃがいも、ブロッコリー。ナイフを入れると、中はほんのり赤いミディアムレア。塩胡椒だけのシンプルな味付けでも、口に入れると肉汁と旨みが広がる。
「旨いです」
僕は次々と肉を切っては口に入れていった。
「やっぱり孝晴くんは、そうでなくっちゃね」
美香さんたちも目を細めている。
小皿に盛られたサラダと、透明感のあるスープ。これはビーフコンソメスープだな。いつものオニオンスープも旨いけれど、これもなかなかの味だ。
添えられたパンを手に取る。程よく温められた、いつものライ麦のパンとホイップバター。何度食べても旨い。店では買えないこのパンが、もう食べられなくなると思うと残念だ。
程無くして、僕は料理を平らげていた。全て最高の食材で作られた最高の料理に違い無い。実際全部旨かった。でも、今日だけは食後の余韻が違うように感じた。それはやはり、今日が最後の晩餐だからだろうか。
食事が終わっても三姉妹は席に残っている。いつもなら、お茶を飲みながら家族の団らんの時間だ。だが今日は誰も何も話さない。そして誰も僕にあの事を訊いて来ない。後継者を誰に決めたのかを。もちろん僕も、それをここで話す気は無い。だが、僕は明日の事で、三姉妹に伝えておきたい事があった。
「すみません、皆さん。明日の事で、僕からひとつだけ、話しておきたい事があります」
◇◇◇
自分の部屋に戻って来ると、僕は部屋を片付け始めた。私物はキャリーバッグに詰めて、不要な物は処分する。簡単にだが、執務室と寝室の掃除もしておいた。ここにある資料は全て、後継者が決定した時点でスミさんが焼却処分する手はずになっている。パソコンに入っている社外秘データは、その時、併せて消去する事にしよう。
寝る前にひとつ、やっておく事があった。それは、後継者選任の証書を作る事だ。昼間、明日の事を電話で小林さんと打ち合わせしたときに言われたのだ。それはそうか。立会人がいるとは言え、口約束ではまとまりが付かないからな。書式は決まってないから勝手に作って良いらしい。
僕はパソコンを起動すると、それっぽい文書を作成して、印刷した。
後継者選任証
私、堤 孝晴は、故・刑部厳之介会長の遺言状の内容に従い、刑部グループ株式会社の後継者として右の方を選任した事を、ここに証します。
僕は文書を何度も確認した後、署名した。明日の発表後に立会人にも署名して貰えば良いだろう。書類を封筒に入れ、書類ケースに仕舞った。
これで、明日の会議で後継者を発表すれば、僕の役目は終わるのだ。
【本編ここまで。次回に続きます】
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