得るだけじゃなく、残せる旅に
19歳のときに女友達と二人で、タイに行った。いわゆるバックパッカー的なものに憧れていたので、航空券と、ちょっとビビりだったから初日の宿だけ予約して、憧れのバックパックを背負って、旅に出た。
自分のサバイバル能力みたいなものを試してみたかったし、刺激が欲しかった。ツアーのように時間に縛られたくなかったし、誰かに気を使うのも嫌だった。好きなことを好きなだけする自由が欲しかった。同じ価値観の友達と、もしもやりたいことが一致しなかったら、たまには別行動ね、と約束した。
そんな旅の中で記した日記を、実家に帰った際に見つけた。たまたま開いたページに、このように書いてあった。
「得るだけじゃなく、ちょっとでも残せる旅になったらいいなぁ。」
近頃はSNSの流行りからか旅もアクセサリーのようになっていて、どこへ行った、誰と行った、何をした、何を食べた、そしてどれだけいい写真が撮れたか。全て自分をよく見せるためのモノになっている。
旅先で、自分を飾り付けるモノやステータス、経験をたくさん得て、帰ってくる。
それもまた素敵なことで、かけがえのない旅の思い出になるだろう。だがわたしは、19歳の頃から、そのことが心の隅で引っかかっていた。
俺だって日本を見てみたいけど、お金がないから無理だよ。と答える少年。
今日わたし誕生日なの、いい日に出会えたからあなたにこれおまけしてあげるね。ととびきり笑顔のお土産屋さんの女の子。
私たちは貧しいけれど、心は貧しくないんだよ。だから困っている君たちを助けてあげたくなったんだ。お寺の案内をしてくれたタイのおじいさん。
世界最強の日本国旅券を発行している時給のいい国にたまたま生まれて、数ヶ月のバイト代を貯めて人様の土地にあがりこんで、「いい出会いだった」といって楽しい思い出を持って帰る。日本円で数百円吹っかけられたらボラれたとぼやき、貧しい人たちを見て何もできないと嘆くだけ嘆く。そしてまとめは、得るものが多く、いい旅だった。と。こんな思考回路では、わたしは彼らから何もかも搾取しているだけだ。
そんな自分に気づいたりして、嫌になったりしたのだが、ところでこんな紀行文は、絶対に流行らないだろう。気持ちのいい風が吹いてきそうな、爽やかであたたかい素朴な写真とともに並んだ、世界の美しさを伝えるポエチックな文章。それこそ世間の人々が求めている紀行文であり、旅の形だろう。世界は美しい。もちろん、わたしもそう思う。
いったい誰が、自分自身が搾取している現実なんかを突きつけられたいだろうか。
だが、わたしはここに記しておきたい。ちょっとでも残せる旅にしたい、と思ったあのときの気持ちを。今も変わらず、抱いていることを。
わたしが旅先で出会う誰かにとって、わたしははじめて出会う日本人かもしれない。もしくは、ゲストハウスの廊下で会ったアジア人の女性、使おうと思っていたロビーのパソコンを先に使っていた人、夜のバスターミナルで行くあてもなく途方に暮れていた女の子、する事がない船の上でやたらと難しい算数の問題を出してきた後ろの席の乗客………
誰かにとっての何者なのか、わたしにもわからないけれど、わたしは誰かにとっての何者かである。
それが、誰かにとっての小さな思い出になっていたり、誰かの人生に数秒間いい人として登場していたという事実だけでもいい。もしくは日本のことをニュースで見たときに、あいつ英語下手だしよくわかんなかったけどいい奴だったなと思い出してもらえる場合もあるかもしれない。それは、全てわたしの心がけ次第なわけで。
今、たまたま観光地に住んでいるわたし自身も、そんな風に思える誰かに出会うことがある。名前も知らない誰か。だが、ちょっぴりその日を特別な日にしてくれた、誰か。
旅先で自分だけが「いい旅だった」と得て帰るだけじゃなくて、ちょっぴり何かを残して帰りたい。物とかお金とかも、もちろんそうだけれど、ちょっとだけ交わすいい言葉とか、笑顔とか。そんなもんでもいい。そんな風なことを小難しく、考えている。
写真もなければ、美しい世界の描写もない紀行文ですが。これを読んだあなたが旅先で、ちょっとしたなにかを残して帰っていただければ。あなたと出会ったときにぜひ、その話をお聞かせください。
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