憧れを憧れのままに
アラスカには人生最後に行かなきゃなんないのに。わたしの人生もう終わるのかな。
人生の大きな決断をしたあんたが何言ってんだ、これからだっていうのに縁起でもない。
そう思って口にしたかどうかは忘れたが、そんな重々しい内容を軽く笑い飛ばし、餃子をつまんでビールを一口。学生時代からの友人のTとは、久しぶりに会ってもいつも同じような会話をする。いつもだいたい、どこかへ行きたいとか、どこへ行きたい?とか、そんな風な会話だ。
昔からお互いに、アラスカに行きたいと話していた。わたしは8年ほどトイレの壁に世界地図を貼っているのだが、行きたい場所を常日頃から忘れないようにふせんでマークしている。アラスカもそのうちの1つだ。
アラスカに憧れを抱くようになったきっかけは、お互いにイントゥザワイルドという映画。あるバックパッカーがアラスカを孤独に旅し、厳しい自然から人生の教訓のようなものを、それはそれは厳しめに教えられる映画だ。
それまではアラスカに行きたいと思ったことはなかったのに、映画を観て以来、ずっとアラスカは憧れの地である。
「アラスカのガイドブックを買ったよ。行く予定は特にないけど。」
数年前、Tはそう話していた。それから何年経ったかは忘れたが、そうやって少しずつ、今の今まで、憧れの気持ちを温めていたのだろう。この日Tは、アラスカの航空券を買ったと言った。この夏、1週間滞在するという。
Tのカバンの中には、ある日本人作家がアラスカへの旅を綴った本が1冊入っていた。映画もまた観たそうだ。あるネットの記事も共有してくれた。空港からここへ行って、そこで許可を取って、国立公園のこの辺でキャンプして、とか、なんとか。
なんとなくぼーっと憧れていたわたしとは違って、憧れを自分のもとに手繰り寄せて、もう目の前にある。そんなTが羨ましかった。わたしにはできないような大きな決断をして、ついにアラスカにも行くなんて、ずいぶん遠くに行ってしまったようだね。
しかし、Tにもひとつ心配なことがあったようだ。
アラスカには人生最後に行かなきゃなんないのに。わたしの人生もう終わるのかな。
帰ってこられるかな。だって、もうこんな旅できないでしょう?ずっと同じ日常が待ってる。自由なんてない。全て嫌になって、もう帰ってこられないかもしれない。
憧れを手に入れると、同時にそれを手放す恐怖も手に入れてしまうようだ。そうだよなぁ、少し日常を離れるのとはわけが違う。知ってしまう怖さ。憧れを憧れのままにしておけない怖さ。
人生の大きな決断をしたあんたが何言ってんだ、これからなのに縁起でもない。そう思って口にしたかどうかは忘れたと言ったけれど、そういえばこんなことを話した。
じゃあまた人生の最後にアラスカに行けばいいから、とりあえずは、今しか見られないアラスカを見てくればいいんじゃないの。別にアラスカは人生で一回きりって決まりないんだからさ。
それで結局Tは、いつもどおり少し調子に乗った口調で、刻んでくる、アラスカ。と、心臓の方を指差していた。
憧れをひとつひとつ、手繰り寄せていこう。憧れを憧れのままにしておきたい、そうやって美しく生きる必要なんてない気もする。憧れに裏切られて、少し絶望してもいいじゃない。今しか味わえない絶望を味わえばいいし、きっと憧れの存在はそれ以上の勇気や希望をもたらしてくれるだろう。そう期待したい。
でもわたしはもう少しの間、アラスカを憧れのままにしておくね。それはそれで、羨ましがってくれてもいいんだよ。
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