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善事も一言、悪事も一言 capter3 『ロイヤル酒阪家』6

 それはキャバレーのオーナーが女や従業員の慰安を名目にして一同で上野動物園に繰り出した時のことである。女たちはインドから送られてきたアジアゾウをネタにした卑猥な冗談を言いあって、とてもカタギとは思えぬ一行の品位をさらに下落させていた。和夫は自分にまで風評被害が及ばぬようにやや一行から距離をとって行動していると、同じようにゾウを見に来た客の中に節子を見つけた。

 彼女は一家でやってきていて、宴席で見た顔が何人かいた。節子の方も和夫を見つけ頭を下げた。自分の品位を守るために和夫はゾウの鼻にことさら執着する女たちの元を離れ、節子一家に挨拶をしにいった。

 節子は父の矢田部四郎と姉の富士子、幼い双子の妹たちの孝子と明子とやって来ていた。和夫が双子と会うはこれが初めてだった。なにをやっても鏡の前の自分と合わせるように二人の呼吸がぴったりで、一家の余興では二人が鏡の前に向き合ったかのように左右非対称に踊る出し物が定番であった。

 節子は矢田部四郎にこっそりと何かを呟き、それを受けて四郎は和夫を食事に誘った。和夫も店の女たちの引率に飽き飽きしていたのでその誘いに乗ることにした。

 女たちはアジアゾウへの執着からようやく解き放たれて、次はもっと興奮するような動物、肉食獣を見たいとはしゃいでいた。

 和夫はその食事の席で自分の身の上話を四郎にした。四郎は和夫の苦労話を大変興味深そうに聞いていた。四郎の琴線に触れるものがあったのか、以来、四郎は和夫をたびたび家に招くようになった。

 何度か矢田部家と交流するうちに、和夫は節子が自分と同様に妾腹の子であることを知った。母親の死後、矢田部に庶子として迎えられ、他の兄弟たちと同様に扱われている節子と戦後の混乱のどさくさに母子ともども捨てられた自分とは雲泥の差があるものの、互いに共通する境遇は二人の距離を近づけた。しかし節子との先行きは不透明であった。

 矢田部四郎は生業として繊維の輸出を手がけていた。ドッジラインの実施、単一為替レートの施行で陥った激しい国内不況をものともせず、主力を単一為替レート以後輸出が容易になった綿糸に切り替えるなどして順調に利益を伸ばしていた。さらに朝鮮戦争が勃発して、綿糸の値段は二倍以上につり上がっていた。

 和夫の印象では矢田部四郎がそうした不安定な情勢を読み切るような人間には見えなかった。温和で人が好さそうではあったが、奸智に長けたギラギラしたところはなかった。

 人が好いと言っても矢田部の社会的地位を鑑みれば和夫などを節子の相手にするのは頼りないと思うのは当然で、和夫にしてもほとんど絶望的といえる二人の先行きを知りながら、呼ばれるからといって矢田部家にたびたび伺うことに自己矛盾を感じていた。そんなとき、矢田部と二人きりで話す機会が訪れる。矢田部家の庭先。池の前。鯉がぱくぱくしている。その場で四郎から節子との結婚を勧められた。

 和夫は唖然としてしまい喜ぶよりも怒りが混じった「なぜです」という言葉を返してしまう。

「節子が、それが良いと言うからだよ。君も知っとることかもしれんが、あの子は生まれつき勘の鋭い子でな。母親もそうだったが、あの子のは特に鋭い。私みたいな人間がどうしてこんな成功を掴めているかといえば、全部あの子が良いと言うことをやってきたからなんだ。今度のことも節子が良いと言うから私もそれに従おうと思う。それともアレかね、他に約束でもあるのかね」

 もちろん約束などなかった。


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