見出し画像

『ルックバック』に感動したとかではないが、ジャンプ+に感動している話

 いろいろと話題の『ルックバック』を遅ればせながら読んだのだが、実は何も感じなかった。ふーん。という感じ。
 
 こういう事を書くと逆張りクソ野郎と言われそうだが、悪いとも思わなかったし、目を引く一コマもあった。主人公が夜道で小躍りするシーン。表現者で、あれを見て微笑まない人はいないのではないかと思う。漫画表現もすごくいいと思う。でも「いい話だな」という印象以上のものはなかった。これはもう私の心が腐っているのかもしれないので、個人の感想として、受け取ってもらっていい。
 
 ただ違和感があったのは「いい話過ぎる」んだよな、ということである。なんでわざわざこんないい話にするんだろうと思った。作者は、本当にこんないい話にしたかったのだろうかという気がしたが、これも私の感性が腐っているからかもしれない。
 
 でも私が思うに、作者が持つ表現のベクトルや感性、モノの見方はこういう「いい話」が本質ではない気がする。もっと違うものを見ている人の気がするので、お仕着せられたように思ったのかもしれない。本質的にこの作者は、ジャンプ的というよりも、少し違う漫画を書くタイプのはずだ。

 それがどうしたんや、文句ばっかり言いやがって、と思われるかもしれないが、実はこういう人がジャンプから出てくるということにはすごく感心している。正確にはジャンプ+という、マネタイズやコストや物理的な紙面に縛られないビジネスモデルを集英社が作ったおかげで、自分たちの土俵ではあまり扱えなかった人を扱えるようになったことに、感心している。

 簡単に説明すると、ジャンプ+は作家に、漫画の原稿料は払わないが、ビューで稼いだ広告費をその代わりに払っている。そのため、掲載のコストは低い。ビューが稼げない漫画はさっさと終わっていくが、人気になれば、本誌に掲載という流れになり、新しい才能が発掘できる。誰が考えたの? というくらい効率的で素晴らしいビジネスモデルである。

 そのビジネスモデルは、藤本タツキという、まあ多分大昔なら連載はもらえなかったであろう漫画家をデビューさせることができるほどの多様性を確保することができたのだと思う。このことはビジネスが世界を変える一端を見たような気すらする。

 もちろん、作家を受け入れるリテラシーが育っていなければ、いくらビジネスが多様性を許容したところで、藤本タツキがウケることはなかった。いろいろ考えると、時代にマッチしていたという、単純な一言で終わるかもしれないが、個人的には面白い動きだなあ、と思っている。

 きっと20年前にジャンプ+やSNSなんかがあれば、尾玉なみえは打ち切られずにすんだはずだし、『ザ・グリーンアイズ』も『SCRAP三太夫』も『SILENT KNIGHT翔』も打ち切れなかったはずだ。
 いや、無理だな。

『ルックバック』じたいはそこまで深く感心したわけではないが(藤本タツキの才能の評価とは別です)、着実にテックという世界を拡張するツールを使い、世界が多様性を少しずつ獲得していることに少し勇気みたいなものがもらえる。是非ともこの世界から距離を置いて生きていきたいとしか思えないことばかり起こるので、こういう小さなことに目を向けて生きていきたい気がする。
 嘔吐したくなるような世の中なので。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?