見出し画像

踏絵的質問「なぜ人を殺してはいけないのか」 #2

目の前にいる人が、ぎらついた目で私を見ている。

手にはナイフを持っている。

息は荒く、
私に向かって走ってきて
「死ねー!」と叫ぶ。

なぜだか私の手にもナイフがある。

この凶器で、その人を一刺しすれば、もしかしたら私は生きられるかもしれない。

一刺ししなければ、もしかしたら私は死んでしまうかもしれない。

そんなとき、私はその人を殺してはいけないのだろうか。

殺してはいけないとしたら、それはなぜだろうか?

「なぜ人を殺してはいけないのか」と聞かれたら、どう答えますか?

この問いを問うということについて考えたきっかけは永井均さんの『これが、ニーチェだ』という本でした。

ドイツの哲学者であるフリードリヒ・ニーチェという人について語られている本なのですが、ニーチェ哲学の中にキーワードのひとつに「道徳」というものがあります。

ニーチェの問いの解像度を上げるための導入は、この「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いが出発点となっています。

ある若者が「どうして人を殺してはいけないのか」という問いをしたことに対して、大江健三郎さんが「この質問に問題があると思う」と書いたことを挙げます。

そして、「どうして人を殺してはいけないのか」という問いは素直で素朴な問いであると述べた上で、それを受け取る人たちについてこのように語ります。

ところが、ある種の人は、それをすなおに受け取ることができないらしいのだ。問い自体に何か不穏なものを感じるようだ。

永井均『これが、ニーチェだ』講談社 p21

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いをすることによって、その人が何を不穏に感じているのか、その裏にどんなものが隠れているのかがわかるのではないか……その意味でこの問いは"踏絵的質問"なのではないか。

今回は「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを発することによって浮かび上がってくるものについて考えていきます。

【私】が人を殺してはいけない理由

さきほど紹介した『これが、ニーチェだ』の「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを含む箇所を、ある場で紹介したことがありました。

お話をしていた方が「自分もこの問いを問うということに疑問がある」という主旨のことをおっしゃっていました(私はこのことについて特に否定的な意見はありません)。

「人を殺してはいけない」という気持ちがその方の中にはあって、その理由は「正常な状態ではないから」とのことでした。

たとえば、戦争で狙撃手をしていた人が自分の子どもと同じくらいの子どもを撃つことがあり、戦争から戻ってくると、自分の子どもを愛せなくなってしまったというお話を聞いたことがあったそうです。

それは正常な状態ではない。
それくらいに「人を殺す」ということは異常なことなのだと。

これは「【私】が人を殺してはいけない理由(自分が人を殺してはいけない理由)」なのではないか、と思います。

「正常でいたい」の正体

人を殺すことは正常ではないから(正常ではなくなってしまうから)、してはいけない。

なぜこれが【私】が人を殺してはいけない理由なのかということについて、「正常とは何か」ということを考えることによって明らかにしていきたいと思います。

「正常である」という状態を考えると、皆さんはどんな状態が考えらえるでしょうか?

たとえば、こんなことを思い浮かべる方がいるのではないでしょうか?

  • 五体満足である

  • 自分の子どもを愛せる

  • 普通に会話ができる

  • 急に叫び出したりしない

  • 人に対して思いやりがある

あなたが「普通は」という言葉のあとに続けて違和感のないような言葉(状態)が、おそらくあなたの思う「正常」なのだろうと思います。

そしておそらくあなたは、その「正常」から離れてしまうことをなるべくなら避けたいと思っている。

というよりもむしろ、その「正常」から離れないように勝手にふるまってしまっているのではないか、と妄想しています(私にはあなたが見えないので勝手な妄想です。すみません)。

この世には実はとてもいろいろな人が存在するのですが、そんな現状を大いに無視して社会というのは構成されています(驚きですね)。

その社会は「多くの人」(マジョリティ、大衆などと言われます)に合わせて形づくられてしまっているので、そこから外れてしまうと、生きにくいことこの上ない状態になってしまいます。

なので、「正常」から離れないようにする。

「死にたくない」という感情のある人であれば、そりゃあ「正常」にしがみつきたくなりますよね。生きにくいのは嫌ですから。

「正常」というものは人々が連帯して生きていくための道具のようなものなのではないかと思います。

「生きていくための道具です」と言われたら、「生きたい」もしくは「死にたくない」と思う人であれば、誰でも手に取る可能性があると思います。

「正常」はそれを手に取った人に、その手を取ったということ自体によって、「正常」であり続けます(誰も手に取らなくなってしまったら、それは「正常」ではなく「異常」へと転換します)。

その意味で「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して、「その行為は正常ではないから」と答えることは、ただその人が「生きていたいから」という面があるのだと思います。

だから、もしも「人を殺す」という行為が「異常」と思われるようなものに一切繋がらないような価値観がこの社会の中で蔓延するようなことがあれば、「人を殺す」ということは「正常」になる可能性も考えらえる……と思います。

あとは単純に「自分が殺されたくないから」というのも、【私】が人を殺してはいけない理由になるかもしれません。

ただ、これ実は【みんな】が人を殺してはいけない理由なんじゃないか…とも思います。

【みんな】が人を殺してはいけない理由

ここまで、「【私】が人を殺してはいけない理由」について考えてきました。

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対しての答えとして、もう一つのタイプがあるような気がします。

その一つの例が「自分が殺されたくないから」です。

これは、「【私】が人を殺してはいけない理由」に対して「【みんな】が人を殺してはいけない理由」と分類できそうです。

「自分が殺されたくないから」という理由なら、「【私】が人を殺してはいけない理由」なんじゃないの?と思われるかもしれません。

ですが、「自分が殺されたくない」ためには、自分以外の人が「人を殺すのはいけないことだ!」と思う必要があります。

自分だけが「人を殺してはいけない!」と思っていたら、自分以外の人に殺されてしまう可能性が高くなってしまう。

「みんな、自分は殺されたくないでしょ? だから、人を殺すのはいけないこと!(ということにして、それをルールとしよう!)」という感じです。

なので、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して「自分が殺されたくないから」と答える場合、それは「【みんな】が人を殺してはいけない理由」となるのではないか、と思うのです。

冒頭で私が殺されそうな場合、私はその人を殺してはいけないのかという話をしましたが、おそらくこれは議論が分かれると思います。

特に「【みんな】が人を殺してはいけない理由」を答えた方にとっては、まず「自分が殺されたくないから」があるので(【みんな】が人を殺してはいけない理由はこれだけではないので、今回紹介した例に限りますが)、どっちも難しい…となってしまうわけですね。

今後考えたいこと

おそらくですが、「そもそも命はかけがえのないものだから、殺してはいけないだろう!」と答える方もいるかと思います。

私はまだこの「命の大切さ」というものに関して、考えられていません。

今後、ラジオでお話する予定なので、いずれ(何年後かになると思いますが)noteでも発信しようと思いますが、現時点では今後の課題とさせてください。

関係なさそうで関係ある話

ラジオですでに何度か語っているような気がするので、このnoteでも何度も語ることになるであろう、私が感じている違和感があります。

それは「~すべき」という語りです。

誰かが「~すべき」と言うときには必ず、軸があるはずだと思います。
その軸は道徳とかルールとかなのだけれども、その道徳やルールは人がつくりだしているものに過ぎないものです。

けれど、多くの人が語ります。「~すべき」と。何度も、繰り返し。

私はそこに「現状からの逃げ」のようなものを感じるのです。

もしかしたら、この世には絶対に守るべき何かがあって、それに従わないと、魂みたいな神聖なものーしかもそれは私が持っている、私にとって意味があるようなものーが、壊れてしまうのかもしれない。

でも、壊れたらなぜいけないのかがわからない。

そもそも、「壊れたらダメ」の「ダメ」も人間によってつくられているもののように感じる。

人間がつくった流動的で欺瞞的な何かを絶対的なものとして、それに従わない人はダメ!と言う人は、ただその流動的で欺瞞的なものを理由なしに信じたいだけなのではないか。

信じることによって救われたいだけなのではないか、と思うのです。

「救われたい」と思うことが悪いことか…と言われると、それまた「良い」「悪い」議論になってしまうので、正直よくわかりません。

わからないけれども、「本来は~」「~べき」よりも、もっと「今」の「状況」がなぜそうなっているのかを見た方が、突破口みたいなものが見えてくるのではないか…と思うのです。

この「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは、今、この世界に生きている人たちがどんなふうに世界把握をしているのか、どんな状況のただなかで生きているのかを知るきっかけとして、私の見つめたいものに少し近づけそうな問いなのではないか…と感じています。

ちなみに、少し面倒なのは「~べき」論を語る人たちに「~べき」と語るべきではない、と言ってしまうとぐるぐる回ってしまうわけですね。

お前も「~べき」って言ってるじゃんって。

なので、私はこの違和感を抱えながらも、誰かに強制したり、おすすめしたりせず、「私はこうしたい」という気持ちだけで考え続けようと思います。

できるかな? わからないけど、やってみようと思います。

ラジオの宣伝と次回予告

今回お話した内容を話しているラジオは、こちらになります。

次回の投稿は3月6日(水)、「地球にやさしく」という言葉をニーチェの「力への意志」という概念で解釈していきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?