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フェイクニュースはフェイクなのか? #8
※この「哲学もどきnote」は、音声コンテンツ「哲学もどきラジオ」をテキストにしたものです。
ラジオで話した内容だけでなく、考えが進んだ部分や補足等も含まれます。
逆に、考えが進んでいなかったり、補足事項がないものは記事にしていないため、エピソード番号が飛び飛びになっています。ご了承ください。
以前、レンタルなんもしない人、通称レンタルさんのあるツイートに対して「フェイクニュースだ!」と批判するツイートを見かけました。
一体どんな状態だとフェイクで、どんな状態からだと本当になるのでしょうか?
今日は言葉と事実の関係について考えていきます。
問いたいことの整理
このラジオが配信されたのは半年以上前のことです。
今回、記事を書くにあたって改めてエピソードを聴いたときに「自分は何を問いたくてこの話をしているのだろう」と思いました。
当時の私が問いたかったことはどうしてもわかりませんので、今の私だったら何を問うか、ということを整理することから始めていきたいと思います。
出発点:フェイクニュースへの批判
このエピソードの出発点は冒頭で書いた通り、レンタルさん関連のツイートでした。
まずはそのツイートの情報整理からしていきます。
「レンタルなんもしない人」は「なんもしない人(当人)」をレンタルする(される)仕事をされている方で、冒頭でもお伝えした通り、通称「レンタルさん」と呼ばれています。
人数合わせや誰かにいてほしいという理由でレンタルされるレンタルさんですが、依頼内容をツイートすることがよくあります。
もちろん、依頼者に許可を得たうえでのツイートなのですが、今回考えるきっかけとなったツイートもある依頼内容についての投稿でした。
以前、バンクシーのまねをして街中に絵を描いたところ、本物のバンクシーの絵だとされてしまった。
誰にも打ち明けられずにいたのでレンタルさんに打ち明けたい、というのが依頼の内容でした。
バンクシーは街中の壁などにいつの間にか絵を描く、正体不明のアーティストとして有名な方です。
この依頼内容をレンタルさんがツイートしたところ、「いや、これはバンクシーが描いた可能性が高い作品だ!この投稿は誤解を招く!」という内容の背景情報が追加されました。
「誰にも話せないことを打ち明けたい」という依頼。何年か前に港区でバンクシー(そのへんの壁にスプレーで絵を描くスタイルで世界的に有名となった正体不明の路上芸術家)をまねて壁に絵を描いたら、それがいつのまにか「バンクシーかもしれない」と話題になり、東京都の判断で正式に展示されることに… pic.twitter.com/f24N3JWfxz
— レンタルなんもしない人 (@morimotoshoji) October 19, 2023
どうしてそんなに確かめたいのか
今、このツイートを改めて見て、自分が何が気になっているのかを整理してみました。
まずはじめに出てくる感情はこんな感じです。
SNS上で投稿された嘘か本当かわからない出来事・現象に対して「嘘だ」「本当だ」という態度を取る人がいるけれども、その人たちはおそらく真偽を確かめられないはずなのに、なぜそんなに自信たっぷりに「嘘だ」「本当だ」という態度が取れるのだろう。
ここから自分自身が問いたいことを抽出してみるとこうなりました。
嘘か本当かという判定をしたがる人間の性質のようなものがあるのだろうか?
あるとしたら、その性質は具体的にどんなものだろうか?
冒頭でお伝えした「言葉」を軸に、この問いについて考えていきます。
現象を言葉で語るということ:デリダ
ジャック・デリダという哲学者は『声と現象』という著作のなかで、現象と言葉について考えています。
まさに今回の「出来事・現象」を「語る」ということに繋がりそうです。
まずは少しだけ引用を。
記号は決して出来事ではない。たった「一度」しか生じないような記号は、記号ではないだろう。まったくの特有語(イディオム)であるような記号は、記号ではないだろう。
ジャック・デリダ 林好雄訳『声と現象』筑摩書房2005 p113
たとえば、「いちご」という言葉があります。
赤いつぶつぶした果実を思い浮かべたと思います。
この「いちご」がこの世に一度しか存在しないとします。
そして、それが人から人へ「伝達される」(出来事が再生される)ことがなければ、「いちご」という言葉は我々が「いちご」という言葉を聞いてイメージできるという「いちご」という言葉の機能を持たないことになります。
たくさんの人が「いちご」という言葉を口にしたり文字にしたりしたからこそ、「いちご」という言葉が言葉として機能しているんです。
この言葉の性質を考えたときに、言葉と出来事の間にはどうしてもタイムラグがあります。
さらに、実際の「いちご」と言葉の「いちご」には必ず差異があります。
「いちごが欲しい」と言って、言葉の「いちご」をもらっても(それがどんな状態なのかは想像できませんが)、「それはいちごではない」と言いたくなります。
こういった出来事と言葉の関係をデリダは「差延」という言葉で表現します。
出来事と差異があり、かつ出来事から遅延している。
それが言葉の性質なわけです。
ここで言いたいのは「言葉になった時点でそれは出来事そのものではない」ということです。
なのでデリダ的に考えれば、レンタルさんの投稿がフェイクニュースかどうかなんてわからないよ。
そもそも言葉になっている時点で出来事から差延しているんだから、ということになります。
意味づけをすると安心する人間の性質
まずはレンタルさんの投稿について「事実かどうかを我々は判定できるのか」ということについて、デリダの哲学を元に考えてみました。
改めて今回の問いの一つ目を提示します。
嘘か本当かという判定をしたがる人間の性質のようなものがあるのだろうか?
デリダ的に考えれば、レンタルさんの投稿は「嘘か本当かなんてわからない」のでした。
けれど、実際のその投稿を見て「嘘だ!」と判定したい人がいた。
レンタルさんの投稿に関わらず「嘘だ!」「本当だ!」と判定をしたい。確定をしたい、という人が多くいる。
嘘か本当かわからないことなのになぜそんなにこだわるのか。
ここからはこの一つ目の問いについて考えていきます。
この問いを考えるために『センスの哲学』から少し引用します。
生物のいろんな機能は「予測誤差を最小化する」という原理で説明できる、という理論を、イギリスのカール・フリストンらが提唱しています。
<中略>
予測誤差を最小化するという原理に従って、わかりにくいショットのつなぎでも、何らかのわかる展開を予測して、それに合うように勝手に物語化するのが人間なのでしょう。
デリダ的に考えれば、言葉は出来事・現象から必ず差延している。
けれども人間は、出来事・現象を「自分の予測からあまりはずれないように」都合よく解釈する。
そう考えると、「嘘だ!」「本当だ!」と言いたくなる人間の性質を理解できるように思います。
今回のレンタルさんの件で言えば、背景情報を追加した方は元々「この作品は本物だ」と「予測していた」。
レンタルさんの投稿の内容が本当であるということになってしまうと、その予測が大きくはずれることになります。
予測誤差を最小化するために「レンタルさんの投稿は本当ではない」≒「この作品は本物である可能性が高い」という展開に修正をすれば、安心!というわけですね。
見えないけど見たくなっちゃう人間の性質
『センスの哲学』では、こんなふうに勝手に物語化しちゃう前にリズムを感じよう!という提案しています。
アートを鑑賞するときでもなんでも、我々人間はいろんなところで意味や目的を付与したり求めたりしてしまう。
けれどもそうではなく、意味や目的の前にまずそれ自体のリズムを感じてみよう、ということが書いてある本です。
私はこの提案に「はい!賛成!」と言いたい。
ですが、実際には生活の中でよく意味や目的について考えてしまう。
この葛藤について考えながら、今回もう一つ立てた問いについて考えてみようと思います。
もう一つ立てた問いはこうでした。
嘘か本当かという判定をしたがる人間の性質がもしあるとしたら、その性質は具体的にどんなものだろうか?
私に見えるのは、私が立っているところから見える景色だけ
出来事・現象から言葉が差延していることを強調するために『声と現象』のなかで「われわれはもはや知らない」という言葉がしつこく繰り返される箇所があります。
意味や目的の前のリズムを感じるということは、この「われわれが言葉にしたときにはその起源となる出来事・現象についてわれわれはもはや知らない」ということを認めるということのような気がします。
ここでまたある本を引用します。
ハーバート・ブルーマーによれば、人間は自己が置かれた状況に解釈をほどこし、その状況を処理するために自己の行動を調整することによって行為する。それゆえ、と彼は続ける、私たちは研究対象である一人の人間あるいは一つの集団(「行為単位」)の視点を取らなければならないのである。
この本は社会において逸脱しているとみなされる行為について、社会学的に研究したものです。
引用した部分は社会学的に研究をするにあたって、特定の一つの立場を取らないといけないということを述べている箇所なのですが、これは「逸脱」の研究において、ベッカーが特に強調したいことのようです。
「逸脱」という言葉が使われるときに、多くの人は大多数からズレてしまっている人を想像するのではないでしょうか。
けれどベッカーは、多くの人から「逸脱者」と呼ばれている集団から見たときに、その多くの人たちこそがその人たちにとっては「逸脱者」なのだということを書いています。
多くの人から「逸脱者」と呼ばれる人たちは「逸脱」していることが「個人の問題」だとされてしまっている。
けれど実際には社会の問題で、それは多くの人から「逸脱者」と呼ばれる側の視点から見るとわかってくる。
逆に多くの人の側に立つと「逸脱」は「個人の問題」だという言葉ばかりがあり、そうであると信じられてしまう。
「見えてないけど見えてることにしちゃう」言葉のマジック
「言葉がある」ということは「わかりやすくする」ことであって、そして「われわれはもはや知らない」ことや「リズム」を隠すことなんじゃないか、と思っています。
逸脱をするのは個人の性格の問題だ
という言葉が溢れていれば、それで理解すれば良いし、そうだろうかと考えるのは疲れるし、答えがあるかもわからない(答えなんてわからないかもしれない)なら、その言葉を受け入れればいい。
それによって見えないところを言葉で理解してしまっているのが人間なんじゃないかと思うんです。
嘘か本当かという判定をしたがる人間の性質がもしあるとしたら、その性質は具体的にどんなものだろうか?
この問いに答えるとすれば、こんなふうになると思います。
安定を求めるために「よくわからないこと」をわかる形に判定したがる人間は「言葉」というマジックによって、あたかもその判定が正しいものだと信じ込むことができる。
だから、ある出来事・現象に対して「嘘だ」「本当だ」と言うとき、それが言葉になっている時点でその人にとってはその「嘘」や「本当」が見えていることになっている。
その人にとってはそれが本当に「嘘」であり、本当に「本当」なんだろうと思います。
ラジオの紹介と次回予告
今回お話した内容を話しているラジオは、こちらになります。
次回は哲学もどきラジオ第11回「人類みなChatGPT的? 「主体」ってなんだ?」を記事にする予定です。
更新は7/6です。お楽しみに。
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