見出し画像

息子が少年野球チームに入ったら人生変わった VOL:2 コーチと呼ばれて…

翌朝7時に目覚ましが鳴ったが、しばらく布団の中で逡巡していた。寒い季節は起き上がるためには勇気がいる。平日はその勇気を絞り出しているのだが、土曜日までそれが必要となるとは思わなかった。

「早く起きて準備してね」

妻の声に駆り立てられ、しぶしぶ起きていくと、長男はすでにジャージに着替えて野球帽をかぶっていた。ユニフォーム一式はスポーツ店に注文したが、まだできあがっていないという。ちなみにグローブもバットも持っていない。妻と長男で買いに行ったものの、あまりに種類が多くて決めきれなかったそうだ。

「お父さん、一緒に行ってグローブ選んでね」

長男にそう言われたものの、私だってグローブなんか分からない。チームメートが使っている種類を覚えておいて、同じものを買えばいいだろう。長男にそう言っておいた。

朝食が準備されていたが、前夜に深酒したこともあって食欲がない。「帰ってから食べるよ」と言って、ジーンズにセーターといったラフな服装に着替え、ダウンジャケットをはおって家を出た。年長の長女はまだ眠そうだったが、1人で家に置いていくわけにもいかないので無理やり起こして連れて行った。

自宅から徒歩10分ほどの公園に着くと、ユニフォームを着た子どもたちが集まっていた。長男より体が大きい子ばかりだったので上級生チームなのだろう。

その中に同じユニフォームを着た大人がいた。彼が監督だという。身長は180㌢以上あるだろうか。そして失礼ながら、かなり太っていた。一見するとスポーツマンには見えないが、学生時代は大きな体を武器に運動部で活躍し、社会人になってから不摂生で太り続けた…というタイプは会社の同僚にもたくさんいる。

監督は私たちを見つけると、笑顔で近付いてきた。

「今日から入団される方ですね。代表から聞いています。監督の○○です。今後ともよろしくお願いします」

「こちらこそ、お世話になります。息子は初めて野球をするのでご迷惑をかけるでしょうが、よろしくお願いします」

握手を求められ、監督の大きな手を握り返した。見た目はちょっと怖いが、礼儀正しい好人物らしい。これで役目は果たしたとホッとしたとき、監督が「ところで…」と言い出した。

「奥様から聞いていると思いますが、私どものチームは保護者が監督、コーチを務める形で運営しています。私の息子も今6年生で所属しているんです。ぜひお父様もコーチ登録して一緒にやっていきましょう」

妻から聞いていたので、断りの言葉は考えてきた。コーチをやってくれている方に失礼のないよう、しかし、きっぱりと断らなければならない。私は体育の授業以外でスポーツをしたことなどないのだ。

「チーム方針は聞いておりますが、私はスポーツ経験もありませんし、野球はルールも分からないのです。かえってご迷惑をかけてしまうので、コーチではなく、いち保護者としてのお手伝いを精いっぱいやらせていただきます」

仕事では「できれば…」「希望しております」などニュアンスを弱める言葉を多用するが、ここでは語尾を断定にすると決めていた。「精いっぱいやりたいと思います」ではなく「やらせていただきます」と言ったのは、私なりに強い決意を込めていた。

「いえ、皆さんそうなんですよ。野球経験者はごく一部だけ。多くは未経験者で、できることを無理せずやっているだけです。プロでも、甲子園を目指す高校野球チームでもなく、地域の子どもたちが集まって野球を楽しむチームですから。私も監督などと呼ばれていますが、学生時代はバレーボールです。お父様もバレーボールをやっていたと聞きました」

おいおい、随分と余計なことを言ってくれたじゃないか。隣にいる妻をちょっとにらんだ。中学に入学したときバレーボール部は部員が5人しかいないと聞き、のんびりした楽な活動をイメージして入部した。だが、実は全国大会にも出る強豪で、あまりにも練習が厳しいために退部者が続出していたと後に知り、慌てて退部したのだった。だから在籍2カ月で、その間も「風邪を引いた」「具合が悪い」などと言ってほとんど顔も出していない。なお、ともに入部した同級生たちは年間無休のハードな練習に耐え、3年生のときには全国大会でも上位に進出している。それは素直に「すごいなあ」と感服したが、うらやましいとも思わず、自分が続けているイメージも沸かなかった。顧問の先生が口にしていた「勝利こそすべて!」というセリフなど、なじみのない外国語よりも意味がわからなかった。

妻には、私の〝黒歴史〟として笑い話に話したのだが、まさか経験者として人様に明かされるとは思いも寄らなかった。

「バレーボールって、それも途中退部で… 基本的に運動嫌いなんです。自転車も電動付きですから」

「まあ、無理をなさる必要はありません。『やれることを可能な範囲でやる』。これがチーム方針ですから。お仕事の都合もあるでしょうから参加できるときだけ気軽に来てくれればいいです。結果的に1年に1回だけの参加でも誰も文句を言いませんよ。単身赴任している方でもコーチ登録をしていますから」

「はあ……、ではちょっと考えてきます…」

とにかく、この場を立ち去ろうとごまかすことにした。しかし、監督には通じない。

「じゃあ、登録しておきますね。コーチも保険に入る必要があるんでね。もちろんチーム費でまかなうので心配はありません。ねえ、ちょっと倉庫からコーチ用の帽子を持ってきてよ」

「いや、あの…」

断る間もなく、帽子を渡された。

「今日はお休みですか? じゃあ、帽子かぶって参加していってくださいよ。下級生チームのコーチに伝えておきますので。よかったらジャージか何かに着替えてください。汚れちゃうかもしれないから。では、私は試合に出かけてきます」

体の大きな監督は笑顔で私たちの前を離れていった。隣の妻を見ると、ニヤニヤ笑っていた。

「いいの?」

「いいわけないだろ。コーチなんてやれるわけがない。でも、あそこまで言われて断れないだろう」

「そうだね。今日だけ参加してみたら」

仕方がない。下級生チームの方々にも挨拶しなければならないし、とりあえず帰宅して朝食をとりジャージに着替えることにした。大事な息子がお世話になるチームなのだから、今日1日だけ耐えよう。覚悟を決めた。

9時。下級生チームの監督はスマートなビジネスマンというタイプで、威圧感がまったくない人物だった。安堵して挨拶をすると、子どもたちを集めて大きな声で言った。

「みなさーん、今日から新しい仲間ができます。3年生の○○君です。学校で友達の子もたくさんいるよね。仲良く野球をやっていきましょう。そして…」

監督は私の方を見た。

「お父さんもコーチとして参加してくれます。○○コーチでーす! あいさつをしましょう」

選手たちは整列をすると、キャプテンらしい子が「きょーつけ、れー」とかけ声を上げた。

「○○コーチ、よろしくお願いします!!」

生まれて初めてコーチと呼ばれてしまった。このとき初めて、自分が深みにはまっていくようなイヤな予感がした。(つづく)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?