「乃木坂って、どこ?」と「乃木坂工事中」から見る乃木坂46のモヤモヤ―アイドル番組の功罪をファンの立場から考える― 2/2

5.「乃木どこ」「乃木中」の問題点

①異性愛主義

「アイドルについて葛藤しながら考えてみた」では、アイドル文化全体に異性愛主義が蔓延っていると指摘しています。つまり、異性愛が「普通」の恋愛形態であり、同性愛は異質、異端とする考え方です。そして、女性アイドルグループに暗黙の了解として漂う、「恋愛禁止」は異性愛主義を前提にしていると同書では述べられています。

乃木坂46は公式に恋愛禁止を謳っているわけではありません。しかし、男性とのデートや路上キスが報じられたメンバーは人気が落ちたり、ラジオ番組で釈明、謝罪させられたりと、実質的には恋愛禁止のグループです。グループを卒業後、すぐに結婚したメンバーには「卒業前から交際していたのではないか」というバッシングがなされました。交際時期は卒業の直後からだと本人から説明がなされたものの、本来なら「卒業前に交際をするのはそんなに悪いことなのか」という議論があってもよかったでしょう。個人的には、女性アイドルの恋愛禁止はまったく無意味な制度だと思っています。

ただ、「乃木どこ」「乃木中」では、恋愛を連想させる企画が数多く放送されてきました。クリスマスや夏休みを題材にした「妄想シリーズ」では、メンバーがコント仕立てで告白を行っています。このとき、メンバーの相手役を務めるのは男装したメンバーか、司会の日村さんだと決まっています。つまり、当たり前のように相手は男性なのです。

しかし、「妄想シリーズ」は繰り返し放送される人気コーナーとなりました。実際のスキャンダルのように、メンバーがバッシングされないのは、「相手が女性(もしくはメンバーから異性として認識されていない日村さん)であり、実際の恋愛でないことが分かっているから」でしょう。つまり、視聴者は安心して画面を眺めながら、メンバーの表情や仕草に妄想できるのです。例外は、2017年の「クリスマスSP 妄想恋愛アワード2017」で、相手役は男性俳優が務めました。おそらく、再現ドラマ形式のVTR中心だったので、男装メンバーではリアリティに欠けたからでしょう。なお、2020年2月放送の「妄想恋愛グランプリ2020」では、再び男装メンバーが相手役に戻っています。

ここで自分はどうしても疑問に思ってしまいます。女性同士が恋愛のシチュエーションを演じるにあたり、相手役に男装させる必然性はあるのでしょうか。ここでは、制作陣の「女性同士の寸劇なら問題ない」「恋愛禁止のルールに反しない」という考えが反映されています。さらに、視聴者の「女性同士のやりとりなら安心して見られている」という意識も重ねられます。もっというなら、「日村さんなら安心」という見方にも、若干のルッキズムの問題が孕まれているでしょう。

バレンタインデー企画でも、タイトルには「好きです先輩」のフレーズがあり、「後輩から好意を持っている先輩にチョコレートを渡す」という、視聴者が恋愛を連想してもおかしくないシステムが採用されています。それなのに、この企画を恋愛禁止の面からバッシングする声はほとんど聞こえてきません。メンバー同士で好意を公にしていても、視聴者の嫉妬の対象にはならないのです。

なお、バレンタイン企画ではあるメンバーが「後輩とキスをしたことがあるから、私にチョコレートをくれるはずだ」と主張したことがありました。某メンバーは路上での男性とのキス写真をスクープされ、ファンから激しく批判された過去があります。しかし、メンバー同士のキスは「微笑ましい」「癒される」といったリアクションを招きこそすれ、批判は受けません。ここには「同性のキスは、性愛とは違うたぐいの親しみの表現だ」という思い込みがあるのです。

番組に根差している異性愛主義がどれほどメンバーに影響しているかは不明です。ただ、メンバーは番組内の企画で屈託もなくお互いを「好き」と言い合い、日常的なスキンシップを微笑ましいエピソードとして語ります。それ自体に何の罪もありません。むしろ、ファンとしてはそういう話を聞いていて、心から癒されます。愛するグループのメンバー同士が仲睦まじいことは、素直に嬉しいと感じます。

自分がおかしいと思うのは、メンバーも制作陣も視聴者も、ここで言われている「好き」が「人として好き」という意味なのだと信じて疑っていないことです。最初から「メンバー同士の好きは恋愛にカウントされない」と決めつけています。「乃木どこ」「乃木中」がメンバー同士の仲睦まじさを強調する形で、逆説的に異性愛主義を広めている側面はあるのではないでしょうか。そして、そのことが乃木坂46の恋愛禁止ルールをより強固にしているのではないでしょうか。

2022年4月のエイプリルフールでは、とあるメンバーがSNSで、卒業メンバーとの2ショット写真を投稿し、「この度、友人の生田絵梨花と式を挙げました」というコメントを添えました。2人はウェディングドレス姿で、「女性同士で結婚式を挙げた」と解釈できる内容です。投稿には「#エイプリルフール」のハッシュタグもありました。この投稿は炎上を招き、LGBT専門家がメディアを通して批判する事態となります。

批判に対し、乃木坂ファンからは「ネタに抗議するのはおかしい」「微笑ましいとしか思わない」など、怒りを表す意見が相次ぎました。2人の仲睦まじさは「乃木どこ」「乃木中」でも再三語られてきたので、乃木坂ファンは投稿を「友達同士の可愛いネタ」というエピソードとして消費しやすかったのでしょう。

しかし、乃木坂46の文脈をまったく理解していない人が、「同性婚を連想させる写真がエイプリルフールのネタにされた」という事実に、反感を覚える気持ちは分かります。そして、「メンバー同士の結婚は嫉妬の対象にならず、ひたすら微笑ましい」という、ファンの眼差しも考え直さなくてはならないでしょう。異性とのデートやキスには過剰なほどのバッシングをする人たちが、ネタとはいえ、女性同士の結婚は穏便に済ませてしまっているのですから。

ここでは、異性愛主義から発展し、女性同士の恋愛を美しく特別なものとして見守るような視点も含まれていきます。いわば、百合文化と呼ばれるような価値観です。無視できないのはメンバー(もしくは運営)が、ファンのこのような視点を前提としたうえで、エイプリルフールの投稿をした事実です。「乃木どこ」「乃木中」でたびたび、異性愛主義や百合的な世界観が企画化されている以上、冠番組と乃木坂46(とそのファン)に根付いている考えを、無関係とは断言できないのではないでしょうか。

なお、男装メンバーや司会者を相手役とした恋愛シミュレーションは、48グループや他の坂道グループの冠番組でも行われており、乃木坂46の特性でないことは記しておきます。

②家父長的な演出

乃木坂46は他のメジャーなアイドルグループと比べて、女性人気が高いと評されています。事実、白石麻衣さんや西野七瀬さん、橋本奈々未さんのファンは女性比率が高かったですし、コンサートにも多くの女性が足を運んでいます。しかし、それは乃木坂46が女性を積極的にエンパワーメントしているからではなく、憧れや慈愛の眼差しで接している女性ファンが多いからのように見えます。

事実として、乃木坂メンバーから、日本で女性が置かれている立場についての発言はほとんど見られません。また、乃木坂46が発信している楽曲のすべては秋元康氏によって歌詞が書かれており、女性の気持ちを代弁している側面は薄いといえます。「女はひとりじゃ眠れない」のように、歌詞の内容が女性蔑視的だと批判されたことすらありました。

もちろん、乃木坂メンバーのルックスやキャラクター、メンバー同士の絆に励まされ、毎日の糧にしているファンは男女問わずたくさんいるでしょう。しかし、それは受け手の解釈のひとつであり、乃木坂46自体が女性の多様な生き方を肯定的に発信しているとは書きにくいと思います。

乃木坂46が男性ファンに偏った表現を続けている原因のひとつは、秋元康氏を筆頭に、乃木坂46の運営の中枢にいるのが中年以上の男性だからだといえます。そして、乃木坂46が基本的には「推し」という名目で、(異性愛主義を踏まえた)ファンとの疑似恋愛を約束しているグループだからです。

必然的に、乃木坂46の活動では、「男性に奉仕する」ような場面が多く見られます。乃木坂46メンバー本人が登場するアプリケーションゲーム「乃木恋〜坂道の下で、あの日僕は恋をした〜」では、プレイヤーは男性目線でメンバーとの恋愛を体験します。また、メンバーが「あざとい」「ぶりっこ」と表現されるときは、「男性に対して」という前置きが付きます。結果的に、あざとく振舞っているメンバーを女性ファンが肯定的に捉えているケースも多いでしょうが、それでも、メンバーの発言や仕草は男性ファンに向けられています。

女性アイドルが男性に対し、魅力的に見えるよう振舞うのは悪でも何でもありません。しかし、それをプロデュースする側が、「男性に奉仕するのはアイドルとして当然」という偏った考えに陥っているなら、家父長制の悪しき部分が表出してきます。

初期の「乃木どこ」では芸能界の先輩が、メンバーに大御所との接し方やバラエティ講座を伝授する企画が数多く実施されてきました。その多くは、男性の芸人から乃木坂46に教える形がとられていました。女性アイドル、女性バラドルの立場でしかも、「教える」役割を任されたのは、秋元康プロデュースのライバルグループ出身者が大半でした。つまり、彼女たちは手本として「アイドルとしての上手な立ち回り」を示しに来たのです。

「乃木中」に移れば、2017年6月には「胃袋とハートを鷲掴み 乃木坂46手作りお弁当GP」が放送されています。ここでの「鷲掴み」とは「年上の男性」のことであり、実際に、メンバーの作ってきた弁当を彼氏役で試食したのは日村さんでした。

2022年5月には「祝! 日村勇紀 50歳! 私たちが楽しませます! 乃木坂46 ヒムランド!」で、日村さんの50歳の誕生日がお祝いされました。その内容は「日村のカラオケにメンバーが合の手を入れる」「日村のグッズを身にまとい、はやし立てる」など、日村さんを盛り立てることに終始していました。メンバーから日村さんへの悪口も発していたので、純粋に「楽しませます」というだけの企画だったわけではありません。それを考慮しても、誕生日をお祝いするために、「男性の年長者をにぎやかす」という企画が通ってしまったことは事実です。

2021年8月には「大御所にハマれ! おじさんあるある勉強会」が放送されました。メンバーがテレビ番組にもっと呼ばれるよう、「おじさんの大御所にハマる知識を身につけよう」という企画です。ここでも、ナチュラルに「芸能界の大御所は男性」「大御所に合わせればテレビに呼ばれやすくなる」という価値観がまかり通っています。

バナナマンと乃木坂メンバーの絆はとても美しく、感動的です。しかし、その絆に隠れて、「乃木どこ」「乃木中」が男性優位の価値観を発信し続けていること、年功序列や家父長制を疑ってこなかったことは、留意するべきだと思います。そして、こうした考え方は乃木坂46の運営の中枢によるものである可能性が高いでしょう。

だとすれば、乃木坂46のメンバーたちは家父長制や年功序列に対抗する術も知らないまま、女性蔑視的な視点も「そういうもの」として受け入れなくてはならない状態に置かれているということです。

乃木坂46が商業的成功を収めてからというものの、ほとんど常に、体調不良で休養しているメンバーがいます。家父長制や男性優位社会とメンバーの不調を結びつけるのは、あまりにも安易だとは思います。それでも、彼女たちの心身の負担を考えた場合、少しでも「自由意志が守られていること」「活動に選択肢が残されていること」は重要です。女性アイドルだからといって、男性ファンの気持ちを中心に活動しなければならないという理屈はないはずです。

③プライベートとメディアの境界の決壊

メンバーのパーソナリティが暴露され、番組内でネタ化していく「乃木どこ」「乃木中」は、個性のPRの場として機能してきました。一方で、メンバーの些細な一面が番組で特集されることにより、あたかも本人のすべてのように見えてしまう危険も孕んでいます。

難しいのは、司会のバナナマンからすると、メンバーの一部分を切り取り、話を広げることが「親心」でもある点です。たとえば、バナナマンは選抜回数の少ないメンバー、選抜未経験のメンバーに見せ場を与えようとしてくれます。この親心により、矢久保美緒さんは「ジブリのようなしゃべり方」という個性を見出されました。弓木奈於さんは天然ボケをつっこまれるようになり、ラジオや動画コンテンツでの活躍もあいまって、選抜入りの足掛かりとします。

しかし、新内眞衣さんに対する「ババア」という発言のように、たとえ親心であっても一般的には許されない接し方も少なくありませんでした。学力テストで下位になったメンバーは「頭NO王」「おバカ」と呼ばれ、イメージが定着していきます。本人たちからすると、「目立てたからいい」「盛り上がったならいい」という思いもあるでしょう。それでも、エイジズムや学歴差別は社会的には深刻な問題であり、「アイドルなら例外」と言い切っていいのかは微妙なところです。さらには、「ババアだから好き」「おバカだから好き」というファンがいたとして、その人がアイドルに対し抱いてしまっている優越感も見直す必要はあるのではないでしょうか。

何より、番組内で見出された乃木坂メンバーのキャラクターは、握手会やミーグリによってファンから指摘され続けます。本人にとっての一部分が大量のファンによって強化されていき、プライベートとメディアの境目が決壊する現象にまで発展しかねません。見出されたキャラクターの良しあしではなく、「自己が他人に決定されていく」という状況が問題なのです。

こうした問題は、「乃木どこ」「乃木中」だけの責任ではなく、接触イベントを中心に据えるビジネスモデルでは避けられない闇だといえるでしょう。

まとめ

アイドルにとって、冠番組を持てていることがどれだけ恵まれていることなのか、ここで繰り返す必要はないでしょう。乃木坂46が女性アイドルグループとして日本のトップに立てたのは、「乃木どこ」「乃木中」という、強力な発信の場が大きく関係しています。

しかし、かつてのAKB48のドキュメンタリー映画がそうであったように、運営主導でメンバーの素に迫ろうとするコンテンツには、少なからずマーケティング的な意図が働きます。そして、「乃木どこ」「乃木中」は運営の偏った思想と、メンバーへの強制を体現するコンテンツにもなっています。

一方で、番組内で見せるメンバー同士のふれあいや、わずかなチャンスをものにしようとする無名メンバーの頑張りは、決して否定されるものではありません。自分はアイドルが冠番組を持つことそのものを否定したいのではなく、その社会的責任を今一度考え直してほしい。そのような思いからこの記事を書きました。

いうまでもなく「メンバーが満足しているのだから、議論などしなくていい」という思考停止には陥りたくありません。もしも選択ができるのなら、恋愛を楽しんだり、年長者にへつらうような行動を避けたりするメンバーは必ずいるでしょう。そのうえで、あえて「恋愛をしない」「年長者を敬いたい」というメンバーもいるはずです。

自分が言っているのは選択肢の話です。運営側が提示した選択肢しか許されず、メンバーが無条件に状況を受け入れ、ファンからも疑問が呈されない。その結果、ファンが外部からの批判に敵意しか向けられなくなり、アイドル文化への学びの機会を失っていく。そうなりつつある一部の乃木坂46のファンダムが、少しでも変わっていくといいなと思います。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?