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【つまらない映画感想】『大怪獣のあとしまつ』は何がこんなに不愉快なのか?~オヤジの傲慢が日本映画をゆがませる~

誰もがそう言うように、『大怪獣のあとしまつ』(2022)という映画はつまらない。そして、単につまらないだけでなく、ある種の邪悪さ、非道さも含んでいると思う。もちろん、これらの欠点は日本映画全体の問題だ。あえてメジャーとかマイナーとか商業とかインディペンデントという言い方もしたくない。日本で行われている映画制作ないしは、クリエイティブ活動に共通している問題である。

それでも、どうして『大怪獣のあとしまつ』が飛びぬけて観客を怒らせているのか?というよりも、私を怒らせたのか。その理由を述べていきたい。

日本社会の構図をそのまま体現している

結論を先に書く。『大怪獣のあとしまつ』という映画の不愉快さは、「年長の男性たちが偉そうにふんぞり返り、若者(特に女性やマイノリティ)に同調を求める」日本社会の構図を、そのまま体現しているからである。

『大怪獣のあとしまつ』の構成要素を解体していこう。

・大怪獣

・巨大ヒーロー

・特殊部隊

・犠牲的精神(特攻隊精神)

・ポリティカル・サスペンス

・陰謀と暗躍

・都合のいい愛人

・下ネタ

・月日が流れても、男性を思い続けてくれる美女

・『AKIRA』

いくら挙げてもいいのだが、これくらいに留めておく。見事なほど、男性的な要素だけで本作は成り立っている。「男性が監督し、男性をターゲットにした映画なのだから当然だ」という意見もあるだろう。だが、『大怪獣のあとしまつ』は全国368のスクリーンで公開されている、「超大作」の部類である。(ちなみに、このスクリーン数は『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』(2022)よりもやや多い)「男性だけをターゲットにしているのだから、女性は我慢してほしい」との弁解は成り立つのだろうか。

もっというなら、『大怪獣のあとしまつ』が男性的な要素で構成されていることが一番の邪悪ではない。本作が男性的な要素で構成されている事実に、作り手も配給も宣伝も無自覚すぎることが邪悪なのだ。

帳尻を合わせるためのマーケティング戦略

さて、ここで昔のレビューを引用しよう。自分の文章で申し訳ないのだが、2020年4月、『一度死んでみた』という映画についての感想である。

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オヤジギャグと呼ばれる中高年の言動がどうして薄ら寒いのかというと、笑いのクオリティが低いからではない。幼稚でくだらない発言を、本人だけは本気で面白いと思っている構図がどこまでも気持ち悪いのである。しかも、ある程度の社会的地位がついてきたオヤジだと、「自分ほどの人間がギャグを言ってやっているのだから、笑ってくれないわけはない」という傲慢も見え隠れする。日本のバラエティー番組を見てみよう。お笑い芸人や大御所芸能人が下品な会話をしているとき、女性アイドルたちはひたすら愛想笑いや相槌に徹している。あのグロテスクさこそ、オヤジギャグの害悪そのものだ。

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この指摘は、『大怪獣のあとしまつ』でもほぼそのままあてはまる。監督・脚本を手がけた三木聡は、大怪獣や特撮ヒーローが本気で好きなのかもしれない。松竹や東映のプロデューサーたちは本気で三木聡の才能にほれ込んでいたのかもしれない。ただ、それが何だと言うのだろう?

普通に考えて、2022年にゴジラやウルトラマン以外で、怪獣や巨大ヒーローを題材にした日本映画がヒットする目算などあるわけがない。

盛り上がってしまった中高年の男性たちのせいで、走り出した企画をどのように仕上げるか。少しでも女性や若者に受ける要素を混ぜて、オヤジ臭をマイルドにするしかないだろう。主演はジャニーズのタレントにしよう。恋愛要素も取り入れて、人気俳優にもカメオ出演してもらおう。そして、俳優陣にはテレビのバラエティ番組に出演してもらい、映画の宣伝を担ってもらうのだ。

いうまでもなく、ならば最初から怪獣映画など撮らなければいい。ジャニーズタレントと若手女優の恋愛映画にすればよかったのだ。帳尻を合わせるためのマーケティング戦略はすべて、本作の発端がそもそも「取るに足らないほど退屈な企画」ということだけを示している。

「怪獣映画はヒットする」という認知のゆがみ

さて、『大怪獣のあとしまつ』が『シン・ゴジラ』(2016)の影響下にあることは明らかだ。東宝のビッグコンテンツとなった、『シン・ゴジラ』。その成功にあやかろうと、松竹と東映はパロディ喜劇の体裁を取りつつ、方法論を丸パクリした。つまり、群像劇と政治的駆け引き、学術用語の嵐である。

とにかく映画を見る目がないことでおなじみの評論家、前田有一は、『大怪獣のあとしまつ』の作劇をこのように酷評した。

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「お客さんは『本格的なSF作品』を期待していたと思うんですよ。怪獣映画自体はたくさんある中で、怪獣を倒した後、その死体をどう処理するのか。それを現実の世界でやったらどうなるのか。この着眼点は最高でした」


「お客さんは、『シン・ゴジラ』で描かれていたような、緊迫感のある政治や軍事シミュレーションを観られると思っていたのだと思います。だけど、実際そんなものは1ミリたりとも観られなかった。観られるのは、滑りまくりのギャグや、現実味ゼロの政治・軍事描写。リアリティが全くない脚本、人間描写。一つもお客さんの期待に応えていない。これでは、酷評されるのも仕方がないと思います」

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何を言っているのだろうか。予告編を見た段階で、『大怪獣のあとしまつ』がリアリティなど求めていないコメディなのは分かり切っている。本作が観客の怒りを買ったのは、「緊迫感のある政治や軍事シミュレーションを観られると思っていたのにコメディだったから」ではない。コメディとしての出来がひどかっただけである。

いうなれば、「着眼点はよかった」とする評価からして、前田の意見は典型的な男性性から脱却できていない。だって、怪獣の死体を始末する話なんて、そもそも見たいですか?普通は、怪獣が死体になる話にみんな興味があるんじゃないですか?「怪獣映画の新しい着眼点」を求め、それを面白いと思っているのは誰なのだろう。

前田も含めて、浅はかな映画関係者が犯している認知のゆがみは、「『シン・ゴジラ』は政治や軍事のシミュレーションとして優れていたから面白かった」というものだ。映画ファンや特撮・軍事オタクでない限り、一般の観客は『シン・ゴジラ』に登場する固有名詞を深くは理解していないだろう。『シン・ゴジラ』が面白かったのは、庵野秀明をはじめとするスタッフが、怪獣映画やゴジラに愛情を注ぎ続けてきたからである。そして、自分たちの愛情を、第三者に伝える術を知っていたからである。その結果、『シン・ゴジラ』は怪獣映画や特撮に興味がない層にも「なんか面白い」というレベルで受け入れられたのだ。

『大怪獣のあとしまつ』には、ジャンルへの愛情も創意工夫も感じられない。ヒット映画の上澄みだけを引用し、パロディという逃げ道を用意しただけだ。その浅はかな作業の根底は、「怪獣映画ならみんな見たいだろう」という謎の妄信である。

若い世代に怪獣オタクはたくさんいる。女性の怪獣オタクだって少なくないだろう。ただ、「誰もが怪獣映画を見たがっているはずだから、大金をかけて映画にしよう」レベルの、根拠のない思い込みを抱いてしまう人間は中高年のオタク男性でしかありえない。

権力と金を握ったオヤジに奉仕する創作

別に、中高年のオタク男性が悪いと言いたいのではない。クエンティン・タランティーノやスティーブン・スピルバーグ、ギレルモ・デル・トロも中高年のオタクだが、彼らの作る映画は死ぬほど面白い。我々が認識するべき日本映画のゆがみとは、「中高年のオタクの見切り発車を、無理に女性や若者に押し付けている」ことだ。

それは、忘年会の三次会のカラオケで、自分たち世代のヒット曲を若手社員に歌わせたがるオヤジたちの心理である。

それは、20代の社員に「自分たちのころはもっと頑張っていた」と説教したがるオヤジたちの心理である。

それは、「昔はよかった」が口癖になったオヤジたちの心理である。

注意しておきたいのは、こうしたオヤジたちの傲慢は、作品の規模やジャンルなど関係なく、クリエイティブ業界のあちこちで起きている。アイドル番組で、10代の女性が『キン肉マン』を強制的に読まされ、知識をチェックされるような時代なのだ。日本のエンタテインメントは、創作のすべてが権力と金を握ったオヤジに奉仕している。『大怪獣のあとしまつ』はそんな、地獄のような状況をひたすら浮き彫りにする。

最後に、自分が『大怪獣のあとしまつ』でもっとも腹を立てている点について書く。

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