センチメンタリズムよりも信用できるリリシズムに貫かれた傑作『風の電話』

映画の物語とはどこに宿るのだろうか。日本映画はそんな簡単な問いに対する答えすら忘れてしまった。言うまでもなく、物語とは画面に宿る。スクリーンに映った現象こそがストーリーであり、それ以外の要素は装飾か説明でしかない。もっと酷い作品になれば、ほとんど蛇足のような要素だけで画面を覆い隠そうとしてしまう。このような破廉恥なごまかしに背を向け、徹底的に物語を映し出そうという信念だけで構成された傑作が『風の電話』である。
『風の電話』は全編にわたって、ほぼ同じシチュエーションが繰り返される映画である。冒頭、岩手県大槌朝出身の女子高生、ハル(モトーラ世理奈)は、自身を引き取って育ててくれた広島の叔母とともに朝食のテーブルに着席する。東日本大震災で家族を失ったハルは、その心の傷が癒えず無口な少女に見える。ただ、ほとんど無意識的に食卓の用意を叔母とやり遂げてしまうその光景は、彼女にとって広島での生活も大切な日常となっていることを示唆する。
このとき、画面中央には家の主である叔母が座っている。そして、その左隣にはハルが横顔を観客に向ける。その2人の位置こそ、ハルの気持ちをどのような台詞よりも饒舌に表す。叔母がハルに大槌町へ帰省するつもりはないかと持ちかけているのは、とりあえず頭に留めておく程度でいい。それよりも、叔母のように正面を向かず、それでいて観客に背中を向けているわけでもないハルの姿こそ、彼女の精神的な拠り所の曖昧さを観客に伝えるのだ。
映画はその後も、「食事」というモチーフを何度となく登場させる。叔母が急に倒れ、悲しみに打ちひしがれたハルを拾ってくれた農家で。大槌町にヒッチハイクで向かうハルを乗せてくれた姉弟とともに囲む中華レストランで。いずれも、ショットの初めはハルの背中越しに、他の登場人物が映り込む構図となっている。それは、ハル自身が彼らと打ち解けられておらず、他者として接しているからである。そのとき、どのようにしてアングルが変わり、ハルの顔が画面に映し出されるのか。その感動はぜひ、上映の機会にその目で確かめてほしい。
ハルは、元原発作業員で訳あって車中泊の生活を続けている森尾(西島秀俊)と出会う。劇中、全ての登場人物で群を抜き、生活というものへの興味がなさそうな男だ。彼が食事といって買い込んでくるのはコンビニエンスストアの菓子パンである。車内でそれをハルに手渡した後、森尾はハルに背中を向けて咀嚼する。食事のシーンで、ハル以外で観客に背中を向ける唯一の人間が森尾なのだ。そのショットは森尾の心にある暗い部分を観客にほのめかす。
森尾は恩人の家族が住むクルド人の元を訪れる。ここでもまた、食卓というモチーフが登場する。ハルはクルド人の少女の隣に座り、劇中でもっとも饒舌に家族の話をするだろう。同世代の少女の前で年相応のあどけなさを見せるショットにより、観客はようやくハルをタナトス的なイメージから解き放つ。当然ながら、このシーンでカメラは迷うことなくハルの顔を真正面で捉えている。ただ、森尾の実家でハルが夕食を振舞われる場面にて、再び彼女は観客に背を向けることとなるだろう。
森尾に連れられ、大槌町に戻ったハルは洪水で流された実家の跡を訪れる。自分の「家」の不在に苦しんできた少女の苦しみは、ここでも解消されることがない。あるときはカメラに背を向け、あるときは横顔を見せてきた少女はこのシークエンスの最後で、仰向けに寝転がるという行為を選ぶ。あたかも、今はなき「家」の記憶と一体化するかのように。ただ、そのような叶わない望みは、森尾に起こされるという形で終焉を迎える。
それでも、本作が登場人物に寄り添わない、ニヒリズムに支配された映画だと解釈するのは早計だ。本作にはセンチメンタリズムよりもはるかに信用できるべき感覚、そう、リリシズムがある。諏訪敦彦監督は「風」という演出で、生者と死者の世界をつなごうと試みた。森尾が数年ぶりに福島県の自宅を訪問し、ガラス戸を開けるとき。暗い空間に日の光と風が舞い込み、カーテンを揺らす。玄関に立ち、逆光で映されているハルの髪を風が舞い上げ、彼女は後ろを振り向くだろう。
そして、本作はクライマックスでも風を吹かす。死者と話ができると言われている「風の電話ボックス」に、ハルは父親を亡くした少年と足を運ぶ。ここでハルがボックスに入った後で、どのように風が吹くのか。ハルがこの世のものではないだろう家族と言葉を交わせたのかどうか、その声で確かめる必要はない。まずはモトーラ世理奈の表情の芝居を注視しよう。それから観客は、彼女を囲む木々の揺れ方に心を打たれるだけで、本作の余韻が永久的なものとして刻まれるはずだ。

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