実りある学生生活を送らなかったことが自己責任なら、僕が小学生の頃気持ち悪いことをしてしまったのも自己責任なんですか?両親が喧嘩して証拠を探り合って不登校の妹を殴って、母親は貧乏なのにパートにも行かなず小遣いから模試代を出していたことも自己責任なんですか?どうなんですか?

実りある学生生活を送ることができなかった理由に、他者への不信が一因としてある気がする。とりあえず人を信じることができていればしくじっても嫌な思いをしてもなんだかんだ人を諦めることなく挑戦してなんだかんだいい思いもして居場所を作れたような気がしなくもない。是非はさておき、社会的に価値のある学生生活は送れたと思う。

他人を信じることができなかった理由はタイトルに大雑把に記した典型的な不和がきっかけだなのだが。

結局無価値な時間を過ごした成人男性を社会がそれとなく罰するのは、社会がそういう人間を擁護するリソースがないからであってそこに正義も悪もなくただ資源の不足による擁護行為の回避のみが存在しているのではないだろうか。小学生に優しくするのも、優しさや美徳があるからではなく、ただ余裕があるから優しくできるだけなんじゃないか。産業革命期は児童も過酷に働かされていたらしいし。知らんけど。

単に余裕がある/ないだけの話なのに僕のような成人男性を普遍的な善悪で論じてきたり、子供のことを普遍的な愛おしさを有している存在かのように扱うのは本当に傲慢で、腹立たしい。通帳の増減は気にするのに、他人に対する思いやりの残高は正確に計算せず、なんとなく見ないふりをして人権の大義名分の下に上部だけの尊重や過剰なレッテル貼りをされるのは気持ちが悪い。もっとドライに思いやり残高があるから君は優しくしよう!みたいな考えが一般化するべきだと思う。そりゃ数字で現し尽くすことは困難だろうが、少なくとも子供は一様に守る、尊いと思うのではなく、そして僕のような成人男性も邪悪だと扱うのではなく、単にリソースの配分が違うと割り切って欲しい。そうすれば僕も清々しく拒絶される。まず褒めてから叱るようなテンプレの拒絶や、優しいけど好きになれないとかそういうなんのクソの役にも立たない賞賛にエネルギーを使うくらいならもっと擁護すべき対象にエネルギーを使ってほしいと思う。

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