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自己を捨てるという支援

こんにちは!!やんちゃんねす🍫


僕はセラピストとしても、自閉症支援時代も、自分がやっていることを上手く説明できない人ですww今日ある方から「長嶋みたいだね」って言われました。でね、理由は簡単なんです。何かをする(doing)ことより、どう在る(being)ってことを大切にしているからです。

方法、スキル、答え、解決。そんなちょっと視点変えれば他人や時代に左右されるような不透明なもの(偽物の正しさ)を実行するより、絶対変わらない瞬間瞬間の時間を逃さないためです。

ちょっと西洋的な視点に喧嘩売ってる僕は、もちろんあんまり万人からは好かれないわけですが、少なくとも僕との時間を通して幸せだって言ってくれた当事者達は大勢いたわけ。

だから、何かになろうとは思わないし、立場は変わってもずっと同じことを続けているような気がします。

さ、前置き長いから今日の話題。「自己」を捨てる。

自己ってなによ


僕たちが知っている自己とは、いわゆる西洋的自己。自分がいて世界がある。つまり、自分の主観を通し自分が見ている世界がある。その「自分」ってやつを自己と呼ぶ。自己と他者を分けちゃえって感じ。

東洋では自己ってまた違う概念で、自分という存在は周囲との関係の中で生まれるもの。自分と認識出来るのは他者がいるから。

どっちが良いとか悪いとか言ってるわけじゃなく、そういう捉え方の問題。

障害福祉の世界に僕が感じる不可思議な支援。それはこの自己の捉え方に大きく関係していると感じます。

先に言っとくと、僕は現代の支援が好かん(僕の知っている限りね)人間は人間社会の歯車ではない。人間が人間として在るとは、個々のそのままの姿が多様に存在する中で、それが在ると認める社会基盤があることが絶対条件。

障害を障害とする社会事態が狂ってる


障害ってのは何か。

その言葉の概念が生み出すスタート地点は、標準より劣っているみたいなことではないのか。


健常者が勝り、障害者が劣る。そういう構造があるということ自体が本当はおかしなこと。


僕は本気でそう思っている。全然仕方なくなんかない。


そういう社会としてしか機能しないような状況を多数の人たちが作ってきたんでしょ。と思う。そういう意味で、そもそも社会自体が狂っている。


精神医療も支援者も狂った社会を促進する側の一員になるんです。本当は。だから、福祉に足を突っ込むなら、これに気づくこと位は出来ててほしい。


本質に沿わず本質を生み出す


狂った社会の中での正しい価値観による支援法。専門的とか言われる人は大体これをやってる。僕はそれで、障害者が豊かだなって感じたことがあんまりない。

ある方が言いました。「この施設の利用者の方達はとても落ち着いていて静かですね」

またある方が言いました「この施設は静かですね。ただなんというか、利用者さんの目に生気がないですね」

現代社会で「死んだ魚の目」とか揶揄されることってあるでしょ。僕は本気で危機感を感じました。専門性って枠の中で必死に支援をしたら、こうなるんだなって感じましたね。

すでにある物にはめていくことで、その人の可能性や世界観はどんどん殺される。

そもそも正しい(本質)なんて枠はない、その人と外部との関係の中で、いつも新しく生まれていくものです。その人と僕、その人と環境。決まりのないプロセスがあるから、新しい本質が出来上がっていくものだという事です。

狂った社会の正しさを前に置かない。常にその人と自分との関係を今から作っていく。これが支援者だと僕は思う。


自己を捨て、常にゆだねる


正しさなんてない。新しく生み出すこと。だからそれは常に変化し、いつもオリジナリティに満ち溢れているわけです。

それは支援者、教育者、親、が自己という自分だけの主観に囚われないことから。そしていつも自分自身として在ること。

相手との関係の中にただ身をゆだね、何かが生まれる事に気がつくこと。出来事を判断、ジャッジせず、そのまま今からそれを感じはじめる事。

ただそこに在り、そこにいとどまること。そのプロセスこそ最大の支援。

何かをやろうとしない。何かになろうとしない。人が人と関わる中でその瞬間瞬間に生まれる事が、真の自己、だと思う。





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