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茶の湯に感じること

私は一年ほど茶道を習った経験がある。
茶道で一年というのはとても短い期間である。ほぼ素人だ。そういった初心者の目線で茶の湯に関して感じることを記しておきたい。

(以下、個人的な意見なので、私の誤認があるかもしれないことはご容赦いただきたい。)


茶道というのは不思議なもので、一つ一つの所作が決められている。茶室に入る一歩めの足は右足からか、左足からか、など、全ての動作が細分化されて様式として決まっている。
それは初めて体験する者にとっては、とても不思議で、場合によっては、堅苦しいと思われてしまう部分でもある。

なぜそこまで細かく様式化されているのか一年生の私には確かな事は言えないのだが、
一つ一つの所作には茶道の精神が込められていて、亭主としても、客としても、その場に集まった者すべてが、所作で表現しているのだと思う。
つまり、右足から入るのか、左足から入るのかは、"相手に対してより敬意を込められる動作"という観点で決められていて、その敬意を表現する動作の積み重ねが一連のお点前となる。
そして、その敬意を込めた動作を、亭主側も客側も表現している。

一つの舞台のように茶室に集った全員が共演している状態である。

舞台が滞りなく進行するように、水が流れるように自然体に、そして一期一会の奇跡的な瞬間として、茶会の場が高められた時、その茶会は価値あるものとなる。

物理的には後に何も残らない。茶会が終われば皆帰って行き、出来事として起こっただけになるのだが、その瞬間的な精神の高みと、同じ時間に同じ場に集い、茶を一服いただくということが、限りなく貴重で崇高な一瞬として、集う者だけに共有される。
芸術的でありながら、相手を思いやる気持ちで充満していく、とても限定的な時空と精神の共有といった感じである。
禅の精神が根底にあるといわれるが、禅修行とは違い、茶道独自に昇華された行為として、長い間受け継がれてきたのだと感じている。

茶道というと、世間一般には、たしなみや、マナーとして認知されていることの方が多いように感じる。その根底にあるはずの精神論が繰り広げられるような場面には、まだ出くわしたことが無い。(禅と同じく、安易に言語化することを避けるためなのかもしれないが…)
だが、私はその精神の方に惹かれる。極めて特異な日本独自の精神であり、そここそ大切に受け継ぎたいと思っている。

いつか、奇跡的な一瞬を誰かと共有するために、お点前のお稽古をしていきたいと思う。


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