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東日本大震災について、柳津町で思うこと。

花粉と黄砂に怯えながら春を待っています。事務局です。

あの大震災から12年が経ちましたね。最近ひょんなことから震災について考える機会があり、改めて少し触れてみようとnoteを開いています。

出来るだけさらっと書いていきますが、読んでいて気持ちが重くなった時はすぐにブラウザを閉じてください。この話題に限らず、辛い記憶は必要以上に思い出さなくていいと、個人的には思っています。


ひょんなこと

最初は「日本語も音も美しい曲だな」という淡い感想を抱いていただけの楽曲が、東日本大震災に縁のあるものだということが判明したことから始まりました。

こちら、ご存じの方も多いのではないでしょうか。
RADWIMPSのボーカル・野田洋次郎さんのソロプロジェクト「illion」が2013年にリリースした「UBU」というアルバムに収録されている「GASSHOW」という曲です。

歌詞の意味や制作エピソードなどは、ぜひ検索していただければと思います。

12年前の今日、できれば一生聞きたくなかった音が鼓膜を叩き続け、単なる想像で終わってほしかった景色は生々しく目の前にありました。

多くの人が何かを考えることや心を動かすことさえ億劫になりかけていた中で、最大限の「できること」を続けてくださった方々の力に、少しずつ顔を上げることができるようになっていきました。

あの日のことは、思い出したくない人もいれば、思い出さざるを得ない人もいます。とんと思い出さない人もいるでしょう。表に出さないだけで、心の中で静かに思いを馳せている人もいるはずです。

いずれに該当するわけでもないのですが、少し当時のことについて振り返ってみたいと思います。再度お伝えしますが、少しでも気持ちが暗くなってしまいそうであればすぐにブラウザを閉じてください。


あの日のこと

2011年3月11日。

桜の開花を予感させる暖かさが、街中に降りていた昼下がりのことです。東北地方広域を、M9.0、震度7相当の大きな揺れが襲いました。

目に見えて被害の小さかった地域では「今のは大きかったね」と息をつく瞬間もあったことと思います。恐らく、柳津を含む会津地域のほとんどがそうだったのではないでしょうか。

それだけで済めばまだよかったのにと思うばかりですが、自然はどうしてかそれを許してはくれませんでした。

被災地の人々の目には、通常ならあり得ないはずの流れ方をしている大量の水が映り続けました。その水に吞まれていく数多の命や生活の喪失を、文字通りリアルなものとして、受け止めざるを得ない状況になっていました。自然の猛威に立ち尽くし、失われていくものたちをどうすることもできないまま、泣いて耐えるしか選択肢のない時間が続いていきました。

そして同時に、彼らの耳には、悲鳴や嗚咽、やりようのない怒りの応酬など、凶暴な破壊の音がたくさん流れ込んでいました。大人は絶望と焦燥に揺さぶられながら必死に息をひそめ、耐え切れず泣き叫ぶ人も居たと聞いています。子どもたちはそれでも大人に頼るしかなかった、とも。

世界は様々な方面から、被災された方の気持ちをケアしようと動いてくださいました。物資、食料、土地、音楽、スポーツ、各イベント。凶暴な破壊の波に人々の心までもが飲み込まれてしまわないよう、一緒になって踏ん張ってくださる方がたくさんいました。当時はいっぱいいっぱいでしたが、改めて振り返ると本当にありがたい事だと思います。

しかし、こんな美しい話だけで終わらないのもまた、災害の恐ろしいところです。

想像を超える喪失の先で強いられた避難所生活。
そんな中で、得体のしれない不安に揺さぶられ続けた人間の理性は崩れ、そのせいで一生消えない心の傷を負ってしまった方々が数多くいらっしゃいます。

仕方がなかった、で終わる話ばかりではないというのが、この震災のもうひとつの恐ろしい部分です。

東日本大震災の直後、どこで何が起こっていたのかについては、ここでは詳しく触れない事にします。

もし触れる機会があれば、その時はぜひ「なぜそんなひどいことを」「腹立たしい」と怒れる心を忘れないでいてください。繰り返さないためには、ひとりひとりの心持ちも大切なのですが、何らかの具体的な策が必要だということも、どこかで思い出してもらえればと思います。

覚えていて欲しいこと

日本が地震大国であることや、子どものころから地震時についての教育を受けていることなどからも、私たちは突然の地震に対して比較的冷静でいることが出来る人種だと思います。

大なり小なり、枚挙に暇がないほど、日本は地震の多い国です。

wikipediaで表面だけをさらってみても、スクロールするのが疲れてしまうほどたくさんの地震を経験しています。

東北に限らず、関西地方や九州地方、北海道などでも大きな地震がありました。「人間は自然に適わない」という言葉の意味を、そういった災害が起きるたびに、まるで初めて知るかのように痛感します。

その痛みが去り切らないうちは、たとえば「ハザードマップを把握しておきましょう」とか、「水や食料を備えておきましょう」とか、防災意識が一時的に高まりますが、それもいつしか平和な日々の中に埋もれていくのが摂理のようになりつつもあります。

痛みや悲しみを忘れてしまうこと。
誤解を恐れずに言えば、それはいいことだと思います。

3.11のことは無理に思い出さなくていいし、反対に、無理に忘れようとしなくていい。あの凄惨な過去を、そのまま過去として大切にしておけるようになった人から順に、立ち止まってどうしようもなくなってしまっている人に寄り添っていければいい、自分自身もそうあろうと強く感じています。

TVの特集やネットニュースなど、東日本大震災を思い出すのは、そうやって見かけたときだけでもいいのです。

無事になりつつある自分達がとにかくやるべきことは、万一に備えつつ、日々を安全に積み重ねていくこと。毎日を普通に過ごし、小さな悩みや葛藤と共に生きていくことが最善だと、個人的には思っています。

この記事でお話したかったこと

「圓藏寺は幾度も大地震を耐え抜きました」とか「大震災を経ても柳津ひいては福島は元気になりつつあります」とか、そういうことをお話ししようかと思ったんですが、それはちょっとかこつけすぎだなと思ったのでやめました。実際、今でも避難生活を送っている方がいらっしゃいます。

あれから二桁の年数が過ぎ、当時は「子どもたち」という括りにあった方々も、今や否応なく「大人」と呼ばれるラインに足を踏み入れている頃です。

同時に、震災そのものや震災によって起きてしまった様々な出来事を知らない命も多く生まれています。後世に伝えることを恐れたり避けたりしたくはありませんが、むやみに恐怖を植え付けるようなこともしたくありません。

公式Twitterの方でも触れましたが、思い出し、伝えることは、苦しみを伴うことがあります。発信者には発信者の苦しみがあり、受信者には受信者の苦しみがある。「トラウマになってはいけない」という優しさのもとで何も知らずに育っていくことが、果たして十全な幸福につながるかと聞かれれば少し疑問が残るところですが、これは少しずつ向き合っていくしかない事なのだとも思います。

先に大人になった身として、恥ずかしながらカッコイイことは言えませんが、忘れてしまうことも忘れられずにいることも、どうか恐れないでください、とだけ書いて結びにします。


ありがとうございました

福島にも宮城にも岩手にも、もうすぐ春がやってきます。
東北の春は少し遅れてやってくるぶん、美しさもひとしおです。
どうぞ素敵な春に出会いに、お出かけください。

そしてぜひ、思い出してくださったのなら、柳津町にもお越しください。
柳津オリジナルの赤べこも、着々と準備が進んでいます。
そのお話はまた後日、町の桜が役目を果たした頃にお知らせしますね。


長くなりましたが、お付き合いいただきありがとうございました。
どうか穏やかな日々が、これからも長く続いていきますように。

2023.03.11

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