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「市長選に見える各々の戦いに、邪道と王道を見た。」

私が武内候補を押している事は、可也書いたので、青少年への教育指導者、児童教育家として、著述業として、日々勉強している視点から書きたい事を書く。

北九州市長選において、多候補の人と自分が推す候補者を、比較したり、例えば演説に出ない人を叩いたり、という事が散見される。

政治は綺麗事ではなく、相手への攻撃も必要なので、敢えてこの件に何も申し上げた事もなく、申し上げない。

さて下記は斉藤一斉の言葉である。
訳した所を本日、自分の勉強の為、当ジム児童や青少年への教育、今後発刊する書籍の為にと読み返した。
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佐藤一斎

理(ことわり)到(いた)るの言は、人服せざるを得ず。
然(しか)れども其(そ)の言に激する所有れば則(すなわ)ち服せず。
強(し)うるところ所有れば則ち服せず。
挟(さしはさ)む所有れば則ち服せず。
便(べん)ずる所有れば則ち服せず。
凡(およ)そ理到って人服せざれば、君子必ず自(みずか)ら反(かえ)りみる。
我れ先(ま)ず服して、而(しか)る後に人之れに服す。

【訳】
道理の行き届いた言葉には、誰でも服従しないわけにはいかない。
しかしながら、その言葉に激しいところがあると、聞く人は服従しない。
強制するところがあると、服従しない。
私心を挟んでいると、服従しない。
自分の便利のために言っているのであれば、服従しない。
およそ道理が行き届いているのに人が服従しない場合には、君子たる者、必ず自らに立ち返って反省をする。
まず自分が自分の行為に十分に従うことができて、しかるのちに人はそれに服従してくれるものである。

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私の悪い所は、当社クライアントが弁護士や、半グレの様な輩から道理の通らぬ事を言われた場合、私の道理が行き届いてる時、それ故に、相手の不正に言葉激しく、正義を認めるよう強制する所があった。
勿論、道理は此方にあるので、経営・危機コンサルタントとして、私の依頼者はいつも喜んでくれた。

ただこの手法はまず王道ではなく、また後で考えると無駄に敵を作り、私が言う事が道理があっても、全ての人が服従をしないのではないか?
そう思いこの様な勉強をし、自らに返る事を覚え、反省し行動をした。この事により私の思考は大きく変わった。

今日も昨日も、他の陣営の噂や、犯罪に近い候補者の事が多く耳に入って来る。

ただ書かない。少なくとも武内和久という男は、そんな事で喜ばない事を、私は知っている。

私は歴史から学び、アスペルガーという事もあり、上記の様な斉藤一斉の言葉等を、深く考える事が好きなので、ほんの一歩一歩進化させたい。

例えばガーシーなる者などは大嫌いで、如何なる事情があれど、相手と仲良くしていた時の秘密をバラす、と言う行為は男でも女でもない。
ただ動いて、飯を食べるだけの動物だとしか思わない。

この項を書く一つ前の投稿に、私はある市議の「夢を語っても絶対、北九州は100万人を超えない」という発言が、いかに寂しい事かを書いた。

仮に百歩譲って、選挙ではない時自分で発行する媒体で公に書いたなら、そこまで言う気はない。
しかし選挙前、市民の税金で職を賭す議員たる者の言う事ではない、と思う。

今回も4人の立候補者の討論会があった。
ある議員が「清水候補が、無所属だけど市長になればいいのにね」とSNSに書いた時、私ならそこまで言えば清水候補に鞍替えするのに、と思いながら、彼等の無党派層への分断工作だと直ぐに分かった。

そして今回の討論会である。
誰と誰がこの討論会で特をするか?

こんな事が1秒で読めなければ、私は25歳で市議の選対部長や、国政の選挙で大変なポジションを任されてはいない。

いくら作戦だとはいえ、SNSでの件の発言後、この度の討論会。
今は候補者は市民の声を吸い上げ、寝ずに市民に訴える時期である。

ゆえにこの討論会が、これは邪道だと私は言いたい。

邪道で天下は取れる。
ヒトラーしかり、中国やその他の国家主席を見れば分かる。

過去、同じマルクス・レーニン主義を唱えた共産主義なのに、ソ連と中共は手を繋ぎ、すぐに揉め、怒り争い解決がつかなかった。

これを指し、理論闘争の愚劣さ、と説いた安岡正篤氏は、今でも日本一、二の指南者である。歴代自民党総理総裁が皆この方に師事した。

しかし皆、氏のいう事を聞かず、現在氏の予言通りになっている。
これが日本の政治屋である。

そもそも政治家は国民の信の上に成り立つ。

田中角栄の側近が、金権問題で潰されるか?という時。
相談して来た田中角栄の側近に、勿論、信を問う解散総選挙、などと言うはずはなく、また金権問題が田中角栄にあったのかも聞かず、氏は「田中君はまな板の上の鯉になり、こう言うべきだ」と言った。

「私は貧乏な百姓の倅で、中卒で苦労し総理となりました。しかしこの度、国民の皆様の信を失いました。信を得ることが出来ない総理となった今、目白の自宅は外国の来賓館に、私の別荘は未来の学生の勉強をする為に差し上げ、私は野に下り一からやり直します」。

言われた側近は、感謝で泣きじゃくった。

この言葉を言えば、田中角栄は王道で再チャレンジしたかもしれないし、再度総理にならぬとも、王道を貫けたかもしれない。

晩年、これを言わなかった田中角栄は「俺はもっとあの爺さんの言う事を聞くべきだった」と後悔して言った。
これはキングメーカーから堕ちても尚、角栄氏が人としての道を探し続けた証左ではないか?

王道で天下を取る為に大切な一つに、上記の言葉を引用した。

政治家は特に言葉を明確に、強制でも自分の為に言うのでもなく、私心がなく言わなければ、心から納得し服従はしない。

武内氏が、選挙に行った事もなく、興味もない人の心を動かした事に、争いはない。

武内氏は王道で行く!と言った。確かにそう言った。

利害の一致でいい時ばかり組む人の、末路は嫌と言うほど見てきた。
どうなるか?
人から信を得ず、必ずいつか王道に負ける。いつか、世に知れ渡り、晩節を汚す。

私は、我々のグループの内の、高度な頭脳を持った方の、決して違法でもモラル違反でもない、しかし奇策ではある提言を、武内氏に持ちかけたが、彼は事ある毎に断った。

そして提言した、私の友人や先輩は、更に惚れ込んだ。

断る時の武内和久の言葉は、私の知る限り、いつも同じ言葉である。

「私は王道で行く。王道で行かせて下さい」。

今回の選挙で、私は彼の言動と行動が一致する事で、理論闘争の愚劣さの意味を更に知った。

理論は誰でも言える。
しかし一度、県知事選に負けどん底に落ちた男が、恐らく最後であろう選挙戦で、王道で行くという。

彼はバカだ。
ここまで王道にこだわる彼は、バカだ。
私はこのバカで王道を貫く、本物の王道者と今後、北九州を100万人の都市にしたい。

そしてこんな人と縁を持ち、出会わせてくれた神と天に感謝する。

武内和久は男でござる。


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