『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』のもやもやを考える(ネタバレあり)

『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』を見てきました。平日の昼だから空いてるだろうと出かけたら意外に混んでいてビックリ。ボクの行った劇場では男の二人連れが多く、それもなんとなく意外。まぁデートムービーって感じでは、確かにない。
それで内容の感想ですが、面白かった。トム・ホランドは全然ピーター・パーカーらしくないが、とても良い。原作のパーカーはナード…オタク野郎…の天才だが、ホランドは頭の軽そうな元気ないい若者って感じ(このシリーズの一作目は賢い男の子のシナリオだったがどうみても賢そうには見えない)。たぶん、これ、ホランドの地のままなんだろうけど、その明るいチャーミングな様子は本当にいい。ゼンデイヤとの青っぽい恋も素敵。絶妙のキャスティング。
で、面白かったけど…どうにもモヤモヤが残ってしまった。このモヤモヤをこの場で整理して行きたい。
この映画大好きな人は怒り出すかも知れないから、これ以上は読み進めないことをお勧めします

1 誰なんだか何なんだかわからない

伊藤伸平氏が自作で「『エンドゲーム』を見るのにどれだけ功徳を積まねばならないか」というジョークをやってたが、この映画も誰だか分からない人がいっぱい出てくる。シリーズの続編だから前作の設定とか状況を引き継ぐのはもちろんありだ。でも、他のシリーズの人や状況をそのまま出されても全然わからない。見た目多分悪役なんだろう…ぐらいしかわからないまま見続けた。映画は一応紹介らしきことをしているが、ドコドコ仇役が出てくるので十分に紹介されていない。
紹介がたりないのは他のスパイダーマンたちも同じ。こちらは見かけもよくわからない。顔を出してる時はともかく、全身スーツを着て暗い中を跳ね回られるともう全く区別がつかない。
どうしてこんな事をしたんだろうか?見ながらモヤモヤしてしまった。

2 ピーター・パーカーを何人も出す意味があるのか?

これは上の1と関係があるのだが、パーカーは一人で十分。映画見た方は頭でストーリーを改変してみてもらいたいけど、実はホランド=パーカー以外のパーカーがいなくても話は成立するのだ。じゃあなんでソニー系パーカーを勢揃いさせたんだろうと、これも見ながらモヤモヤした。
見終わってから思いついた理由は結論は三つ。
➊ こうやると人気が出る
興行上の理由ですね。
➋ソニー版スパイダーマン終了
総決算。「終わるんなら過去のいろいろも出しちゃえ」って。
➌ホランド=パーカーの役割を分担
脚本上の理由。メイおばさんの死を乗り越えていくところが、脚本上の難所。どうするか、と見ていたら…。他の世界の二人が親しい人を亡くしてるのを乗り越えている。その話をした時点で、ホランド=パーカーの苦悩も終了しちゃった。つまり実質一人の人物が既に似た苦悩を乗り越えてるからこの苦悩も乗り越えた、という図式を見ている側に感じさせた。上手いやり方とも言えます。
他に理由があるのかも知れないし、このどれも的外れかも知れないけど、まぁボクの考えた理由はこの三つ。

3 スパイダーマンの課題が違わないか?

本来なら「正体がばれるか、ばれないか」で話を組み立てていくのがスパイダーマンのようなストーリーの基本構造。で、ばれたあとスパイダーマンの課題は「この上、スパイダーマンとして活動する意味があるのか」に移っていくのが自然の流れ。でも物語はそこにいかず「なかったことにしちゃえ」方面に推移。確かマーベルの原作でそっち方面に行ったのがあるから、それに基づいたのかも知れないなあ、などと思いました。ちょっと安易だよなあってのがボクの感想。

4 でも結局全部なし?

終わってみると、物語は何もなかったことになっている。もうホランドがスパイダーマンであるという話さえなくなっているのだから。次の別の役者がスパイダーマンになり違うエピソードを始めても問題なくなっている。そういう下準備なのかなあ、とモヤモヤと考えた。
ボクはこのマルチバース系の話作りが苦手。「おいおい、ずっと見続けなきゃいけないのかよ」と思ったり「おいおい、全部見てきたのになかった事になるのかよ」とため息をついたりすることになるから。

ということで、今回のモヤモヤでした。

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