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愛が何かを知っている

顔で笑って心で泣いて。

男性にはとてもよくあることです。

不安や恐れ、未熟さに葛藤しながら、それでも大切な人が安心して暮らせるように頑張るのが男性の誠実さです。

わかりやすい派手さはありません。
目立ちにくいし地味です。
でも、いつもあなたを気にかけています。

男性の誠実な愛し方がわかるようになってきたのは、夫のおかげです。
だけど、理解できるまで、私はずいぶん時間がかかってしまいました。

夫以前の関係は、全て私が壊してきました。
自覚はありませんでしたが、こんなに頑張っているのに愛してくれないと嘆き、男性がどう愛するかには興味を全く持っていなかったためです。

未熟でとても恥ずかしいのですが、誰かの役に立てるのではないかと思って書いています。

何度かお伝えしてきたエピソードも含みますが、笑える話にして誤魔化さず、被害者意識でも語らないことがようやくできるようになってきたので、初めて、出来事の本質をお話できると思います。

よかったら、お付き合いください。

気がつけない世界で


夫と付き合い始めてしばらく経った頃、私はひどい喧嘩をいつも吹っかけるようになりました。
夫の落ち度のように見えながら、今思えば、本当に理不尽な言いがかりをつけていました。

もう一つ一つは覚えていませんが、あえて作り話で説明するなら例えばこんな感じ方から始まります。

「デートなのに彼に寝癖がある。私のことが大切じゃないに違いない。」

認知の歪みとしか言いようがありませんが、どう発想していたかを細かく書いてみましょう。

ある日のデートで彼の寝癖を見つける。身だしなみを整える時間がなかったに違いない。

だけど彼女と会うんだから時間を作るのは当然だ。本当に私のことを大切に思っていたらこんなことはしないはず。

私のことが大切じゃないに違いない。

わかりやすいように多少誇張して書きましたが、それでも当時の発想と大差ありません。

すごい被害妄想ですよね。

ひとつツッコミを入れるとするなら。
寝癖を見つけた後に、身だしなみを整える時間がなかったに違いないと「判断」している点。

事実に辿り着くまでに必要な、観察の時間を取ることを放棄して、事実の代わりに「思い込み」や「自分にとっての都合のいい解釈」を採用してしまっている感じです。

もしかしたら、デート中のコミュニケーションで気づくこともあるかも知れないのに。
寝癖の位置からして、鏡で見てもきっと死角だっただろうな、と思えた、とか。

きちんと髭が剃られていて、清潔感のあるスタイルなら、身だしなみを整える時間はあったことになりますよね。

人と会うための常識的な態度が取られていたことになります。

しかし、ある心理状態に陥ってしまうと、客観性を失ったり、ひとつの間違いをネチネチとあげつらって許せなくなったり、喧嘩を吹っかけるようなことをしてしまったりするのです。

しかも、自分ではなく相手の落ち度と思って責め立てる。

成熟への抵抗としての依存心

自立と呼ばれる誰にも頼らず生きている状態が強いと、パートナーシップで反動的に出てくるもの。

隠れた依存心。

攻撃性として表現されます。
わかりやすい攻撃性もありますし、怒りの一形態である引きこもりで表現されることもあります。

でも、なぜ。

攻撃性の根本は罪悪感です。
また、罪悪感はある程度心が成熟しないと感じられません。切り離して誰かや社会にぶつけてしまうのです。

成熟さは、喧嘩をした時、先に謝れる人に大人な印象を持つことをイメージするとわかりやすいでしょうか。

人は、自分では自覚できない罪悪感を、誰かに「投影」して、攻撃をします。
私たちが誰かに怒っているとき、していることです。

肉体を持って生きている以上、誰の心にも罪悪感はあります。

ですから、誰でもしますし、今の私でも無自覚にしてしまうこともあります。

しかし、心の成熟度と、罪悪感を引き受けられず、切り離し、誰かに「投影」して攻撃する頻度や強さは相関します。

大切な人に喧嘩を吹っかけ続けていたのは、私の幼さです。

ちなみに攻撃しても相手があまりブレない時は、自分の方が間違えていて、言いがかりをつけていることが多いです(なので焦って余計に攻撃するのですが)。

私は以前、信じられる人も温かな温もりもないものとして生きていたくらい、悪い意味で自立していました。

誰も助けてくれないから、ひとりで生きないといけないと思い込んでいたので、当然誰かを頼るという発想もありませんでした。

本当は、いつもどこかに必ず助けの手があるのに拒絶して、私が助けさせなかっただけなのですが。

成熟するほど、謙虚に誰かに助けてもらえるようになりますが(恥を忍んで、ができるようになるのが大人です)、助けてもらうときに差し出すのは依存心です。

助けて欲しい、頼りたいという気持ち、弱さと言い換えることもできますが、依存心を持たない人はいません。

誰かを頼らずに生きるのは無理なんです。
したくない、というレベルではなく、物理的に不可能です。本当にひとりぼっちで生きていたとしても。

気づかないうちに無数の援助を受けながら社会を生きているのが人間です。

「強がる」ことが癖になっていたり、「大丈夫」が口癖になっていたりすると、自立の傾向が強いと思って結構です。

しかし、自立が強いと、惨めに思えたり、負けるような気持ちになるために、依存心も弱い自分も受け入れにくくなり、さらに自立を極める悪循環に陥ります。

攻撃性でしか表現出来ない

ところが。
自立的に生きてきた人にパートナーが出来ると、姿を現すのです。

必死に抑えていた依存心が。

誰かに頼れず生きている人の依存心は、ちょっと厄介です。

当時私が隠し持っていたのは、関係性を壊してしまうほどの強い依存心です。

可愛く甘えられたり、心細さや弱い気持ちを素直に表現できれば問題になりにくいです。

でも感情がわからないほど抑圧していたり、我慢強かったり、人に気を使って自分の気持ちを言えなかったり。

もしくは、感情の切り離しが強すぎて、誰かに注意されても自覚出来なかったり、いつも周りが怒っていたり。

いずれも、自立的な人の特徴です。

そして、強く自立して依存心も抑圧しているとわからなくなってしまうのです。

甘え方が。

するとどうなるか。
依存心を、怒りつまり攻撃性で表現するのです。

本当は抑圧して自覚出来ない罪悪感を「投影」してぶつけているだけなのですが。

わかって欲しかったり、助けて欲しかったり、優しくして欲しい気持ちを、怒りでしか表現できないことこそが、自立の証明であり心の幼さとも言えます。

自立は、大人なイメージがありますが、心理学を適用すると、決して大人とは言えません。

弱さを受け入れられる成熟さが、大人の心なのです。

夫に散々喧嘩をふっかけていました。
甘え方がわからなかったからです。

怒りでしか表現できないのは、こどもが癇癪を起こすのと似てますね。

人が攻撃性を発動させるとき、三つの気持ちが隠れています。

「助けて欲しい」「わかって欲しい」「愛して欲しい」。

いずれも、弱さであり、依存心ですよね。

また、怒りはあくまでも感情の表面的な部分で、怒りの下にある感情が実際に感じている気持ちです。
寂しさだったり、悲しさだったり、色々。

ちなみに更に下にも感情が何層もあって、ネガティブな感情は全て罪悪感に集約されますが、間違った概念の訂正によって、最終的には愛や親密感にたどり着きます。

実際に感じている気持ちに気付いて、素直に弱さを表現できるとだいぶ激突は回避されやすいです。

心理学を学びはじめた頃、怒りを感じると「今、本当に感じている感情はなんだろう?」と自問する癖をつけましたが、状況の理解にかなり役立ちました。

もちろん、カウンセラーとしての仕事にも必須のスキルです。

しかし、初めはとても苦労しました。

自立的に生きてきた人ほど、感情の切り離しも強いので、なかなか自分が感じている気持ちに気づくことが出来ないからです。

急に不機嫌になったり、少しのミスを責め立てたり、理屈っぽく批判したり(たいてい論理は破綻していますが)は、繰り返しました。

当時の自分が未熟すぎて恥ずかしいですし、受け止めていた夫の気持ちを考えると落ち込みますけど。

セクシャルエネルギーは大人として生きる力

怒りにまみれている時って、あまりよろしくないことがふたつあります。

ひとつは、怒った後に必ず自己嫌悪を感じること。

誰かに怒ってしまった後、あんなこと言わなきゃよかったとか、でもあいつが悪いし、だけど私がもっと優しくできれば…なんて気持ちになりますよね。

怒りと自己嫌悪はセット商品と言ってもいいくらいです。

実はこの力動 ダイナミズムには「投影」が関係しています。

自己嫌悪は潜在的には罪悪感を感じていることの現れです。

自覚できない罪悪感を切り離して誰かに「投影」し、攻撃するのが怒りです。

罪悪感を「投影」して誰かを攻撃すると、本来自分が引き受けないといけない罪悪感を相手になすりつけていることになります。

一時的にはスッキリするのですが、根本的に解決がなされているわけじゃないんですね。

ですので、怒ったところで根っこが解消されていないため、自己嫌悪の感情や罪悪感が、亡霊のように立ち上ってくるわけです。

また、依存心を怒りでしか表現できないのは未熟さですが、大人の心に成熟することに、抵抗しているために起きることでもあります。

怒りっぽい人とか、すぐ怒ってしまう自分って、ちょっとこどもっぽいなと思ったりしませんか。もしくは、もっと大人になれたらいいのにと思ったり。あの感じです。

実は、怒りの源泉は「セクシュアルエネルギー」にあります。

大人として成熟しているという意味での「性的な自分」が表される「セクシュアルエネルギー」。

以前は私もしていた誤解を避けるために、少し解説をします。

怒りの源泉といっても「セクシュアルエネルギー」は、怒りという攻撃性が表現される罪悪感ではありません。

罪悪感は間違った概念が訂正されると、愛に変わりますが「セクシャルエネルギー」は愛そのものです。

また「セクシュアルエネルギー」は猛々しいもの、と勘違いされている場合が多いです。
抑圧の身体感覚から、火山の噴火のように感じられるのでしょう。

ところが、本来愛である「セクシュアルエネルギー」は、とても繊細で穏やかなエネルギーです。

誰かの心や体の痛みを感じさせないくらいにそっと触れられるくらいの、もしくはコンプレックスを優しく愛せるような繊細さです。

はっきりと実在はしているけど、強烈さはなく、悠々と存在している、とも言えるでしょうか。

猛々しく、勢いよく吹き出すとイメージされやすいのは、本来備わっているものを強く恐れ抵抗し、無意識に抑圧する強い力を「勢い」と感じているから。

もしくは、大人であることに強く抵抗し、罪悪感に振れて「セクシュアルエネルギー」を「淫乱さ」のように誤解してしまうためではないかと私は理解しています。

強く恐れて抵抗しますが、光が当たれば瞬時に影が消えるのと同じで、本当は恐れる必要は何もないのです。

ですが、真実に晒されるとエゴは溶けてなくなるため、だからこそエゴは自分が消えないように、恐れをどんどん膨らませて抵抗を強くしてゆくのです。

何となく、無駄な投資、というニュアンスは伝わりますでしょうか。

「セクシュアルエネルギー」が適切に表現されると、余裕やゆとり、ブレのなさになり、依存心を怒りとして表現することは少なくなっていきます。

怒ることを我慢するのではなく、依存心の表現が洗練されてくる感じでしょうか。

「セクシュアルエネルギー」に強く抵抗して抑圧したままだと、自己嫌悪として感じられやすいです。つまり、自己嫌悪そのものも依存心の一種です。

自分を嫌うというのは、大人として成熟した自分を嫌っている心性でもあるのです。

「セクシャルエネルギー」は愛そのものです。
同時に成熟した大人のエネルギーでもあるのです。

男は傷つかないという誤解

怒りにまみれている時によろしくないもうひとつは、大切なことを見落としてしまうこと。

怒りは「自分の思い込み」や「事実ではない自分の考え」に、飲み込まれている状態とも言えます。

思い込みや考えは、「自意識」(そう、「自意識過剰」の自意識です)が生み出すもので、心理学ではエゴ(自我)とも言います。

エゴって強烈ですし、うるさいです。
まるで、大切な何かに目を向けなくていいように、騒ぐかのようです。

でも、弱い犬ほどよく吠えると言いますが、依存心や、愛されることへの恐れが強いと、エゴはがなりたてて、人を攻撃的にも批判的にもします。

そして、エゴは隠すのです。

罪悪感が刺激され、苦しくて腹立たしいけど、愛しているがゆえ、怒りで応戦せずに耐える人の悲しげな眼差しを。

本当に強い、つまり成熟した武士は刀を抜きません。抜刀せずとも相手に「負けました」と言わせるのです。

ですから、何もしないというのは、何かをしていないこととは同義ではないのです。

日輪刀で鬼を斬りまくる炭治郎くんは、初登場時13歳、鱗滝さんの下では15歳ごろという設定ですが、鬼に殺されたお父さんと同じくらいの年齢になれば、剣士としてはまた違う雰囲気になるでしょうね。

女性が怒っている時、多くの男性は耐えています。
無表情だったり、ヘラヘラしている人もいると思いますが、苦しい気持ちは隠しています。

力で勝るのは男性なので、手を出したら傷つけてしまうことは百も承知なのです。

愛しているから、しない。

それでも。

経験的に分かりますが、どうしても挑発に耐えられなくなった時に、暴力をふるってしまったり、暴言を吐いてしまったりして、罪悪感に堕ちてしまうわけです。

暴力を振るう方が悪い、と一般的には思われてしまいやすいので、自分から罪科 つみとがを背負って刀を抜く、という感じです。

そうは見えない場合が多いですが、自分は決して許されない、と思っていたりします。

でも、男性はそういった内的な機微を見せることはほとんどありません。
ですから、私は以前、本当にひどい誤解をしていました。

男は傷つかない、と。

男性陣から一斉にブーイングが来そうですが、今では本当に申し訳なかったと思っています。

実在しないものを見ていたかなしみ

母と離婚に至った父との心の距離が遠すぎて、男性がどう愛してくれているかを知りませんでした。

また父も自分の父(私から見て祖父)との間に葛藤があり、大人の男性を引き受けにくい人だったのは事実です。

だからなのか、依存心という私のエゴは、どうやら心に「理想のお父さん」を妄想的に作り上げていたようなのです。

どんなに私が攻撃しても傷つかないし、受け止めてくれる「理想のお父さん」。

架空の。

もちろんこれは心理的なハリボテ、偽物で偶像崇拝の対象とも言えるでしょう。

全面的に甘えたいという依存心が生み出した妄想ですから、幻で実在するわけがないのです。

でも「理想のお父さん」にしがみついてしまっているのです。

だから、男性も普通に傷つくし、弱さだってあることが理解できませんでした。

少しの不器用さや、傷つけないために何もしない態度を見ては、男は役立たずと思ったり、嘲笑したり、見下したりしていました。

からかう感じで腐したりもしていました。
本当にひどい話です。

依存心は、態度から夫にも充分伝わっていて「僕にお父さんを求めるのはやめてくれ」と言われたこともあります。流石にはっとしましたが。

攻撃的に喧嘩をふっかけるだけではなく、例えば男性の不器用さに不機嫌になってみたり、文句ばかりを言ってみたり。

誰かの悪口を言い続けて、ストレスを発散しようとしたり。労うことも、感謝も表現しない。

ちなみに、私の母が父にしていたこととそっくりです。

全て、甘えてしまっています。夫の愛情に。

夫も、そして昔の私に似た心理状態のパートナーを持つ男性は、それでもたいていの場合は、じっとこらえてくれています。

上手く愛することが出来ない自分を責め、何か出来ることはないかと探ってくれています。

奥さんが攻撃的になっている男性のお悩みを伺うこともありますが、健気に感じるくらい、考えてくれています。

なぜでしょう。

それでも、あなたを愛しているからです。

当然、限界は来る

だけど、頑張っても頑張っても報われなかったり、感謝の言葉ひとつも笑顔もなければ、無力感に苛まれて、ぷつっと糸が切れることがあるのです。

この状態まで行ってしまうと、別れを切り出されることも多いです。

「もう限界だ」と思っているのです。

浮気をしたり、引きこもったり、風俗やギャンブル、アルコールにはまったり、仕事に逃避したり、家に帰らなくなったり。

離婚を切り出された段階で、女性側がやらかしに気付けると、修復が可能な場合もありますが、信頼を取り戻すには年単位で時間が必要ですし、気づけない場合は修復は難しいです。

男性から離婚を切り出されたら、既に男性側は限界を「とっくに超えている」と思ってください。

我が家にも、夫が限界を感じる危機は何度もありました。

私たちは、カウンセラーを養成する心理学のスクールで出会っています。

夫の勤務先は副業が出来ないために、プロにはなりませんでしたがボランティアカウンセラーとして、400件ほどの臨床は積みました。

上級を卒業した後に、志願して更に学びを深めるスクールの研修生としても夫婦で学びました。

私たちには常に心理学がそばにある状態だったため、どうにかなったところがあります。

もしそうでなかったら、とっくに離婚に至っていたでしょう。

夫婦仲がよくなって行ったのは、研修生の時代からだったと思います。上級の時に夫と出会い、卒業生コースに進みましたが、現役のコース生時代は喧嘩が絶えませんでした。

夫は私達の師匠でもあるカウンセリングサービス代表の平準司に、もう限界ですと何度も泣きつきました。

エゴに執着し愛に抵抗するからこその自己嫌悪。悪循環です。

それでもあこちゃんの心に愛を見てあげてなと、師匠に言われて夫が頑張ってくれたおかげで、なんとか持ち堪えることが出来ました。

残念なことに、当時の私は平にチクるなんて、と更に激怒していましたが。どれだけ依存的だったのでしょう。

当然、何度も周りをひやひやさせました。

結婚3年目くらいまで夫とも相当危なっかしかったですが、「暴力的だ」とか「お父さんにはなれない」とちゃんと言ってくれたおかげで、すんでのところで私もやらかしに気づけました。

餓鬼としか言えない

夫とは再婚ですが、ひどい喧嘩から、私がどう男性と関わってきたか推して知るべしですよね。

元夫との離婚の直接的な原因は彼の暴力です。
しかし、今では、私もかなりな原因を担っていたと考えています。

当時の私はエゴにまみれていて、笑うこともなく感謝もなく常に不機嫌でしたから、ずっと元夫の無価値観や罪悪感を刺激していたと思います。

今では、正直、元夫の攻撃性を誘発していた自覚があります。

元夫の前に、少しの間お付き合いしていた人が、急に暴力的になったこともありました。

今考えれば、私の依存心で不機嫌さや不満が膨らみ、攻撃性を誘発するというお馴染みのパターンを繰り返していたことになります。

客観的に見ても、相当失礼で気持ちを踏みにじるようなことも、全く自覚なく平然としていました。

まさに、愛をどぶに捨てるようなことをしていたのです。

それでも思っていました。
暴力を振るう、あいつらが悪い。

もちろん、暴力を肯定は出来ませんが、自分が誘発している可能性があるとは、全く思っていなかったのです。

彼らは、私に手をあげる時、本当に悲しそうでした。

加害者になる罪科を背負ってくれたのだと、今では理解しています。

自分が悪者になり、責められることによって、私の罪悪感を代わりに引き取ろうとしてくれていました。

本当はそんなこと、不可能なんですけど。

だけど、大切な人が笑ってくれるなら、悪にでもなるというのは男性の心性のように思います。
自己犠牲的な愛ですよね。

決して正しいことではありませんが、人は追い詰められると悪手にもすがるものです。

更に、25歳ごろに結婚の約束をしていた彼には、振られてしまいました。
初めて本気で好きになった人だったのに。

別れの原因は彼の浮気です。
だけど、どんなに一生懸命愛してくれても、愛し方が気に食わないと愛をどぶに捨てていました。

遠くから車を出してくれたり、遅くまで付き合ってくれたり、休みの日には会いに来てくれたり、薬の副作用でどんどん太って行ってしまった時期でしたが、可愛いよと褒めてくれていたり。

本当に大切に関わってくれていた人でした。

でもやっぱりずっと不機嫌で、文句ばかり、笑顔すら向けなかったのです。

何度も何度もやらかしていました。

それでも歴代の関係者はみんな、ギリギリまで私に優しかったです。
笑顔でいてくれました。

顔で笑って、心で泣いて。

当時の彼らができることを全て与えてくれ、ベストを尽くしてくれていました。

だけど、私は彼らの愛情に気づかず、むしろ当然に思って、彼らの愛にあぐらをかいていたのです。

もうやめようと決めなければ終わらない

依存心の一番恐ろしいところは「底なし」だということです。
欲しい、欲しい、欲しい…と、限りなく肥大するエゴ、という見方でもいいでしょう。

実際、暴走したエゴはどこまででも膨らんで行きます。

映画「シン・エヴァンゲリオン劇場版」をご覧になった方は、碇ゲンドウが行き着いた姿を想っていただければと思います。

さまざまなカルトのグルに見られるように「神を殺し、自分が神になろうとする」のがエゴの肥大の究極形です。

エゴは膨らみ続けて終わることなく、底がないために、依存心を手放して、大人の心になっていこうと思わない限り、苦しみが何度も繰り返される無間地獄です。

もう、こんなのやめようと決めなければ、終わらないのです。

本当になかなか気づけずにいて、カウンセリングサービスのカウンセリングにたどりつき、ようやく自分がしていることの輪郭がおぼろげに見えてきたのが30代半ばです。

だけど、自分の依存心を自覚し、心を変えていこうと痛感できたのは、夫と出会ってからです。

このままでは、また私は、壊してしまう。

これまで直面できなかった課題が、一気に吹き出してきたようでした。

そんな絶望的な状況になるなら、パートナーシップは求めないと思う方も居られるかもしれません。

そもそも、癒やそうとコミットメントしている罪悪感の質量は人によって違います。
私が経験したことと、同じことが誰にでも起きるわけではありません。

その辺りは「魂の指向性」と私が呼んでいるものが関係するかな、と思っています。

私と似たような修羅場を体験する方は、それだけ乗り越えようと決めていることの質量が大きいということですし、同じように乗り越えようと決めている人がパートナーになります。

同じエネルギーで人は引き合うからです。

ですから、喧嘩のド修羅場ばかりだからと言って、人としてだめだというわけではありません。

癒やそうと決めている罪悪感の質量が大きい、つまり潜在的に感じられる愛の質量も大きいということになります。

ただし、それなりのコミットメントですから、それなりの学びが必要なのも事実です。
これは受け入れる必要があります。

では、何を学んでいくのか。

依存心の課題は与える姿勢を頑張ること

心理的な成熟、つまり大人の自分になるということは、与える姿勢で生きていくということです。

愛されたいという依存心は、自分の機嫌を相手に取らせるようなもので、自分に感情の権限がありません。

相手の態度で感情が揺れるのは、恋愛の初期以外は、そう心地いいものでもないのです。

相手が依存心に付き合ってくれるうちはいいのですが、繰り返せば相手も重く感じるのは当然で、嫌われてしまうことも多いです。

心の学びに関して、私は決して優秀な生徒ではありませんでした。
むしろ、長い間課題に気づけずにいた劣等生です。

でもだからこそ、人一倍の努力はしました。

愛されたいという依存心を手放して、愛するという与える姿勢に変えてゆくことを頑張りました。

もちろん初めはできないことばかりです。すぐ間違った選択をするしすぐ怒ってしまいます。

未熟すぎてあちこちにぶつかることも、うまく行ってそうな人たちへの嫉妬にまみれて動けなくなることもたくさんありました。

犠牲的だとか、頑張りすぎだとか、無理しすぎているとか、軽さがないとか、もっと楽にとか、必死すぎて痛々しいとか、いろんなことも言われました。

エゴの罠にはまってしまっていたことにも、気づかなかったのでしょう。

でも、頑張りました。

依存心のひとつの表れ方に、自分からは動かないという姿勢があります。
受動的とも言えますね。

何か課題や、やった方がいいことがあったとして、やらない言い訳を次から次へと繰り出して動きません。

「底無し」を表すかのように、言い訳もまた永遠に繰り出すことが出来るのです。

変わろうとすると、エゴが強力に抵抗するために起きることです。

だから、出来る限り、待ちの姿勢ではなく、自分から関わったり、愛そうとしました。
夫だけに限らず、スクールでの学びでも、自分から動くようにしました。

もちろんすごく疲れます。
上手く愛せなくてクレームをもらったり、注意されたり、指導されたりは何度もありました(それ以上にたくさん愛され、護られましたが)。

目立ってくるので、非難も浴びるし、陰口も言われます。

でも、たとえ笑われたり失敗ばかりしたとしても、やらないでいるよりずっといいと思っていました。

案外、同じような努力をしていない人が、笑ったり、文句を言ったり、非難をしてきたりするものなのです。

私と同じ道を通った人や、応援することを選択してくれていた人は、黙って見守ってくれていたことを、私は知っています。


本当にたくさんの人に支えてもらって、いつの間にか、愛する姿勢が何となくわかって来て、夫婦仲がよくなって行きました。

つたないながらも、愛されようとするのではなく、愛する姿勢が血肉になっていったのでしょう。
離婚した両親が越えられなかったところも、いつの間にか越えていけました。

与えると必ず返ってきます。返報性の原理です。
与えると受け取ることが出来ます。
与えると愛が入ってくるなどとも言います。
これは実感します。

今でも、新婚時代のようにラブラブです。
旦那さんと仲良いですね、と、本当にたくさんの人に言われます。

四肢麻痺で寝たきりからスタートした昨年からの闘病生活をもってして、本当に弱い部分を受け入れ合う、成熟した大人のパートナーシップをようやく手にすることが出来たように思います。

愛が何かを知っている

このご時世で、夫は週に2度ほどリモート勤務です。私は執筆や勉強の日にしています。

3食、夫とともにするのですが、朝起きて、出来る家事を一緒にして、隣の部屋で同時に仕事をして、一緒にお昼を食べて、お茶を飲んでおやつも食べて、また同時に仕事をして、一緒に晩御飯を食べて。

中継のある時は、一緒にプロレスを観て。

先日、夫が私に珍しく仕事の愚痴をこぼしました。
ちょっと面白おかしい話でもありましたが、昔、ひとりで抱え込んでうつ病まで発症した人が、こうして私を頼ってくれるのは嬉しいなと思えました。

日々が、本当に愛おしい。

夫は私より7歳年下です。でももうお互いにまあまあなおじさんとおばさんです。
こどもには恵まれませんでした。

だけど、人生で今が一番幸せだなとつくづく思います。

優しくて穏やか。攻撃性に与 くみしない。
私の夫です。

実際、夫は攻撃的な表現にあまり興味を持ちません。
私は「弱々しい」と思っていた時期もありましたが、違うのです。

攻撃性は罪悪感の表れで、愛の真逆です。

罪悪感は、実際は幻だし誤解なので、訂正がなされればすぐに消えてしまうほど脆弱なものです。
同じように、肉体は滅ぼすことができます。

でも、愛を殺すことはできません。

優しくて穏やかであっても、愛だからこそ、強いのです。

こんなにも誠実で、圧倒的なのが愛だとは、知りませんでした。

夫は、私の度重なる挑発にも出来る限り乗りませんでした。

愛が何かを知っていた人なのです。

でもきっと、どんな男性にも本質的な愛の、誠実さがあるのだと思います。

罪悪感を「投影」した攻撃性を選ばず、男性の誠実さを見ようと意欲を持つ。

見えてくるものが変わります。

あいつに誠実さなんてない、と言うのはエゴの声です。
見ようとすればするほど、抵抗を強めてエゴは騒ぎます。

だけど、エゴの「判断」を手放し続けていると、見せてくれます。神様が。
どんな男性の中にも。

何もしてくれないと思っていても、愛は優しくて穏やかですから、不満に曇った目には見えなかったのでしょう。

歴代の関係者たちの、愛に気づけなかったのは私です。

エゴと奇跡及び真実の対比が、非常に洗練された形で表現された映画「フォレストガンプ」でいちばん好きな台詞。

I'm not a smart man... but I know what love is.

僕は賢くはないけれど、愛が何かは知ってるよ。

私はようやく悪夢から目が覚めて、見せてもらえるようになって来たのかもしれません。

真実の男性性はいつも、目立たず優しくて穏やかで、愛だからこそ、強いということを。

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