元気印には敵わない

 どんなに忙しくたって、仕事は仕事だ。それと他のものたちを比べようなんてナンセンスだと思うし、以前その話をしたときは彼女もわかるわかると言わんばかりに頷いていたはずだ。なのに「仕事と私、どっちが大事なの?」そう言って去っていく人が、物語の中だけではなくて現実にいるだなんて知らなかった。
 知らなかったのだから許してと懇願してみたところで、結果は火を見るよりも明らかだと感じたから惨めなことはやめた。代わりに、物わかりよく頷いてみた。何がいけなかったのか、激昂した彼女は形のいいてのひらであたしの右頬に平手をくれた。それも、二回。普通、両方にバランスよくくれてもいいとは思うのだけれど、嫌がらせのように右頬にしっかり二回、だ。避けることもできたけど、そうはしなかった。もう長いこと一緒にいたのだ。下手に逃げようもんなら、その性格からしてもっとひどいことになることは簡単に予想できた。

「……先輩?」
「なに」

 未だに熱をもったままの頬は、ジンジンとした痛みこそ引いてきたもののどうにも違和感がある。顔の筋肉を使いたくないのであまり話しかけないでほしいのが本音だが、生憎と隣のデスクには元気印のお似合いな後輩ちゃんがいらっしゃる。あたしの一年あとに入社してきた山野は、社内では一番話す機会が多いかもしれない。

「すっごく不機嫌ですね」
「そう思うなら、話しかけないでくれる」

 カタカタカタカタ。いつもより3割増しの強さでキーボードを叩くあたしには、朝から気が付いていたのだろう。山野は「こわっ」と本気なのかよくわからないリアクションを返してしばらく黙った。
いくらなんでも、後輩にプライベートのことまでは話せない。いや、むしろどっから説明しないといけないのかっていう話だ。あたしの恋人……元・恋人が女だったってことも山野は知らないし、その女に仕事とどっちか大事かなんて漫画みたいな台詞で責められ、挙句ひっぱたかれた(しかも二回。二回だ)なんて何のコントだろうか。山野のことだから大爆笑したうえでみんなに言いふらして回るか、あまりのことに口を開けたまんま動かなくなるか。どちらにせよ業務に差し支えることになるだろう。
 そもそも、この山野彩花という人間はよくわからない。入社してきたときから変な子だとは思っていたのだけど、その印象は現在に至っても変わらないどころか、輪にかけて変な奴だと思っている。とにかく物怖じをしない、人が敬遠しそうなものにこそ興味をもって突っ込んでいく。かと思えば、他人にはわからない一線を引いているのか深く関わろうとはしていかない。一事が万事その調子なのだ。だけれど、いや、だからこそ、と言える。あたしと山野が仲が良いのは、山野のそんな性格が大いに影響していると感じている。

「せんぱーい、そろそろお昼行きましょうよぅ」
「いい。食欲ないし」

 情けない声で懇願してくる山野を放っておいて、目線は画面と睨めっこ。昨日の夜からロクに食べていないことは確かだが、何かを口にして美味しいと思える精神状態ではない。山野の方も先輩社員が行かないからと遠慮するような性格でないこともよく知っているので、敢えてフォローはしなかった。

「ふーん。じゃあ、私も今日はいいかなあー」
「は? なんで。あんたは行きなさいよ」
「だって先輩、今ならふたりきりになれますよ」

 は、と口に出そうと思った空気はそのまま抜けていった。山野の言っていることの真意を測り兼ねて見つめてやれば、にんまりと何かを企んだような顔。

「先輩の悩み、教えてくださいっ!」「却下」
「ええー!」

 そんなことだろうと思った、と嘆息すれば隣から不満気な声。確かにお昼時はオフィスに人はほとんど少なくなるし、話もしやすくなるとはいえこんなところではやはり無理がある。それに、山野に話すには1どころか0からの説明が必要になってくる。それも面倒に感じていた。

「せんぱーい、可愛い後輩が心配してるんですよ? 少しは可哀想だから話してやろうって気はないんですか」
「あんたこそ、親愛なる先輩が悩んで飯も喉を通らないってのに、少しはデリカシーってものはないわけ?」

 それにしても、山野がここまで他人のプライベートに首を突っ込んでくるのも珍しい。今までだったら「大丈夫大丈夫、なんとかなりますって」で全てを流してきた能天気代表の山野がだ。まさか散々話させて、それで終わらせようとしてるんじゃないだろうな。キーボードを叩く手をとめて、山野の方を振り返ればやはり忠犬のような目をして私を見つめていた。

「……何、企んでんの?」
「先輩……酷くないですか?」
「そう?」
「そうです」

 真顔でそう問えば、おなじく神妙な顔で返事をされた。どうやら山野は、こんなんでもそれなりに心配というやつをしてくれてるらしい。慣れないことにどうしたものかと最近伸びてきた髪を肩の後ろに流して、山野、と冷静に呼び掛けた。

「気持ちは嬉しいけど。あんたに話したって、どーしようもないもの」
「話してみなきゃわかりません」
「……怒るよ」

 やけに粘るな、と若干の睨みを効かせてあげればようやく山野は黙ってくれた。この話はこれで終わりとばかりに、再びPCに向き直る。

「先輩のことならわかります。今日の先輩は、心配なんです。いけませんか、私が心配したら」

 がた、と無機質な音がして目を見開いてそちらを振り返れば山野が立ち上がっていた。その後ろで椅子が少し動いて、止まる。オフィスには人は少ないとはいえ、多少は残っているのだ。慌てた私も立ち上がって、山野の手をとった。瞬間、ぎゅっと握り返されて心臓の辺りがざわつく。

「……山野。わかった……座って」

 ふたりして神妙に座りなおした後、少しだけ周囲を窺って誰もこちらを気にしていないことを確認する。すう、と息を吸うと、思いのほか自分が緊張していることに気が付いた。その震えを吐き出すように、言葉を発する。

「山野はさ。仕事と恋愛、どっちが大事?」
「はい?」
「昨日、言われたの。ついでにひっぱたかれた」
「ええ? そんなベタな」
「でしょう? 現実に起きたら笑えないってことも、昨日初めて知ったわ」

 「どっちの頬ですか?」と問われてまだじんじんと痛む方を指で指すと、そっと山野の手が添えられた。なんだそれ。あんたのキャラじゃないでしょ。ああでも、なんかちょっと泣きそうになってる自分も、充分キャラじゃないか。

「先輩、私は多分、選べないですね」「どっちも大事? だよねえ」
「それもそうですけど。でも相手によりますよそんなの」
「はあ?」
「本気で好きになれる人に出会ったら、そんなことで迷わないですもん。先輩はまだ、そういう人に出会ってないんですよ、きっと」

 なんだか馬鹿にされたような気がして少しだけムッとすると、山野は苦笑して立ち上がった。「さ! お昼食べにいきましょう」と私の手をぐいぐい引く山野は、やっぱり変な奴。でもこうして私だけには心を許してくれているのかもしれないと思うと、悪い気はしない。鞄から財布を取り出して、山野のあとについてオフィスを出るときふいに疑問が浮かんで、前を行く山野の背に話しかけた。

「ってことは、もう山野は出会ったの?」
「はい? 何か言いました?」

 彼女の隣に追いついて、そのくりくりとした目を覗き込んでやれば目を逸らされた。なんじゃそら。さっきまでは散々まとわりついてきたくせに。

「本気で好きになれる人。山野は出会ってるわけ?」

 一瞬の間を開けて、廊下には彼女の快活な笑い声が響いた。そんなに面白いことを言った覚えはないぞ、と山野を睨んでみたところで、彼女は可笑しそうに涙の滲んだ目元を拭っている。「山野」とその制服の裾を引いて答えを促せば、ようやく私の目を見てにっこりと口元に弧を描いた。
 知らなかった、山野ってこんな顔も、できるんだ。

「さあ? どうでしょう。秘密です」
「はあー? 人には言わせておいて、フェアじゃないでしょう」
「今度、先輩の家で飲みましょう! そのとき気が向いたら、教えてあげまーす。あーほらほら、早く行かないとお昼休み終わっちゃいますよ!」

 ぱたぱたと走って行って、エレベーター前で私を手招きする山野はすっかりいつもの調子だ。読めない奴、と指先で頬を掻いたところで不意に気が付いた。そういえば、さっきよりも痛みがよくなってる。元気印も、たまには役に立つのかね。
 そんなことを思っては堪えきれなかった笑みを噛み殺しながら、彼女の待つエレベーターまで近付いて行った。

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