画像1

キンモクセイ

やなぎらっこ(ラッコブラザーズ)
00:00 | 00:00
今年は金木犀の匂いが強い、と玉子は思う。

月に一度、地区公民館で開催される詩吟の会からの帰り道だった。公民館の建物の横には金木犀の花がずいぶんたくさん咲いていたから。
そういえば、娘を出産して病院から自宅に帰る時も金木犀が咲いていたし、夫と住む家を出た頃も金木犀の香りが漂う季節だった。
ゆっくり歩いてアパートに戻ると、階段に孫の美月が座っていた。

「あれ、どうしたの?」

「ボク、おばあちゃんに会いに来た」

女の子なのに自分をボクと呼ぶ子どものことを、母親である娘はずいぶんと気にして言葉遣いを直させようとしているようだが、玉子にとっては可愛い孫でしかないので『ボク』でも『ワシ』でも好きなように名乗ればよいと思う。

「あら、ありがとう。一緒にアイス食べよう」

「宇治金時はイヤだなぁ」

「うん。そんなダサいものは、おばあちゃんもイヤです」

美月の手を繋いで階段を上っていると、夫から逃げて娘と文化住宅で暮らしていた頃の思いがフッと胸をよぎった。

「なんもないね。おばあちゃんちは」

美月は部屋の中を見渡して、そう言う。

「たしかに殺風景な部屋だけど、欲しいものも必要なものもあんまりないよ」と玉子は答える。

「あ、そうだ。これ」

美月は手に持っていた枝を差し出した。枝の先には甘い香りの金木犀の花がたわわに揺れていた。

「あれ…きれいだね。ありがとう」

玉子はガラスコップに水を張り、そこに金木犀の枝を入れた。
ちゃぶ台の上にバニラアイスを置くと、美月はちょこんと正座する。江戸時代のカラクリ人形みたいで本当に可愛い子だと玉子はいつも思う。

「おばあちゃん、金木犀の花言葉って知ってる?」

スプーンでアイスをすくいながら美月は玉子に尋ねる。
確かこの子は今年で小学六年生くらいだっけ、と玉子は心の中でそっと数える。子どもは知っていることは何でも口にして大人に聞いて欲しいものだけど、大人は知っていることは何にも言わないうえに、本当は欲しいものを要らないと言ったりするから、子どもは大人のことを変な生き物だと思うのだろうな、と玉子は想像する。

「あのね、金木犀の一般的な花言葉といえば『謙遜』『気高い』『真実』なんだけど、ほかにもちょっと恐いのもあるよ」

「へー、そうなのかい?」

「うん!『初恋』『誘惑』『陶酔』っていう花言葉もあるんだって!」

「そうなのかい!知らなかったよ」

玉子が大袈裟に驚いてみせると、美月は満足げに頷いた。

「でも、『初恋』は恐くないだろう。素敵じゃないのかい?美月は好きな子はいないの?」

「ボクは結婚しないよ。おばあちゃん。絶対にしないんだ」

「どしたの?急に」

美月は半分溶けたアイスをスプーンの背で押しつけながら、小さい声で話し始めた。

「パパもママも悪口ばっかり言い合って仲が悪いくせに、ボクが寝るとすぐアレする。学校で習ったけど、セックスは子作りのためにするものなんだ。気持ち悪いけど、それは仕方ないよ。でも、ママは弟を産む気がないって言ってるくせにおかしいよ。大人は勝手だと思わない?あ、ごめん。おばあちゃんも大人か…でも、ボクが好きなことやっていたらすぐ宿題しろとか早く寝ろって怒るくせに、大人は家では好きなことばかりやってるじゃない。ビール飲んだり、遅くまでDVD観たり。ずっとスマホいじってて、ボクの話なんか聞いてないよ。そりゃ、お仕事が大変なのは知ってるけど…」

「あれ、まぁ。どうしたんだい。お父さんやお母さんに怒られたのかい?」

そういえば、今日は金曜日なのでまだ学校に行っているはずの時間ではなかったかな、と玉子はふと思った。

「そんなことより、さぁ…」

美月は突然玉子の方に顔を近づけ、声を低めて言った。

「ママは最近こっそり電話してるんだ」

「え?誰と?」

「初恋の人だよ。こないだ夜中に話してるの聞いちゃったんだ。あなたが初恋の人だから、なーんて甘えた声で言ってたんだ。どう思う?おばあちゃん」

「どう、って。うーん。それは初恋の人なんじゃない?」

「ねぇ、ママの初恋の人って誰?どんな人なの?」

「え、おばあちゃん知らないよ。教えてもらったことないもの。うーん、誰なんだろうね」

「えー!?知らないの?頼りないなぁ」

美月は口を尖らせた。

「もしかしたら、ボクの次のパパになる人かもしれないじゃない。でもさ、ボクは自分勝手なママも嫌いだけど、パパも暴力するから嫌いだよ。早く大人になって一人で生きていけるようになりたいよ」

「あれあれ、さっきは大人なんか!って怒っていたのに」

「ボクはね、おばあちゃん。勝手じゃない大人になるんだよ。結婚なんて絶対しないよ」

「まぁ、あったかいお茶でも淹れようか?」

玉子は立ち上がりポットから急須にお湯を注ぎながら、ほぅと溜め息をついた。
金木犀の匂いが、やっぱり強すぎると思った。

「おばあちゃんの初恋を聞いてくれるかい?」

「おばあちゃんの!?聞きたい!」

「おばあちゃんの好きな人は絵を描いている人だったよ。とても素敵な絵さ。その絵を見たらみんな笑顔になるような明るくて楽しい絵を描いていた。おばあちゃんは、初めて会った時に天才だ!と思った。何度も好きだって言ったし、一緒に居られるだけで幸せだった。だけど、その人はどうしてもおばあちゃんを好きになってくれなかった」

「どうしてなの?タイプじゃなかったのかな?」

「さぁ。一度だけ聞いたことがあるよ。その人には憧れている人が居て、彼女の車輪というか歯車はとてつもなく大きくて、自分の歯車は比べるととても小さいから、自分は小さな歯車を何回も回って彼女に会おうとするのだけど、彼女の歯車はとても大きいからなかなか出会うことができないんだって。でも何とか会うためには回り続けないとダメなんだって。そう言っていたよ」

「ちんぷんかんぷん、なんだけど…」

「だろう?おばあちゃんも、さっぱり意味がわからなかったよ。だけど、振られたことだけはわかったよ」

「泣いた?おばあちゃん」

「いや、何だか納得したよ。聞いてよかったなぁと思った。でも、やっぱり、ずっと、今でも好きだよ」

美月が驚いた顔で玉子を見ていた。

「そういうものだよ、初恋は」

「ふーん。そうなんだ」

美月は首を傾げつつも、頷いた。

「その人の下宿に行くと金木犀の木があって、今頃の季節はいつも香りが漂っていたんだよ。息が苦しくなるくらい…」

本当はその人とはそれだけで終わったわけではなかった…と玉子は心の内で呟いたが、お茶を飲んでいる美月の表情は穏やかだったので、もう何も言う必要はないだろうと思った。

美月が帰った後、殺風景な部屋の中で金木犀の花だけが色を放っていた。

きっと、今夜もあの人のことを考えてしまう。何年経っても考えてしまう。
こんなにも金木犀の匂いが、強いから。
玉子はゆっくりと眼を閉じた。

この記事が参加している募集

よろしければサポートお願いいたします。 いただいたあなたの血肉(サポート)は、ありがたく生活費…ではなく、CD製作費やライブ活動費に充てさせていただきます。