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メディアの話その133 超芸術トマソンが見つけちゃった、芸術とはなにか?という疑問に対する答え。


赤瀬川原平さんの「超芸術トマソン」。

1972年。四谷の純粋階段の発見から始まり、1982年の白夜書房「写真時代」の連載を経て、1987年筑摩書房から本になった。

この本、芸術を超える、といいながら、芸術の根本を言い当てている。

それは、「芸術とは、かつての実用がなくなったものに、あとから人々が勝手に向けるまなざしのことだ」ってことである。

民藝が、典型である。

あるいは、サブカルチャーの芸術化。

かつてのエロ本エロ写真で「実用」のものだった「春画」は、100年たつと「芸術」になった。

「実用」がなくなったから、である。

ついこの前まで使えていたものが、不要になった瞬間、

「芸術じゃないの」とまなざしを赤瀬川原平が向ける。

これはまさに、トマソンは、実は「芸術が生まれる瞬間」を可視化したものだった、ということがよくわかる。

もちろん、「ブランディング」のために、芸術化を先回りして「自分で言っちゃう」ってケースもある。当人じゃなく、評論家がいったりする。市場をつくるためである。

これは、「コマーシャル」なものに典型である。

広告全盛期の1970年台のさまざまなコンテンツは、いま、「芸術」として消費されてる。

資生堂で大活躍した石岡瑛子展の大人気ぶりなどはその典型だったりする。

おそらく「トマソン」というのは、1980年代前半、実用に向けられたまなざしが結果として芸術をつくるということが、明示的になり、言語化されていくプロセスで、いち早く、赤瀬川さんが表に出した「真実」なんだろう。

当時の「広告ブーム」が象徴的だったかもしれない。
「実用」だったコマーシャルに対して、リアルタイムで「ゲージツ」のまなざしが向けられるようになった。

そんな時代だった。

以降、あらゆるコンテンツ制作は、どこかで「芸術のまなざし」を意識するようになる。

最初から自分で言っちゃうケースもある。

すると今度は逆の現象が起きる。

実用ではなくて芸術と自称することで、かえって実用以上に市場価値を獲得する、ぶっちゃけていうと「儲かる」ってことが起きる。

つまり、芸術が最初から市場になる、という流れである。

この流れがいつ起きたのか。少なくとも、1988年に「にっけいあーと」が創刊したときは、そんな市場が萌芽していたはずだ。

現代におけるNFTなんかは、まさにその典型である。

今度は、市場がコンテンツを追い越して、できてもないものに値がつくようになる。

そんな流れの転換点を示したのが、おそらく「超芸術トマソン」だった。

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