明日のことなどわからない
星のことを考えるのが好き。星が見えなくても考えるのが好き。「ここではないどこかへ」考え続ける、9ハウス・ステリウムのやなへいです。西洋占星術の「哲学」の場に異常なほどに星が集まっているという、無類の考えたがりなわけで…。
今晩は、緊急開催(?)苫野一徳オンラインゼミに参加。
テーマはコロナウィルスによる休校について。
ゼミの参加者は学校の教員の方が多く、学校は再会すべきか、再会するならどのようにするのがいいのか、といった話題に。
春から我が子は中学生という、まさに当事者なんだけど、なんだか思考が浮世離れしてきたなぁと感じた。
わたしには、3.11後の原発事故をきっかけに人生を変えてしまった経験がある。すべては親の責任と、子どもたちを守ろう、守るべき、守らないものは許せない!と必死になって日夜調べ、日々活動し、やがて疲れ果て、最終的には西に移住して今に至る。
結果、得たものもあれば失ったものもある。物質的な面ではたくさんのものを失ったような気もするけれど、移住以前には考えもしなかった価値観、人、考えに出会った。目に見えないものをたくさん受け取った。
この9年の心境の大きな変化があるからこそ、コロナウィルスに対する、自分や世界(世間?)の受け止め方を、とても不思議な気持ちで眺めている。
「恐怖ってなんだろう? ひとはどんなときに恐怖を感じて、どんなときに恐怖を感じないんだろう?」「閉塞感を持って生きること、開放感を持って死ぬこと、自分はどっちをとりたいか」「わたしの選択と、多数の選択、さぁどっちを行く?」
謎の問いかけをずっとしている。ある意味、リアリティに欠けると言うか、俯瞰で見過ぎというか。以前の自分のようににならないよう、あえて突き放しているかもしれないけれど。
ゼミ終了後、ムスコとゼミの続き。
結果、
・公教育に教育以外の「場」や「福祉」など、あらゆることを求めすぎている。
・スマホの普及で、恐怖があっという間に伝播する(新型インフルエンザの頃はスマホが普及していなかった)
・こんな時でも必ず学びたい、学んだほうがいいものってなんだ? それはあるのか?
という発見に至った。
哲学とは、「ここまでならだれもが納得できるにちがいない」ということを考え抜くこととするならば、絶えず変容するウィルスというものに、哲学はマッチするんだろうか。マッチしなさそうだけど、それでもあきらめずに考えることが哲学なんだろうか。
ポケー
ムスコいわく、「なるようになる」
(この曲を歌うと気分が明るくなる)
光明を見出したいという思考と、なるようになる〜の間を行ったり来たりしています。
考えているようで、最後は歌に溶かす。
そもそも、誰にでも納得いく答えより、わたしはわたしが納得いく答えがほしいのかもしれないな。いまのところそれは「なるようになる」。
こんな風に受け止められるようになったもの9年の年月のおかげ。
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