「本質」とは、なんだ?
最近、わたしの半径3m以内に
「本質」ということばがポンポンあらわれてくるようになった。
「タピオカ」ブームほどではないけど、
自分にとって身近かどうかでいえば、
「タピオカ」より「本質」のほうが距離は近そうだ。
先週の土曜も亀チャースクールの亀ちゃんが「本質」と言っていたし、
昨日の夜は大西つねきさんが「本質的には」と言っていた。
今日、「本質」ということばを耳にしたのは、
苫野一徳オンラインゼミでの、苫野先生の話から。
苫野先生は、とある連載でこんなことを書かれている。
哲学とは何かという問いにひと言で答えるなら、それはさまざまな物事の“本質”をとらえる営みだと言うことができる。
うんうん。
相対主義の現代、人びとは――哲学者たちでさえ――「絶対に正しいことなんて何もない」と言って問題を済ませようとする傾向がある。
あるある。
あのひとの「正しい」って、わたしにはマッチしないし
わたしの「正しい」は、あのひとにもマッチしなそうだし。
でも哲学は、それでもなお、「ここまでならだれもが納得できるにちがいない」ということを考え抜く。
なるほど。
誰もが腹落ちするところまで、考え抜くということですね!
苫野一徳オンラインゼミはまだ始まったばかり。
見知らぬ人同士がオンラインで、
どこまで本質について語り合えるのかがとても楽しみだ。
これまで、ひととひととが知り合う場所といえば、学校や職場など、社会的通例で誰もが通る、通らなければいけないところが主だったのではないかと思う。
それこそ昭和初期ぐらいまでは、同じ集落や町など物理的に近い場に生まれたひとたちと知り合うしかなかっただろう。そしていまは、経済的に近い層のひとたちが出会いやすくなっているのではないかと思う。
というのはあくまでも
学校や職場という「ハコのある場所」の話であって。
そんな昔ながらのハコを介さなくても
「思い」や「思想」が近ければ出会えるのがいまの世の中。
震災後、おなじように移住した友人と初めて飲みに行ったのだが。
デパートの催事場
クラフトビールの立ち飲みコーナーで
ふたりとも幼児を連れて
いきなり「文科省許すまじ!」
なんて濃い会話をしたのがやたら面白かった。
気がつけば、生い立ちや肩書きをほとんど知らないひとたちとたくさん知り合って、本題を語りあっているこの頃。今日も地球の裏側にいる青年と会話を楽しんだ。もちろん、ハコがあるこれまでどおりの生活も楽しんでいるんだけど。
この二重生活感、まさに水瓶座の時代。
本題が早ければ、本質に迫りやすいのかもしれないな。
そんな本題が早い場所、世界中でめきめきと誕生中。
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