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終わりの瞬間は儚く、美しい - YuNi「花は幻」を読み解き、御伽原江良の引退を想う

 どうもヤンです。

 昨日3月10日は、あるVTuberの終わりの日でした。

 にじさんじの御伽原江良です。
 彼女は初配信から強烈なインパクトを残し、そしてだんだんと「清楚」の皮が剥がれて「ギバラ」の顔が見え始めると人気は一気に上昇。その強烈な個性と、配信で見せる彼女の「オタク」としての狂気な一面は様々な方法で拡散され、VTuber界隈(というか音MAD界隈)における一大コンテンツとなっていました。
 また、彼女はpetit fleursの一員として森中花咲と一緒にNBCユニバーサル・エンターテイメント所属のメジャー歌手としても活躍していました。歌の実力も抜群であり、コロナ禍により延期になりつつも開催された1stライブ「リシアンサス」は大盛況に終わったようです。
 そのような華々しい過去を持つ彼女ですが、記念すべき2周年の日に引退することを決意しました。「前向きな理由」「やりたいことが見つかった」と多くのことは語りませんでしたが、その決断に後悔はないように思いました。

 さて、昨日はもう一つ、記念すべき2周年のものがありました。

 YuNi「花は幻」の公開です。
 la la larksのプロデュースで生まれたエレクトロナンバーである本曲は、全面的に儚さを演出しています。発表当日は12人のクリエイターによるショートMVが順々に公開されては消え、最後に本MVが流れるという手法が取られ、曲の公開にも儚さを取り入れていたようです。
 この曲の素晴らしさは疾走感のある曲調、ベースの力強さ、ラスサビの全音転調、そしてYuNiの儚くも力強い歌声など、サウンド面でも語りたいことはたくさんあります。しかしながら、この曲の魅力をさらに向上させているのが、歌詞に詰め込まれた儚さの要素であります。
 今回は、YuNi「花は幻」の歌詞の魅力を存分に語っていきます。そして、昨日の御伽原江良の引退に際し、いや、これを読んでくださっている読者にとっての「推し」や「大切な人」の終わりの瞬間を悲しんでいる人にとって、少しでも心を動かすものになれば幸いです。


「花」は「命」

 まずは1番から見ていきましょう。

はらり はらりと落ちた
儚い夢醒めた
戻れないと知っていた
雲が涙に濡れた

花は幻のように
雨に連れ去られてく
色褪せた花びらを撫でて
過ぎた季節に手を振る
ひとり 立ち尽くして

 この歌詞を単純に解釈すると、花がただ散り、その儚さをひとりで憐んでいる様子が描かれている、と言えましょう。「雨」を「雲が涙に濡れた」と表しており、その雨=涙によって花が幻のように消えるのか、エモいなあ…などという、その程度の認識で立ち止まっていい曲ではありません。
 もう少し踏み込んだ考え方をしてみましょう。この曲において、「花」は「人」を表す存在であり、「花が散る」ことは「人が死ぬ」ことを表しているのではないでしょうか。というのも、人の一生を花に擬えることは古来からよく見られる歌詞の表現技法だからです。直近の歌だと、ヨルシカの「春泥棒」などが挙げられますね。
 そうすると全ての合点がいきます。この曲は、ある人の死に対して主人公が想いを馳せている歌なのです。「はらり はらりと落ちた」という花が散る描写はある人の死を表し、その人が生きた痕跡を「儚い夢」と言いくるめます。そして人は決して生き返ることはなく、「戻れないと知っていた」にも関わらず、やはり悲しいものは悲しいもので、「涙」を流してしまう。
 そしてその「涙」は、やがて「雨」のように「花」=「命」の記憶をも「幻のように」消していきます。その人の業績も「色褪せた花びら」となってしまい、その人と過ごした「季節」に対して手を振ってお別れをしなければなりません。その状態に置かれている主人公の様子は、周りからはまさしく「ひとり 立ち尽くして」いるようにしか見えないでしょう。

過去を肯定し、未来への再始動を促す

 続いて2番を見ていきましょう。

いつかの夢を見てた
鮮やかさに飲まれた
残酷だね 成れの果て
時は嘘などつかない

花は幻のように
雨に連れ去られてく
見上げてた首の角度さえ
少しずつ忘れてゆく
花びらの道を
ひとり踏みしめて

 ここで主人公が見ている「夢」は、まさしく死んだ人との思い出の夢なのでしょう。その夢はきっと「鮮やか」に輝いていて、その夢の中にずっと飲まれていたいと思うのかましれません。しかしながら、「時」の流れというものは残酷であり、その人が死んだという事実は嘘をつくことなくそこにあり続けます。
 この曲において死んだ人は、恐らく主人公から見たらとても尊敬できる人だったのでしょう。毎日のように「見上げてた」、まさしく雲の上の存在であったはずが、いつしかその人を見上げていたことさえ忘れていくのでしょう。そして、その人が死んだことを表す証である「花びら」の上を「踏みしめて」、主人公は再び前へと歩き始めます。
 2番で訴えられていることは、一度死んだ人との関係の記憶も、いつかは消えてなくなるという儚さです。そして、それを乗り越えてまた歩き出せる日が来るということをも同時に表しています。人間というものは不思議な生き物で、どんなに辛く苦しい経験をしても、時が経てばその経験を糧にまた生きていけるのです。
 一方で、この歌詞は過去の経験を否定しているわけではありません。「時」というものは、「現在」の「時」でもあり、「過去」や「未来」の時でもあります。そしてそれらが「嘘」をつくことはありません。あなたが誰かと過ごした経験、現在過ごしている経験、そしてこれから過ごすであろう経験は、どれも否定されるべきものではないのです。

VTuberにとっての「新しい風」

 Cメロは、この曲で最も聴衆に伝えたいのであろうメッセージであると私は考えました。見ていきましょう。

静かに流れる時間の矛先
もう あなたの出番はこれで終わりだと言う
新しい風が吹くその瞬間に
雨は降り止むだろう

 主人公が誰かの突然の死に嘆き悲しんでいる間も、「時間」は静かに、そして刻々と流れていきます。しかし、焦る必要はありません。いつか、「あなた(死んだ人)の出番はこれで終わりだと」言える日が必ず来ます。そして、主人公自身が「新しい風」となって再起する時、主人公の「雨」=「涙」は「降り止むだろう」、ということです。
 そして私にとって、この歌詞がどうにも突っかかったのです。というのも、「死んだ人」を仮に「引退したVTuber」とするならば、「新しい風」は彼ら彼女らにも吹くのでは、と思ったからです。例えバーチャルの世界で引退したとしても、リアルの世界ではまだまだ活動を続けることでしょう。それは彼ら彼女らにとってもきっと、「新しい風」であるのでは、と感じたからです。そして私たちファンは彼ら彼女らが「新しい風」に乗って、新たな場で活動する姿を応援していくべきなのではないでしょうか。

終わりに

 この曲の構成は1A→1サビ→2A→2サビ→Cメロ→落ちサビ→大サビ(全音転調)と、至ってシンプルです。しかも、1サビと落ちサビ、2サビと大サビの歌詞が一致しており、歌詞全体の内容としては非常に少なくなっています。それでもこの曲の歌詞が聴く人の胸を打つのは、聴く人に感情移入させる力が強いのではないかと思います。
 最後にもう一度振り返りますが、この曲を単純に受け取ると、花が雨によって散っていく様子を表したものにしかすぎません。しかし、その情景は「花吹雪」という言葉で表されるように、儚く、そして美しいものなのです。同様に、大切な人の死、応援していた推しの引退なども、儚く美しいものであるはずです。そして、それは人生のターニングポイントとなり、あなたの人生をより豊かにするでしょう。
 昨日の御伽原江良の引退はかなり衝撃的でした。しかし、チャンネル登録者数40万人越えの彼女の引退は、多くの人にとって、またこれからのVTuber業界にとって新たな一歩を踏み出すターニングポイントになる気がします。御伽原江良さん、本当にお疲れ様でした。
 一方で私自身も、この曲について考えているときに、私が最も推しているYuNiもいつかはこの曲の歌詞の通り散っていくのかと思うと、少し憂鬱な気持ちになります。しかし、YuNiと共に過ごしてきた「時は嘘などつかない」と信じて、これからも彼女を推して参りたいと思います。そう、彼女が咲かせる花が少しでも大きく、立派に育ち、そしていずれ散る時も優雅に雨に流されることを願って………

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