他人に『完全』を求めるな。『信じること』をやめるな。

人の諸々の愚の第一は、他人に完全を求めるということだ。


『竜馬がゆく』司馬遼太郎

うん。まさに、今のぼくにぴったりの言葉だ。

ぼくは今日、他人に『完全』を求めた。それを自分自身の感覚でも、ひしひしと感じていた。さらに言えば、そういう風に考えている自分がとても嫌になっていった。

どうして求めたか?

きっとそれは、ぼく自身に「ぼくは『完全』を目指そうとしているのに、あなたは何故出来ない?」という想いがあったり、あるいは「あの人は完全を目指してあんなに頑張っている。なのに、あなたは何故…?」という不満があったりしたのだろう。十中八九そうだ。どうしてこんな風に誰かに「完全」を求めてしまうのだろう?

人生の中で、ぼくは何度かこういうことがあった。いやきっと、数え切れないくらい、そういう場面があったと思う。そして今日ぼくは、これは「よくない」と感覚的に思った。

ぼくは他人に理由を深掘りするために、ネット上に眠る色々な言葉、色々な考えをディグった。ディグりながら、このnoteを書き始めた。

そして冒頭の言葉に行き着いて、

「ああそうだ。ぴったりだ。
『あいつは愚かだ』と思っていたぼくが、一番愚かだったんだ」

ぼくはそう思った。

「人に何かを求める」行為自体は、決して悪いものではないと思う。相乗効果が生まれ、他人も自分も活発に行動することができ、それがプラスの結果を生むことが往々にしてあるからだ。

問題は、「自分の理想」や「完全」「完璧」を他人に求めることにある。

何故それが問題か?答えは至極簡単だった。冒頭の言葉を噛み砕いて考えて、ぼくはそれを理解した。

「ぼく自身が『完璧』でも『完全』でも無いから」なのだ。ただ、それだけのことなのだ。

そもそも人間は、誰しもが『不完全』なはずだ。詰まるところ『不完全』な人間同士が、この世界では関わり合っている。

そしてぼくたちは、どれだけ『完全』に近づいてみせても、今のところ『完全』にはなり切れてはいない。だから喧嘩や争いは起こるし、過ちを起こす。それはきっと、誰しもがそうなのだ。

ぼくに当てはめれば、ぼく自身が愚かだというのに、誰かに『完全』であること、あるいは『完全を目指す』ことを求めること自体、何の意味も無いのだ。

そもそも『不完全』な人間であるぼくの『理想』が、正しい証拠などどこにも無いのだから。

考え方や生きてきた軌跡が違う人間たちが、それぞれの『理想』を抱いて生きている。その二つが簡単に交わることなど無いし、「交わるはずだ」と思うこと自体、冷静になればあまりに愚かなことだ、と気づくだろう。

そう考えて、全てが繋がった。

ぼく自身が甘かったのだ。まだまだ、何も分かってはいなかったのだ。それをぼくは、感じることができたような気がする。

理解出来ないと投げ出す前に、
理解しようと相手と同じレベルに立って
感じることを心掛けましょう。
 

瀬戸内寂聴

他人を理解することも、自分を理解することも、『完全』を求めることも、とても難しい行為だ。

だからこそ、「あいつは何故こんなこともできないのだ?」とか「どうしてぼくがここまでやっているのに、何もしてくれないのだ?」なんて思っても意味が無い。何にもならない。なんだったら、総じてマイナスになる可能性さえある。

どんなことが起きても、静かな頭で望もう。一度落ち着いて、相手の心を想像してみよう。自分が理解出来ないことや納得できないことがあっても、立ち止まろう。

自分の考えや存在を否定する必要はない。むしろ、それは、ぼくがぼくである所以だ。大切にしたほうが良いだろう。

決してこれは、「妥協しろ」ということではない。

そうではなく、他人の考えや存在を否定しないせずに、同じ地平に立って互いにとっての「理想」を探そう。どんなに自分の理解や理想を飛び越えても、ぼく自身が『不完全』で、成熟していないのだから。そして相手もぼくと同じように、相手にとっての『完全』を求めているのだから。

立ち止まり、落ち着き、物事を見渡し想像する。

互いを理解し合おうとし、そして本気でお互いのためを思って行動する先に、『完全な理想』の髪先くらいは、見えるかもしれない。

最後に、ぼくが愛して止まないセリフで終わります。 

私が相手を信じることと、
相手が私を裏切ることとは……
何の関係もなかったんだ。

(中略)

私は誰も優しくしてくれなくても、
どんなに裏切られたって、
誰も信じない卑怯者になんかならない!

世界も他人も関係ない!
私は優しくしたいから、するんだ!
信じたいから信じるんだ!!


十二国記シリーズ『月の影 影の海 第七章』 小野不由美


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