見出し画像

板谷波山の陶芸 茨城県陶芸美術館 その②

前回記事その①の続きです https://note.com/yamyam5656/n/nd0737c472736
 展覧会を鑑賞していくうちに、
この何拍子も揃った美しいやきものの数々を、ほとんど一人で製作? 
どれだけ才能と腕のある人なのか!と大変驚きました。

作品の創作過程について掘り下げてみたくなったので、帰宅してから復習しました。
自分の覚えとして書いておきます。
参考にしたのは次の三つです。

🔸今回の展覧会の図録と、茨城県陶芸美術館スタッフによるミニレクチャーで聞いた内容


🔸テレビ NHK日曜美術館「完璧なやきものを求めて 板谷波山」解説荒川正明 放送2023/2/12、再放送2/19
🔸書籍 荒川正明「板谷波山の生涯」河合出書房新社 2001年刊

  • 「板谷波山(本名嘉七)は、茨城県下館に1872(明治5)年に生まれた。当時の下館は、経済活動が盛んで町人文化の栄えた土地であった。裕福な商家に生まれ、文化風流を好む家風で育った。

  • 17歳で、当時開校したばかりの東京美術学校彫刻科に入学。在学中は岡倉天心の薫陶を受け芸術を志す者の理想の姿を教えられる              →東洋の伝統を踏まえながら、進取発展する芸術を目標に掲げた。     実技面では木彫家高村光雲から高度な彫刻技術と写実主義を学んだ。   

  • 意匠、デザインや陶磁器製作の技術については、教員として赴任した石川県高等工業学校時代に習得に励んだ。

  • 波山はとにかく研究熱心で、当時西欧で流行していたアール・ヌーヴォー様式の装飾意匠を輸入された図録から熱心に模写して、自分のものにしている。 また、美濃や瀬戸の作陶家を訪ねて、最新の技術だった釉下彩や結晶釉の法、染料顔料の配合などを積極的に学んでいる。

  • 芸術としての陶芸に専念するため、31歳で東京へ戻り、田端に工房と住居を構えた。東京工業高校教授の平野耕輔の指導のもと、夫婦二人で西洋型の窯を建築する事から始めた。学校の非常勤講師をしながら金を貯めて、煉瓦を買い足していき、ようやく窯が完成したのは2年後の1906(明治39年) その時点で貯金は底をついていた。

  • 初窯で出来上がった作品を、明治39年の第39回日本美術協会展に出品すると、陶芸界のリーダー達と肩を並べて4位入賞し、まずは成功を納める。 しかし波山はそれに満足することなく「自己の美意識によって導かれる芸術陶磁の制作」の道を進んでいく。

  •  美術愛好家の宮家や、富裕な実業家達に作品が愛されて、買い手は多かった。しかし、己の芸術を追求し完璧を求める波山は、作品の出来に少しでも不満を感じると、売ることをよしとせず、叩き割って壊してしまうため、板谷家は食うにも困る貧困生活が長く続いた。生活費を工面をしたり、ツケを払えとやって来る店やの主人に対応するのは主に夫人のまるの役目であった。

  • 器の成形に関しては、ろくろ師に専任させた。初期は佐賀県有田出身の東京高等工業学校窯業科の助手であった深海三次郎。陶工職人の家に生まれ、幼少の頃から土を扱いろくろを廻していたので、掌や指のしなり方が常人とは違っていたとか。

  • 深海が去った後に、源田市松が担当。石川県小松出身の陶工で、彼もまた自在にろくろを廻し、波山の指示した通りに粘土を成形することができた。不慮の交通事故で亡くなるまで、53年間波山の元で、ろくろを廻し続けた人物。

  •  西欧の影響を直に被った明治期を経て、大正中期、後期から昭和初期にかけては波山の体内に流れる日本の伝統に育まれた美意識が、西欧風の様式の上にバランスよく表出されるようになり、波山が特に充実した内容の仕事を展開していった。

桃彫紋花瓶 1931(昭和6)年頃


氷華磁珍花紋花瓶 1942(昭和17)年頃 廣澤美術館蔵

○時代背景

明治の窯業は殖産興業、富国強兵のスローガンの元、輸出産業のエースであった。一方で明治陶器の美術史的な評価は低い。西欧で売れることを目的に作られているので日本の美的価値とは合わないものだった。
大正期に入ると、国内産業における窯業の相対的地位が低下。
個人の美意識の発露が見られるようになった。白樺派( 武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦ら )の活躍。

  • 技術面では、明治元年に来日したドイツ人技師ワグネルの恩恵。日本の近代化学工業・美術工芸の父とも呼ばれる人物。西欧式の窯の導入と、釉下彩と結晶釉の技術を日本に持ち込む。明治16年頃から盛んに研究が行われる。

  • ワグネルの教え子達が窯業技術者や学者となって東京工業学校におり、波山は彼らと交流を持った。技術面で影響を受ける。波山は自ら実験を繰り返し、結果を克明に記録。技術者としての一面を持っていた。

  • また、彫金や漆工芸作家らとも研究会を作り積極的に集まり、そういった場で供覧される日本古来の美術宝物品や、中国古陶磁器、再流行していたインド更紗の裂地など、見たものをひたすらスケッチして学ぶ。その姿勢は名声を得た後も変わらなかった。
    そうした波山の素描集が大量に残されており、美術館に保管されている。

○海外の動き

 19世紀末から20世紀初頭にかけてのイギリスのアーツアンドクラフツ運動
アメリカのシンシナティー、ウッドロック窯の美術陶芸製作が、日本の作陶家達へ影響を与える。
 ヨーロッパでの世紀末様式の誕生→デザインではアール・ヌーヴォー様式、装飾技法としては釉下彩と、結晶釉(窯変釉)として展開されていった。
1920年代、大正期に入ると装飾美術と産業を結びつけるモダンデザインが世界を席巻する。1925年のパリで開かれた「アール・デコ博覧会」       以上

追記 板谷波山の茶陶

 板谷波山は、大正時代後期、50歳代を超えてから、本格的に茶の湯のうつわを手がけるようになったそうです。観賞用から実用へ、磁器から陶器に近いものに作品が変化していきました。

天目茶碗 

釉薬の垂れや、油滴の大きな斑紋はないのですが、細かい金の粒子が飛び散ったような模様がありました。
 また禾目(のぎめ)とよばれる縦線も、よくよく観察しないとわからないくらい、細く、狭い間隔で走っているのでした。
 歪みのない端正な形に、見れば見るほど、複雑な色合いを呈してくる窯変の効果。見飽きることがありませんでした。


天目茶碗 左 1942(昭和17)年頃 右上と右下1944(昭和19)年頃
いづれも 築西市(神林コレクション)蔵

香炉 

どれも形がピシッと決まっています。赤い摘みはメノウ。
端正に細工が施された金属の火舎(ほや)と 香炉の器形がベストマッチ!

展覧会図録よりお借りしました


読んで頂いてありがとうございます。サポートは、次の記事を書くための資料や交通費に充てる予定です。