見出し画像

鑑賞と批評と感想文と。その2

山田五郎さんは、動画内で美術教育について「(学校で)描くことばかりではなく、観る(鑑賞する)教育をしないと」と語られていた。

私が学生だった頃、夏休みの宿題で、美術作品をひとつ選び、レポートを提出するという課題があった。
受講生から提出されたレポートを確認して、教員は激怒した。これはレポートじゃないと。私を含め多くの学生が、観た作品の感想を書いて提出したためだったと記憶している。

教員が出した課題はレポートであり感想文ではなかった。「レポート」と言われたら、その作品の背景を調べてまとめあげたものだ、という事を、私たちは知らなかった。
「だったら最初からそう説明してよ」と、その時思ったかどうかは覚えていない。が、今思い出すと、教員の課題の出し方が説明不足だったのではないだろうか、とも思う。
感想文を書いて提出した人が多かったということは、そう指示しているかのように聞こえるような説明だったのだと。
また、普段の講義がちゃんとしていれば、勘違いする学生は少なかったかもしれない。
この教員は、提出されたレポートが、自分の求めていたものと異なるものであったことに激怒する前に、なぜそこに齟齬が生じたのかを考えたのだろうか?

結局全員(だったか、ほとんどの学生が)再提出とされた。

再提出をした私のレポートにはA判定がつけられた。しかし、自分のレポートを見返しても、もっとよいA+判定を受けた友人のレポートを見ても、その判定基準はわかりづらかった。友人のレポートは自分のそれよりちゃんとしていたのはわかるけれど、A以下の判定をされたレポートを見ておらず、そういう判定だった学生がいたかどうかも定かではない。

教員が過去のレポートで例としてあげた、こういうレポートが良いと説明していた内容の中に、それは美術と関係ないと思えるようなものが含まれていて、私にとっては不快感を覚えるものだったのを思い出した。

正直その教員の講義では、某TV局の番組VTRをそのまま流したりして丁寧ではない部分があった。
また、発言の中に偏りがあったことも覚えている。言いたいことはわかるが、それは適切な例え(表現)ではないのでは?と、ひっかかりを感じたりして、簡単に言うと、私にとっては嫌いなタイプの教員だった。というか、嫌いなタイプの人だった。

話を観る教育に戻そう。

確かにこのレポート提出のエピソードのように、教わっていないものはわからないことがある。

美術鑑賞や、美術レポート、それはどういうことなのかを教わっていれば、ただ感想を書く人が続出する事態にはならなかったかもしれない。

また、こういったレポート提出の機会がなかったとしても、将来画家などのクリエイターになる人よりも、鑑賞する側にまわる人の方が圧倒的に多いのだから、やはり五郎さんの言うように、鑑賞することを教えることは大事だと思う。

中学生時代の美術の時間で、仏像の写真とかを見て説明された授業はあったと思うけれど、美術館に行って、感想文を書いたり、レポートを書いたり、という授業を沢山していれば、もっと早く鑑賞の楽しみ方の幅は広がっていたかもしれない。

「観る教育」なるほど、と思った言葉だった。

<文・見出しイラスト/犬のしっぽヤモリの手>
***
<© 2023 犬のしっぽヤモリの手 この記事は著作権によって守られています>

#随筆
鑑賞と批評と感想文と_その2
#最近好きな動画


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?