【安倍晴明を大河ドラマに】晴明伝奇―シン・安倍晴明一代記
【安倍晴明を大河ドラマに】『晴明伝奇』のあらすじを紹介します。
『晴明伝奇』は安倍晴明と陰陽道の主神泰山府君の娘・碧霞元君の複雑な運命の絡み合いを中心に晴明の生涯を辿る物語です。全50話。
晴明がどのような一生を送ったか分かる史料は少ないので創作は必須ですが、できる限り史実に基づいています。
文章が長いので、以下の記事で全50話分のあらすじを1話450~500字で紹介しています。
⚠️この記事の内容が最新です。
『晴明伝奇』の資料は下の記事にまとめています。
参考文献を下の記事に記載しています。
安倍晴明は現在放送中の2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』にも出演していました。
さらに、安倍晴明は大河ドラマの主人公になってほしい歴史上の人物にもランクインしています!
概要
晴明は幼い頃に泰山府君の娘・白雪と出逢い、彼女の影響を受けて陰陽師を志す。
やがて、晴明は人間界に落ちて記憶喪失となっていた白雪を梨花と名付け、様々な困難を乗り越えて結ばれる。ところが、梨花は自らの命と引き換えに平安京の災いを鎮め、晴明と一族を繁栄させる約束を交わしてこの世を去ってしまう。
長い年月を経て、晴明はかつての妻と再びめぐり逢う。しかし、彼女は人間界の記憶を失くし、真神・碧霞元君という手の届かない存在になっていた。晴明はどのようにして彼女と縁を結ぶのだろうか?
あらすじ
第1話 仙妖奇縁
満月丸(後の安倍晴明)は仙狐の母と人間の父の間に生まれた。しかし、この時の満月丸は母の正体が人間ではないことをまだ知らない。満月丸の母は、彼が生まれた数年後に突然姿を消してしまった。
延長八年(930)春、満月丸は住吉大社に参詣して帰る途中、浜辺で一匹の亀がいじめられている光景を目撃する。
満月丸は急いで亀の方へ駆け寄り、自分の衣と引き換えに亀を買い取った。満月丸が亀に人の多い場所に出てはいけないと忠告して海に放そうとすると、海の向こうから一人の美しい少女がやってきた。彼女は亀の飼い主で、亀を助けてくれたお礼をしたいと言って満月丸を小舟に乗せた。ゆらゆらと八重の潮路を渡っている間、満月丸は深い眠気に襲われそのまま眠ってしまう。
目が覚めると、そこには海の底だった。満月丸の目の前には、立派な宮殿がそびえ立っていた。満月丸は少女に手を引かれて宮殿の門をくぐった。宮殿の地面には金銀の砂が散りばめられていて、楼閣は七宝で飾られていた。四方には四季を象徴する宮殿があった。東方は春、南方は夏、西方は秋、北方は冬の景色が広がっていた。立派な絹傘を差した侍女たちが出てきて、二人を東海竜王の許へ案内した。彼らは東海竜王に謁見し、満月丸は鎮宅霊符と四寸四方の小さな箱を賜る。さらに、竜王から絶対に箱を開けてはならないと忠告される。
その後、東海竜王によって宴が開かれた。卓上には、人間界では最上級の珍味とされる食べ物で満ちていた。宴席の場で、満月丸は少女が白雪という仙女だということを知る。白雪によると、亀の正体は鎮宅を司る神・玄天上帝であった。彼は天帝から分かたれた魂の一つで、元々は男性の仙人の姿をとっていたが、修行のために輪廻転生を繰り返して疲弊し、人間の姿に戻れなくなっていた。
満月丸は、白雪から陰陽道を究め達人になる人相をしていると告げられる。まだ幼い満月丸には陰陽道がどういったものかわからなかった。満月丸が陰陽師についてもっと知りたいと白雪に頼むと、白雪は知っていることをすべて教えてくれた。陰陽師というのは天変だけでなく、身の回りの怪異や暦の吉凶を占ったりすることで天皇や貴族たちを守り、決して高くない身分でありながらも朝廷の政治を支えることができるのだという。その時、満月丸は初めて陰陽師になりたいと志す。
満月丸は、仙人の白雪が日本の朝廷に詳しいことに疑問をもった。昔、朝廷に仕えていた小野篁が白雪の祖神の部下として働いていたのだ。
夜に入って、地上に父をおいてきたことを思い出した満月丸は、白雪と別れなければならなかった。満月丸は白雪との別れを惜しんだ。白雪は、陰陽師として優れた功績を残せばきっとまた逢えると約束した。竜王から賜った小箱が再会の目印となった。満月丸は白雪の方術によって体が泡のようなものに包まれたかと思うと、眠気に襲われてそのまま眠ってしまう。
目が覚めると、満月丸は竜宮に向かう時に乗っていた小舟の上に乗っていた。その時、満月丸は夢を見ていたのかと思ったが、身を動かしたときに手が何かに触れた。それは白雪から受け取った鎮宅霊符で、満月丸は夢を見ていたのではなかったのだとわかった。父・安倍益材が駆けつけてきた。満月丸は父とともに都へ帰った。
やがて都で疫病が流行し、益材は病床に臥してしまう。益材は行方知れずになった満月丸の母葛子にとうとう会えなかったことを悔やんで亡くなった。満月丸には兄弟がいないので、とうとう彼の前から家族が皆いなくなってしまった。
第2話 弟子入り志願
収入のない満月丸は家人たちを手放すことになる。彼は、家の財産が尽きる前に身寄りを探さなければならない。満月丸は、父の言っていた金烏玉兎集を探し出した。
この書は、かつて唐の伯道上人が天地陰陽の理を究めるための修行をしていたときに文殊菩薩から託されたもので、悟りを開いた上人は金烏玉兎集を唐王朝に献上した。その後、吉備真備が遣唐使として唐に渡った際、皇帝から様々な試練を課された。真備は鬼と化した阿倍仲麻呂の力を借りて試練を突破し、皇帝から褒美として金烏玉兎集を賜った。帰朝した真備は仲麻呂に恩義を感じ、彼の子孫を探して譲り渡して満月丸の代まで受け継がれて来たのであった。
満月丸は、当時の陰陽寮で最高責任者の陰陽頭に弟子入りを志願するが、断られてしまう。そこで、次に偉い陰陽助の賀茂忠行を探し回るが、なかなか見つからない。そうしているうちに夜が更けて、満月丸は忠行とその息子賀茂保憲が下京の辺りへ出かけて行くのを目撃し、忠行の車の後ろを歩いて付いていった。
しばらくして、向こうから異形の者たちが歩いてくるのが見えた。それはまさしく、噂で聞いた百鬼夜行そのものであった。満月丸は急いで車に走り寄り、忠行を起こして鬼がこちらに向かって来ていることを伝えた。驚いた忠行は保憲とともに車を降り、従者たちを連れて物陰に身を隠してなんとかその場をやり過ごした。満月丸たちが車のあった場所に戻ると、鬼が歩いていたかのような足跡や馬の足跡がたくさん残っていた。満月丸は忠行に弟子入りを志願して、陰陽師になれる素質があるかどうか確かめるための試験を受けることになる。
白雪は祖神の泰山府君によって、泰山の聖なる石から生まれた女神である。その出自から母に相当する神は存在せず、父に当たる泰山府君と兄の炳霊帝君が彼女にとっての家族である。白雪は泰山府君から仙狐の統括を任される。古来より狐は陰陽の術に長けており、その中で特に優秀な者は仙狐となって青丘に棲むことが許されている。しかし、魔道に堕ちて悪さをする狐もいて、それらは野狐と呼ばれている。野狐の中でも特に凶悪なのが白面金毛という九尾の狐である。白面金毛は、かつて天と地が分かたれたときに大気の一部が邪悪な陰気と混ざり合って狐の姿になった魔尊である。魔尊は万遍奇異の術によって絶世の美女に化け、唐土の殷王朝の紂王や天竺の班足太子を誘惑して暴虐の限りを尽くし、国を傾けた。天竺で正体を見破られた魔尊は東方へ飛び去り、若藻という名の美少女に化けて遣唐使吉備真備が帰朝する船に乗って日本へ渡った。このことを知った仙狐の皇女は魔尊と戦ってこれを封印することに成功したが、その際に魔尊の最後の攻撃によって彼女は日本の平安京に落下してしまう。仙狐たちは数年かけて皇女を捜し、やっとのことで彼女を見つけて連れ帰ることができた。彼らは、皇女に人間界での出来事を忘れさせるために忘川の水を飲ませた。そこには、仙狐たちにとって忌まわしい事情があった。なんと、皇女は地上に落ちた際に人間の男に助けられ、夫婦の契りを交わして愛し合っていたのだ。石から生まれた白雪は情を持たないため、感情の機微がわからない。白雪は神仙が人間を愛することもあるのかと不思議に思う。
それからまもなく、白雪は皇女が愛した男が流行り病で亡くなったことを知る。白雪は神仙と愛し合った男がひどい罰を受けるのではないかと案じたが、彼の魂はすでに輪廻転生を迎えていた。泰山府君は男の生前の行いについて善悪を確かめた結果、悪い行いをしていなかったと判断していたのだ。
忠行は満月丸が賀茂家の弟子にふさわしいか確かめるために、射覆の試験を課して満月丸の実力を確かめた。これは忠行が得意としている術法で、易占によって箱の中身を推察するものである。試験の結果、忠行は満月丸の実力を認めたが、自分ではなく息子の保憲の弟子として引き入れた。保憲は最初こそ驚いたものの、満月丸を弟子として受け入れた。満月丸に家族がいないことを知った忠行は、満月丸を賀茂家に引き入れて弟子として住まわせることにする。満月丸は忠行の家の壁に白雪からもらった鎮宅霊符を貼り付けた。保憲からその霊符はどこで手に入れたのか問われると、満月丸は大切な人からもらったのだと答えた。
延長八年(930)六月、天変・怪異が頻りに起こった。季節外れの大雪が降り、世間の人々は不吉だと噂した。これらの異変について陰陽寮が占ったところ、兵革・失火の兆しがみられた。内裏で鬼を目撃したという貴族もいた。
そうして、六月二十六日の午三刻、愛宕山の上から突然黒雲が起こったかと思うと、大きな雷が清涼殿の坤の方角にある柱の上に落ちた。そこから火が燃え広がって藤原清貫の衣に移って落命し、平希世は顔が焼けて柱の下に倒れ伏した。美好忠兼は鬢が焼けて落命した。紀蔭連は炎に呑まれて悶絶した。醍醐天皇と多くの貴族たちは魂が消え入るような恐怖に襲われた。天が陰って激しい雨が降り、疾雷と暴風がありました。殿上に伺候していた貴族で驚かない者はいなかった。そこへ、忠行が弦を携えて走ってきて、鳴弦の法を行った。すると、雷火は鎮まった。
翌日、忠行は清涼殿の災いを鎮めた功績を讃えられて褒美を賜った。忠行は、殿上で貴族たちが悲鳴を上げながら右往左往する様子はさながら地獄のようであったと語る。殿上に伺候していたほぼすべての貴族が負傷していたなか、藤原忠平だけは無傷でした。醍醐天皇は体調を崩し、清涼殿で加持祈祷が行われた。七月に入ると、内裏で鬼を目撃した者がいた。昼に月を見たという者もいた。満月丸は大きな流星が東北に向かって落ちていき、その跡が雲と化したのを目にした。満月丸は忠行に天変を報告し、忠行は天文博士にこのことを伝え、天文密奏が行われた。それによると、天皇に病事がある兆しであった。それからまもなく、天皇が咳病を患った。その後も怪異や天変は止まなかった。陰陽寮がそれらを占った結果、すべて凶兆であった。
その後も大勢の僧侶が天皇の病から救うために加持祈祷を行うが、一向に効験は見られない。忠行は、天皇はこのまま崩御されてしまうのではないかと満月丸と保憲に話した。九月、醍醐天皇の病はいよいよ深刻になり、寛明親王(後の朱雀天皇)へ譲位が行われた。数日後に醍醐天皇は崩御された。
それから数年後、満月丸が元服のときを迎えた。忠行は満月丸に晴明という名を与えた。忠行は「晴明」という字にはどちらも「日」と「月」が含まれているので、陰陽道を志す者にふさわしい名だと話した。晴明は心の中で白雪に立派な陰陽師になることを誓った。
第3話 承平・天慶の乱
晴明は忠行の推薦で何とか陰陽寮に入ることはできたものの、陰陽寮の諸学生は定員に達しており、まして代々陰陽家の出身ではない晴明の入る余地はなかった。そこで、晴明は機会が訪れるのを待ちつつ保憲の弟子兼陰陽寮の事務員として勤めることになる。
承平八年(938)四月、都で突然空に雲が集まってきて昼か夜が判別できないほど真っ暗になった。人々が不安になっていると大地がおびただしく揺れて、京中の民家や神社仏閣に至るまで多くの建物が破損した。大地震は巳の刻に始まったが、申の刻になっても止むことはなく、その場にいた人々は皆奈落の底に引き落とされると泣き叫んだ。逃げようとする者もいたが、地面がひどく揺れているためまともに歩くことができず、そのまま倒れて気を失った。
その日から毎晩のように彗星が現れ、これはただ事ではないと思った朝廷は陰陽寮に天変地異の吉凶を占うように命じた。賀茂忠行は大地震の吉凶を占い、大きな兵革の兆しだと奏上した。ちょうどこの頃、東国では平将門が、西国では藤原純友が兵乱を起こしていた。
朝廷は大勢の僧侶に祈祷を行わせ、地震を鎮めるために承平から天慶へ改元した。しかし、その後も地震は止まず、暴風や洪水などの災害も起こった。桓武天皇の後裔である将門と、藤原氏の血を受け継ぐ純友が結託して都を滅ぼそうとしているのではないかという噂まで流れた。
一方、白雪は成長して上仙になっていた。彼女は炳霊に付き添われて冥府の裁判を見学した。そこで裁かれる人々の生前の罪業を聞いて、あまりの酷さに彼女は憤慨する。
泰山府君が言うには、上古の人々は生まれつき善良な性格で罪を冒さなかったので、地獄で罰を受けることもなかった。だが、時代が進むにつれて人々は古の教えに逆らうようになった。彼らは主君に忠義を尽くさず、父母に孝行しない。師を敬わず、弱いものを虐げる。争い・盗み・姦淫のかぎりを尽くし、天上の神々を冒涜して神罰を恐れない。ただひたすらに富を欲し、貧しさを憎む。邪神を祀り、呪詛を行う。このように、人々がさまざまな悪行を為しているので、裁きが耐えないのである。
白雪は衆生の沈淪を嘆いた。曲がったことを嫌う彼女は人々の些細な過ちも見逃さなかった。その結果、裁きにかけられる罪人が増えて冥官たちは疲弊した。
同年十月、陰陽寮の暦博士大春日弘範と権暦博士葛木茂経が明年の暦本について論争を繰り広げた。弘範は今年十二月の晦日を癸卯と定め、明年の正月朔日を甲辰とした。一方、茂経は十二月の晦日を壬寅と定め、明年の正月朔日を癸卯とした。弘範は明年の正月に日蝕があり正見すると主張したが、茂経は月在陽暦に基づくと正月に日蝕が正見することはないと主張した。暦本が定まらなかったので、陰陽寮は来たる十一月の御暦奏を延期することにした。しかし、御暦奏の予定日の数日後になって、陰陽寮は朝廷から御暦を奏上しなかったことについて過失を責められる。朝廷側は造暦の議論があったときに茂経の暦本を採用すると宣旨を下したと主張し、議論があった日から御暦奏の日まで十日以上あったにもかかわらず御暦奏ができないと言いに来る者が誰もいなかったことを責めた。
陰陽寮は始末書の提出を求められるが、暦家たちは自分たちの過ちを認めようとしない。そこで、彼らに代わって晴明が始末書を書く羽目になってしまう。結局、陰陽寮は例年より一ヶ月遅れて御暦を奏上することになってしまった。御暦奏の時、晴明と保憲は陰陽権助文武兼・権暦博士葛木茂経・陰陽大属平野茂樹らとともに伺候した。
その後、茂経は十二月十五日に月蝕が起こる勘文を提出した。当日になって月蝕があったが、藤原実頼がその様子を観測していたところ、茂経の勘文に記されていた内容とほんの少しの差異もなかった。茂経は時の好事者だと讃えられた。
冥府では、泰山府君のもとに冥官たちから罪人が多すぎると苦情が寄せられていた。泰山府君はどうすべきか思案を巡らせる。
天慶二年(939)十二月、賀茂忠行は藤原忠平の屋敷に召された。清涼殿落雷事件で鳴弦の法によって忠平を守ったことによって、忠行と忠平の間には深い結びつきができていた。忠行は忠平から東西の兵乱を鎮めるのに良い方法はないか問われ、白衣観音法という密教の修法の実施を提案する。忠平は、もし修法の効験がみられれば特に褒賞を与えると約束する。
第4話
天慶三年(940)正月、新年を迎えたが、東西の兵乱によって頻りに急な報せがあったので、元日節会などの恒例行事が中止となった。貴族たちは、今まで滞りなく行ってきた公事が尽く途絶えたことを嘆き悲しんだ。朝廷は追捕凶賊使を任命し、東西へ派遣する。宮中でも国家鎮護のための諸々の修法が行われ、諸寺では平将門・藤原純友を調伏するための祈祷が行われた。そんな中、賀茂忠行は藤原師輔に東西の兵乱を鎮めるために白衣観音法を修してはどうかと奏上する。これは、諸々の星の母である白衣観音を祀り、九曜息災大白衣観音陀羅尼を唱えることによって兵乱の災禍を祓う密教の修法だったが、密教の僧たちの中でこの修法を知っている者は誰もいなかった。そこで、師輔は寛静僧正に命じてこの修法を行わせた。
二月、藤原秀郷らが将門を討ち取ったという報せが届いた。論功行賞が行われ、忠行が勧めた白衣観音法は将門の追討を後押ししたと讃えられた。
天慶四年(941)六月には藤原純友も討ち取られた。朝廷は東西の兵乱は完全に治まったのだと安堵した。
冥府では、泰山府君が獄卒の人数を増やして規律を変えたので、冥官たちの不満は収まった。しかし、地獄では罪人の苦痛から生じる邪気が溢れかえっており、もはや冥府まで入ってきそうな勢いだった。
七月、明年の御暦及び頒暦を作成する時期になった。だが、暦博士大春日弘範は先年の葛木茂経との造暦の論争により、共に暦本を作成することが憚られていた。弘範は茂経との対立を避けるために、茂経の弟子で暦生の中でも特に成績優秀な保憲に声を掛ける。暦生にすぎない保憲が造暦に携わるのは異例のことであった。晴明も彼の弟子として造暦を補佐することになる。
同年八月、日蔵上人が参内し、神託があったことを奏上した。上人が道賢という名であった頃、彼は世の中に災難が絶えないことを憂えて金峯山の山奥に籠もり修行していた。しかし、猛烈な暑さによって道賢は脱水症状を起こして倒れてしまった。気が付くと、道賢は金峯山の洞窟の外に立っており、辺りを見回していると蔵王菩薩を名乗る僧が近づいてきた。蔵王菩薩は長寿を願う道賢に改名を勧めました。そこへ光り輝くものが大群を率いて現れ、蔵王菩薩は道賢に太政天神が来たと告げた。太政天神は道賢を自身の居城へ連れていき、かつて自分は菅原道真であったことと生前の恨みを忘れられないことを話した。しかし、道賢を真摯に信仰する者がいたならば、天下の安寧を願う道賢の心に応えるという。太政天神の言葉を聞き終えた道賢は金峯山に戻り、蔵王菩薩によって地獄に連れて行かれた。道賢は地獄で延喜帝(醍醐天皇)と藤原時平などの廷臣が責め苦を受けている光景を目撃した。延喜帝から救済の願いを承ったところで、道賢は目を覚ました。道賢は名を日蔵と改めた。貴族たちは、東西の乱が鎮圧されて天下が平和になったと思ったのも束の間、今度は道真の怨霊が襲ってくるのかと恐怖におののいた。
同年十一月、保憲が御暦の作成に関わった初めての御暦奏が行われた。造暦の功績によって、保憲は暦得業生に昇格した。陰陽寮では、得業生に任じられた生徒は将来の博士職を約束される暗黙の了解があった。晴明は、保憲が博士になれば自分も陰陽寮の生徒になれると期待する。
泰山府君が地獄に満ちている邪気を調べたところ、地獄の奥底に強い邪気が渦巻いていた。白雪をはじめ冥界の神仙たちは対策を練ることになる。
第5話
地獄の邪気は魔の炎と化しており、並の仙人では太刀打ちできない状況になっていた。白雪は自分が罪人を厳しく罰したせいだと責任を感じた。彼女は父と兄の制止を振り切り、自分の命と引き換えに災いを鎮めた。その場には白雪の体は残っていなかった。泰山府君と炳霊帝君は、白雪が死んでしまったと思い悲しんだ。
天慶五年(942)三月、天変地異が頻繁に起こった。以前、日蔵上人が金峯山に倒れた際に太政天神と化した菅原道真が大災害を引き起こして都を滅ぼすと予言していたことから、人々は天神とその眷属が襲ってくるのかと恐怖に震えた。
三月のある日の夜更けに晴明が空を見上げていると、空から星のように光り輝くものが地上に落下していくのを目にした。普通の星に比べてとてつもなく強い光を放っていた。落ちていったのは、北山の方角だった。晴明が大急ぎで走っていくと、白装束の女が傷だらけで倒れていた。少女の側には白い傘が落ちていた。晴明は女に声を掛けるが、返事はない。女が死んでいるのかと思ったが、よく見ると息はあったので気を失っているだけだとわかった。そこへ、群盗と思しき男たちの声が聞こえてきたので、晴明は女を抱きかかえながら走って忠行の家に連れて帰り、女の服と体に付いていた血を拭き取って、忠行らと一緒に彼女を介抱する。
忠行の従者が医師を呼んできた。医師が女を診察したところ、外傷はなく、内臓にも問題はなかった。晴明たちは不思議に思います。真っ白な装束に包まれた少女を見た忠行は、承平・天慶の乱を鎮めた白衣観音の化身ではないかと冗談を言って、保憲に咎められる。
夜が明けてもなお、女は目覚めていなかった。忠行と保憲は女の正体を巡って議論した。物の怪であるとか、天下に危機が迫っているときに現れる星の精などという予想がなされた。三日後、女房が慌ただしく走ってきて、女が目覚めたと知らせてきた。目を開いた彼女の顔を晴明が見つめると、天女のように光り輝くような容貌をしていた。女は一切の記憶を思い出せず、自分が何者なのかすら分かっていなかった。しかし言葉は覚えていたので、かろうじて意思疎通はできた。
晴明たちが話し合った結果、記憶喪失状態で身の拠り所のない少女を路頭に迷わせるわけにもいかないので、記憶が戻るまでの間は彼女を賀茂の家に留めておくことになった。女は名前も思い出せなかったので、仮の名前を付けることになった。保憲が女を拾った晴明が名前を考えるべきだと言ったので、晴明は、女が白装束を着ていたことから梨花と名付けた。こうして、梨花は賀茂忠行の娘として生きていくことになる。
晴明は梨花を発見したときに傍らにあった傘を彼女に見せた。真っ白な唐傘で、自由に開閉ができた。しかし、梨花は何も思い出せなかった。
梨花が着ていた装束は血が染み付いて取れなかったので、女房によって適当な着物に着替えさせられた。数日間何も食べていなかったので、忠行は女房に食事を出させた。梨花にとっては、食べたことのない味がした。梨花は体を洗いたいと晴明に申し出る。晴明は暦によって沐浴を行う日が定められているが、今日はその日ではないので沐浴はできないと教える。
梨花は保憲から余っていた具注暦を受け取り、忘れてもまた思い出せるようにその日の出来事を書き記しておくように言われる。晴明から見た梨花は都で暮らしたことがなかったのか、あるいは忘れていたようだったので、都での生活規則について一から教える。梨花にとっては、何かと苦労の絶えない新生活だった。
梨花が賀茂家に来てから一ヶ月が経過した。部屋の中で梨花が腹を抱えてうずくまっていたので、晴明がどうしたのか聞こうとしたところ、彼女の着物の下から血が滴っているのが見えた。晴明は梨花を抱きかかえて寝台の上に横たわらせ、忠行と保憲を呼ぶ。女房が見たところ、月の障りだった。
暇そうにしていた梨花を見て、忠行は晴明に詩歌や管弦などを教えてみてはどうかと提案する。そこには、梨花にたくさんの刺激を与えることによって何か思い出すかもしれないという考えもあった。そこで、晴明は久しく誰にも触れられていなかった箏を引っ張り出してきて、梨花に渡した。梨花が箏を弾いている間、昔自分が仙人のような風貌の人々と一緒に管弦の遊びをしている光景が思い出されるようだった。
梨花は、賀茂家が陰陽師の一族であり、晴明と保憲は陰陽寮の官人で、晴明は若くして両親を亡くしたので賀茂家に住み込みで保憲の弟子になったことを教えられる。梨花は、自分を助けてくれた晴明たちに恩返しをしたいと考える。
第6話
天慶五年(942)四月、晴明が梨花を助けてから数ヶ月経ったが、家人の中には、彼女を物の怪あるいは怨霊ではないかと噂する者もいた。梨花は居心地の悪さを感じ、申し訳なく思っていた。
梨花にとって初めての庚申の日が来た。人間の体内には三尸の虫が潜んでおり、庚申の日に眠った人間の体内から飛び出して司命神に罪状を密告するので、この日は眠ってはならなかった。梨花は司命という名前に聞き覚えがある気がした。晴明が、庚申の日に貴族たちは管弦の遊びをしたり歌を詠んで夜を明かすのだと説明すると、梨花は和歌を覚えたいと言う。晴明は忠行が友人からもらったという古今和歌集を持ってきて、一晩中梨花に和歌を教えた。
夜が明けて、部屋から晴明と梨花が二人で出てきたのを目撃した保憲は晴明を問い詰めるが、晴明は男女の交わりが禁じられている庚申の日に梨花に何かするわけがないと言う。
東西の兵乱を平定したことを祝って、石清水臨時祭が行われることになった。
ある日、晴明と保憲が帰宅すると、机の上に一通の手紙が置かれていた。手紙は梨花が書いたもので、彼女は皆に迷惑をかけたくないからと家を去る決意をしたのであった。晴明は、幼い頃に母が手紙を残して行方知れずになったことを思い出して、胸騒ぎがした。夜が更けようとしていたにも関わらず、晴明は梨花を探しに出かける。
七夕の日、晴明は梨花から何を願うのか聞かれる。彼は白雪と出逢ってから今まで、再び彼女に逢いたいと願っていた。梨花は晴明にとって白雪はとても大事な人なのだと感じた。願いごとをするとき、梨花の心の中に盗賊から救ってくれた恩人が思い浮かんだが、彼女は思い直して、晴明と白雪が再会することを願った。
第7話
晴明は梨花から少しでも賀茂家の役に立ちたいと頼まれ、以前にも増して教育に勤しんだ。秋になって、梨花が賀茂家の繁栄と晴明の出世を祈願したいというので、晴明は彼女に付き添った。
晴明と梨花は延暦寺を訪れようとしたが、女人禁制のため梨花は登山を断られてしまう。晴明がなぜ女人禁制なのか尋ねると、僧侶曰く女は穢れた存在だからだという。梨花は、女性が山に入ることで山が穢れるならば、山には鳥や獣の雌が棲んでいるのだから、その考えに従えばこの山はすでに穢れていることになるのではないかと反論する。口論が白熱しそうになったところで晴明が制止した。仕方なく、山の麓にある赤山禅院を詣でることになった。
この寺院は、かつて遣唐使船に乗って唐に渡った慈覚大師円仁が赤山明神の加護に感謝し、日本に戻ったら明神を祀ると誓ったのが始まりである。円仁は存命中に寺院の建立は果たせなかったものの、その遺命が弟子の安慧に受け継がれて赤山禅院として創建された。そして、その赤山明神は唐において泰山府君と呼ばれていた。その名前を聞いて、梨花はどこかで聞いた覚えがありました。晴明は日本名である赤山明神ではなく唐名の泰山府君を聞いたことがあるという梨花を不思議に思う。
寺院の周りには紅葉が咲き乱れ、色鮮やかな景色が広がっていた。梨花は泰山府君に縁を感じ、毎年参詣することに決めた。
その日の夜、梨花は気がつくと山の頂上らしき場所に横たわっていまた。人が近づいてくる気配がして、寝巻姿であることに気づいた梨花は慌てて木陰に身を隠した。神仙と思しき老人と女と見紛うほどの美しい青年が来た。青年の頭には、竜の角のようなものが生えていた。老人は青年にもうすぐ妹ができると話し、崖の淵にあった女神の石像に手をかざした。すると、その場がまばゆい光に包まれた。
石像がまばゆい光に包まれたかと思うと、そこには石像ではなく一人の少女がいた。人間の年齢でいうと九歳から十歳程であった。石像の女神がそのまま人間になったようだった。梨花が驚いていると、少女はゆっくりと老人たちの方へ歩いていった。青年が少女の前にしゃがみこんで手をとり、家族の挨拶をする。三人が山を後にして姿が見えなくなったところで、梨花は石像のあった場所へ近づきた。しかし、その時激しい風が吹き付けて、梨花は崖から落ちてしまう。悲鳴を上げて目覚めると、いつもの部屋の中にいた。夢だったのかと安堵していると、彼女の悲鳴を聞いた晴明が駆けつけた。梨花は夢を見ていたのだと話した。
朝食のとき、梨花は昨晩見た夢について考えていた。赤山禅院へ参詣していたので、夢に現れた老人は泰山府君ではないかと疑う。しかし、側にいた青年と少女が何者かまではわからなかった。彼女は晴明に変な夢を見なかったか尋ねたが、晴明はぐっすり眠っていたのでどんな夢を見ていたか覚えていなかった。
天慶六年(943)、年が明けて四方拝を行った。各々が本命星に向かって呪文を唱えた。梨花は生年がわからないので、晴明は発見された年を生年とするよう伝えた。梨花が賀茂家に引き取られてから一年が経った。晴明は梨花に以前の記憶を思い出せたか聞いたが、梨花は相変わらず何も思い出せていなかった。彼女は賀茂忠行の実の子でないにもかかわらず、姫君のように養育されていることに居心地の悪さを感じていました。
忠行に息子(後の慶滋保胤)が生まれた。文章家の娘との間に生まれた子で、異母兄にあたる保憲は自分より二十歳以上年の離れた弟ができたことに驚く。忠行もこの年になって子を持つとは思っていなかった。
この話を聞いた梨花は、忠行が保憲の母以外の女とも関係を持っていることに疑問を持つ。晴明は、結婚している男が複数の女と交わるのはよくあることなのだと説明するが、梨花は納得いかない様子だった。
四月、保憲が暦得業生と陰陽師を兼ねることが決まった。陰陽寮では、博士に就任する前に陰陽師として実務経験を積むことが定められていたからである。これは、上流貴族にとっての優れた陰陽師像が占いを的中させる陰陽師であったり、祓えや祈祷などの呪術的行為によって効験を示す陰陽師であることが関係していた。晴明は師匠の前途がいよいよ明るくなってきたことを祝い、弟子としてより一層支えていくことを誓った。
第8話
賀茂保憲が陰陽師になった話を聞きつけた藤原忠平が忠行の許を訪ねてきて、彼の息子に保憲を仕えさせるよう勧めてきた。忠行は喜んで忠平の提案を受け入れる。また、梨花は外で働いて賀茂家の役に立ちたいと願っていたので、彼女も雑仕女として仕えることになった。外の世界を知らないに等しい彼女に対し、外の世界を知らないに等しい彼女に対し、晴明は藤原氏の権勢について説明する。師尹は世間の人々から氷男と評されるほど冷たい性格だと聞いて、梨花は緊張する。梨花は保憲の負担にならないように貴族の女性の嗜みを猛勉強する。そんな梨花の努力を見た晴明は彼女を応援し、勉強に付き合う。
出仕の日が近づいてきて、晴明は保憲にこれから仕える忠平の息子について尋ねる。保憲は、一介の陰陽師にすぎない自分が藤原実頼や藤原師輔のような上臈に仕えるとは思っていなかった。晴明が名前を聞かなかったのかと尋ねると、保憲は相手が誰であろうとやることは変わらないと答える。
出仕の当日になったが、梨花の姿が見当たらない。晴明と保憲が彼女を探し回ったところ、物陰に隠れているのを見つけた。失礼なことをしてしまわないか緊張している梨花に対して晴明はいざとなったら自分と保憲が何とかすると励ます。晴明は梨花に、出仕が困難だと感じたらすぐに報告するように約束させる。
師尹に会って、梨花は自分を盗賊から助けてくれた恩人だと気付く。晴明には、梨花にとって師尹は初対面ではないように見受けられたが、彼女はそのことについて何も話さなかった。晴明と保憲は誠心誠意仕えることを誓った。
身分の低い雑仕女は主人と直接顔を合わせることを許されず、人として扱われない存在である。それでも、梨花は家を支えるため懸命に仕事に励んだ。
暦得業生と陰陽師の両方の仕事を抱えるようになり、保憲が過労で倒れてしまう。晴明は梨花と一緒に保憲の疲労を回復するための薬を調合し、保憲は全快した。これをきっかけに、梨花は医学に興味を持ち始める。
第9話
藤原師尹の従者として、源満仲が保憲の許に翌年の暦本を作成するための料紙を持ってきた。晴明は病み上がりの保憲を補佐し、暦本を完成させた。二人は暦本を師尹へ渡し、誤りがあった時のためにその場に留まった。師尹は隅々まで目を通したので、なかなか帰ることができない。ようやく確認が終わったときには、深夜に及んでいた。
天慶七年(944)三月、上巳の祓の時期が訪れた。保憲が師尹の祓えを行うとき、晴明は梨花も一緒に祓わないかと誘う。梨花は雑仕女の自分が主人に顔を見せてはいけないと固辞し、離れた場所で薬草を摘んでいた。晴明は彼女の頑なな態度を見て、屋敷で酷い目に遭っているのではないかと案じる。
梨花たち雑仕女は、師尹の女房から虫けらのように扱われていた。しかし、数日後にその女房たちの姿が見えなくなったので、梨花は喜びながらも不思議に思う。意地悪な女房たちの本性を知った師尹が、娘芳子に悪影響を及ぼすからと任を解いたのであった。元気を取り戻した梨花を見て、晴明も安堵した。
四月、成明親王が皇太子になった。九月、激しい雨が降り川の水が溢れた。陰陽寮が洪水の吉凶を占ったところ、兵革・疾疫の兆しであった。その数日後、晴明は皆既月食を目撃する。忠行が言うには、皆既月食は貴人に憂い事がある兆しであった。賀茂保憲は貴族の誰かに病事があると奏上した。それから間もなくして、藤原忠平は重く患い、諸寺において加持祈祷が行われた。
第10話
天慶八年(945)正月、女叙位が行われて藤原安子を従五位上に叙すことが決まった。先例のないことだったが、成明親王の愛情が盛んなためにこの叙位を行うことになったのである。
忠平は脚病に冒されており、自力で歩けないほど容態が悪化していた。僧侶たちが加持祈祷を行い、陰陽頭の文武兼や陰陽助の平野茂樹が病を治すための祭祀を修したが、一向に効験はみられない。二月に行われる大原野祭では束帯を着用することができなかった。一ヶ月後、忠平の病はさらに悪化して除目を行うことができなくなってしまう。藤原師尹は心配になって忠平の許を訪ねた。朱雀天皇は除目を行うために藤原仲平を召させたが、仲平は病を称して参内しない。しかし、忠平もまた体調が悪く参内するに堪えなかった。
翌日、忠平は師尹に付き添われてなんとか参内したものの、除目の議において一言も発することができなかった。
梨花は女房たちが忠平の病について話しているのを耳にして、密かに五木湯を煎じ、女房を介して飲ませた。一時的に回復したものの、すぐに再発してしまった。
晴明は、保憲が祭祀を修して忠平の病が治ったように見せられないか思案を巡らせ、康頼の許を訪れる。彼は脚病の治療には金牙酒が必要だと説明する。本当に効果が得られるのか定かではなかったが、晴明は賭けに出た。多忙な保憲に代わり、晴明は康頼と梨花と一緒に材料を採取することになった。特に重要な金牙石は、但馬国まで求めに行った。
途中で鬼の群れに遭遇し、二人は必死で逃げたが追い詰められて崖から落ちてしまう。その時、晴明の身体から九尾が放たれて二人を包みこんだ。梨花は晴明の異変に気付き、彼が狐の血を引いていることを察する。
第11話
梨花が晴明の正体に驚いていると、激しい雨が降ってきた。彼女は気を失っている晴明を担いで洞窟に身を隠す。晴明は崖から落ちたにも関わらず無傷で助かったことを不思議に思う。梨花は晴明が自分の正体に気付いていないのだと察する。夜が明けて、晴明と梨花は丹波康頼と合流した。康頼は一晩中二人を捜していた。三人が無事に都に帰ってきたのを見て、賀茂保憲は安堵した。
保憲は藤原忠平の病を治すために鬼気祭を修した。晴明も弟子として保憲を補佐した。その後、梨花が金牙酒を調合し、女房を介して忠平に服用させた。すると、忠平の病はみるみる回復した。何も知らない人々にとっては、あたかも保憲が祭祀を修してから病が癒えたように見えた。
九月、仲平は病によって出家し、まもなく亡くなった。仲平は所労によって久しく朝廷の政に参加できない状態が続き、前月から病状が悪化してひどく苦しんでいた。忠平が藤原氏の戸主となった。
数ヶ月後、忠平が酒が苦くなっていると言い出したので、藤原師尹は源満仲に命じて極秘に調査を行わせた。成分を調べたところ、金牙酒だとわかった。その時、師尹は本当に忠平を救ったのは梨花だったのだとわかった。
天慶九年(946)三月、上巳の祓の時期になって、晴明と保憲は多忙で師尹を迎えにいく余裕がなかった。そこで、梨花が師尹と従者の源満仲を案内した。梨花は師尹から忠平の病が癒えた原因について話を振られ、動揺する。
第12話
梨花は藤原師尹から忠平の病について問われたが、賀茂保憲の祭祀が功を奏したのだと譲らなかったので、それ以上追求されることはなかった。やがて晴明が保憲と一緒に河原に到着したが、晴明は師尹に金牙酒の秘密を知られたのではないかと危惧する。
天慶九年(946)四月、大極殿において村上天皇の即位式が行われた。天皇の即位に伴い、晴明は大嘗会において安倍氏代々に伝わる吉志舞を奉納することになった。この舞は神功皇后が新羅征伐から凱旋した後の大嘗会において安倍氏の祖先が奉納し、以後、代々安倍氏の当主が行ってきたものだが、父益材が急な病で亡くなったために晴明は舞を伝授されておらず、どのように踊ればいいのか分からなかった。その舞は保憲も知らず、忠行も覚えていなかった。朱雀天皇の時は晴明がまだ幼かったゆえに免除されたが、今回は避けて通ることはできなかった。そこで新しく舞を考えることになる。
晴明は丹波康頼から葛の花を陰干しにしたものを勧められた。服用すると良い考えが浮かぶという言い伝えがあった。葛に因縁をもつ晴明は断ろうとしたが、梨花に説得されて渋々服用した。
気が付くと、晴明は森の中に倒れていた。梨花は、晴明が倒れた森から少し離れた神社で目を覚ました。辺りを見回すと、うら若い女が傷だらけで倒れているのを発見した。梨花が女を助けようとすると、向こうから男がやって来た。男には梨花の姿は見えていないようだった。男は女に声をかけましたが返事がないので、彼女を抱き上げて何処かへ去っていった。ちょうどその後に男が去ったのとは反対の方向から晴明が来て、梨花と合流した。
晴明と梨花が信太森を出ると、晴明の家の庭に出た。晴明は彼の両親が仲睦まじく暮らしているのを見た。梨花は、神社で見た男女が晴明の両親だったことを知る。晴明と梨花は、自分たちがいるのは現実の世界ではないことに気づく。まだ幼い晴明が出てきて、両親から満月丸と呼ばれていた。満月丸には虫を食べるという悪食の癖があり、梨花は思わず悲鳴を上げそうになった。それは、晴明にとってはあまり振り返りたくない過去だった。
晴明が幼い頃の幻想が現れては消えて、葛子が満月丸に子守唄を聞かせている光景が見えた。いい夢を見ているのか、満月丸はすやすやと眠っていた。その時、梨花は葛子の後ろの障子に狐の影が映っているのを目にした。梨花は以前崖から落ちたとき、晴明の体から狐の尾が突然放たれたのを思い出した。彼女は晴明の母が狐だったことを知った。葛子は涙を流しながら、母の血筋を受け継いでいるがゆえに虫を喰らうのだろうかと満月丸に語りかける。
彼女がさめざめと泣いていると満月丸が目を覚まして、目に涙を浮かべながら母が悲しむのならばもう虫は食べないと誓った。やがて、葛子が突然姿を消して益材と満月丸はとても悲しんだ。益材は障子に和歌が書きつけてあるのを見つけて、信太社へ急いだ。晴明と梨花が益材を追うと、信太森にたどり着いた。しかし、益材を見失って森の中を彷徨っている間に、二人ははぐれてしまう。梨花は葛子が益材に正体を明かし、天の掟によって二度と逢うことはできないと別れを告げているのを見た。葛子の正体は天帝に仕える仙狐だったのだ。
晴明と梨花は幻想の世界からの脱出を試みるが、戻って来れるのかわからずにいた。気がつくと晴明と梨花は家にいた。二人は迷魂草によって幻を見ていたのです。しかし、音楽と舞は確かに覚えていたので、それを元に吉志舞を考えることにしました。幻想の世界で晴明の過去を追体験したことによって、梨花は晴明が仙狐と人間の間に生まれた子だと確信しました。
十一月、大嘗会が行われた。晴明は吉志舞を奉納した。禄として絹を賜った。昔を思い出したくない晴明は二度と葛の花を服用しないと決めた。
師尹が立春の方違のために保憲の許を訪れた。饗宴の後、晴明は師尹が御簾越しに梨花を垣間見ているのを目にして、彼が梨花に想いを寄せていることを察する。
第13話
晴明は藤原師尹が梨花の部屋に入っていかないように制止して何とかその場を収めた。晴明は師尹に忠平の病気平癒の真相を知られたことに気付いたが、賀茂保憲は依然として重用されていたので静観することにした。
天暦元年(947)三月、近江国比良天満宮の禰宜良種が菅原道真の託宣があったことを奏上した。良種には七歳になる息子がいて、ある日突然息子の様子がおかしくなったかと思うと「私は菅原道真の化身・太政威徳天である。北野の地に松の木を植え、天満大自在天神として祀ってほしい」と告げて、たちまち正気に戻った。そこで、朝廷は道真を祀るための神社を造営することになった。人づてにこの話を聞いた梨花は、人間にとって夢とはそんなに重要なものなのかと尋ねる。晴明は、夢は時に神仏からの大事なお告げであったり、重要な意味を持つことがあるのだと言う。
都で疱瘡が流行り始め、陰陽寮は疫病を鎮めるために建礼門前において鬼気祭を修しました。しかし、その後も疫病の勢いは止まらず、多数の死者が出ました。とうとう、村上天皇も疫病を患ってしまいます。天皇の疫病を治すために諸社奉幣や加持祈祷が行われ、陰陽寮も四角祭を修しますが、一向に効験は見られません。
ある日、梨花が金烏玉兎集をぱらぱらとめくっていると、ふと泰山府君という字が目に入り、あの赤山禅院で祀られている神の名前だと気になった梨花はその頁を読んでみました。そこには、鬼王が疫神である牛頭天王の災いから逃れるために博士の勧めで泰山府君の法を行う様子が描かれていました。晴明も梨花に金烏玉兎集を見せられて牛頭天王縁起を読みました。晴明はこの修法を行えば疫病を解決できるのではないかと思い立ちます。晴明は保憲に泰山府君の法について知らないか尋ねると、七献上章祭という泰山府君を祀る陰陽道の祭祀があるといいます。忠行は『焔羅王供行法次第』という密教の経典でも泰山府君を見たことがあると言って、晴明にその経典を見せました。
そこには病人に対して行う修法について記されており、焔羅王に死籍から名前を削って生籍に移してもらうように乞い、病人の家で泰山府君の呪文を唱えることになっていた。陰陽道と密教の両方で、泰山府君は人間の生死を司る神だと信じられていたようでした。忠行は藤原忠平に頼んで、保憲が天皇のために七献上章祭を行う機会を設けてもらいます。忠平の日記にもかつてこの祭祀が行われていたことが書かれていました。
金烏玉兎集の中で、鬼王は僧侶たちに命じて呪文を唱えさせていたので、百人の僧が召された。鬼王が招請した僧の中に呪文を怠った者がいて牛頭天王に攻め込まれてしまったので、晴明は僧たちに呪文を怠らないように頼む。保憲の七献上章祭が功を奏し、天皇の病は平癒した。疫病から天皇を救った功績によって、保憲は陰陽博士に任じられた。保憲は、自分に七献上章祭を勧めた弟子の晴明にも褒美を与えてほしいと奏上する。そこで、晴明は晴れて陰陽寮の生徒になることができた。
陰陽寮の生徒になったことで保憲は晴明に結婚を勧めるが、晴明はどうにも食指が動かない。彼らの話を聞いていた梨花は、晴明が将来の妻に正体を知られたとき、結果として傷つくことになってしまうのではないかと案じる。そこで、彼女は晴明の結婚に反対した。未だ自分の体に狐の血が流れていることに気づいていない晴明は梨花の意図がわからず困惑する。
第14話
天暦二年(948)正月、老い先短いと悟った藤原忠平は、藤原師尹が生きていくのに困らないように彼を昇進させる。除目によって師尹は兄の藤原師氏を含む五人を飛び越えて昇進した。
賀茂保憲は村上天皇を疫病から救った功績として陰陽博士になった。保憲にとって、暦博士よりも先に陰陽博士に就任したのは予想外だった。保憲は晴明を陰陽寮の有力な官人の娘と結婚させて、後ろ盾のない彼の前途を明るくしようとしていた。晴明の目から見れば保憲も充分有力な官人だったが、謙虚な保憲は自分が陰陽寮で最も期待されていることに気付いていない。
先年の疫病で陰陽寮は人手不足になり、晴明と保憲は多忙を極めた。保憲の競争相手が減るのは晴明にとって好都合だったが、再び過労で倒れてしまうのではないかと彼の身を案じる。晴明は梨花に相談して、保憲が健康を保てるよう薬湯を煎じさせる。
ある日、藤原伊尹が牛車から降りて参内するところへ一羽の鳥が飛んできて、伊尹の頭上に糞を落としました。ちょうど晴明がその光景を見ていたところ、伊尹と目が合ってしまいました。伊尹は慌てて晴明の方へ近づいてきて、不吉な兆しではないかと不安になる。晴明は、兵革の兆しがあるから何者かと争うことになるだろうと答える。晴明は伊尹に助けを求められ、従者によって牛車に乗せられて伊尹の屋敷に向かいます。晴明は伊尹に身固めをして一晩中加持祈祷を行いました。
夜が明けて、戸をはたはたと叩く音がしたので、晴明は戸を開けました。陰陽師の従者を名乗る男は、主人は先日恋人と逢瀬を交わした男を呪詛するように命じられて悩んだ末に呪詛を行いましたが、相手方の陰陽師の護りがあまりに強力だったために呪いが跳ね返って死んでしまいました。従者は呪詛の相手が伊尹だとは知らなかったと詫びて帰って行きました。晴明は、昨日自分が伊尹を見つけていなければ呪い殺されていただろうと話します。伊尹は晴明に感謝してもしきれないと喜びます。帰宅した晴明は、思いがけず呪詛返しをしてしまったことを話します。相手方の陰陽師は死んでしまったということでしたが、陰陽寮に欠員が出た様子は見られません。忠行は、陰陽寮に所属している陰陽師は私的に呪詛を行ってはならないと定められているので、安易に呪詛する者はいないと話します。呪詛したと発覚した陰陽師は、遠国に追放されるのです。それ故に、呪詛したい者がいる貴族たちは、陰陽寮に在籍していない民間の陰陽師に依頼するのだといいます。そのような陰陽師は通称”かくれ陰陽師”と呼ばれていました。中には、法師の身でありながら陰陽師を兼ねる者もいました。
天暦二年(948)三月、右近衛府の曹司に群盗が侵入し、衣装を掠め取る事件が発生しました。これを契機に、京中に群盗が横行するようになりました。しかし、賀茂の家には晴明が竜宮で賜った強力な鎮宅霊符が貼られていたので、群盗の被害に遭うことはありませんでした。五月には、昼間にもかかわらず人家に群盗が押し入る事件がありました。このことは、世間の人々を震撼させました。そこで、晴明は保憲に鎮宅霊符を作って皆に配ることを提案する。
ある日、侍女の一人が師尹が家宝にしていた硯を不注意にも割ってしまいました。たまたまその様子を目撃した梨花は、自分が罪を被るからと言って割れた硯を預かります。自分が家宝を割ったと話せば間違いなく出仕を辞めることになるだろうと考えた彼女は、師尹の許を離れる良い機会だと思ったのです。そうして、梨花は硯を割ってしまったことを師尹に告げますが、彼は硯を割ったのは梨花ではないことを知っていました。実は、侍女が硯を割ったのを源満仲が目撃して事前に知らせていたのです。このことによって、梨花は師尹の勘気を蒙ってしまいます。この日から、梨花は自宅の部屋で寝込むようになってしまいました。家の人々は皆、彼女を心配しました。晴明は梨花から一連のできごとについて事情を知りました。そうしているうちに、梨花は病を患ってしまいました。丹波康頼が家に来て、彼女を診察します。晴明は梨花の苦しい心境を慮りながらも、主人に虚言を述べてしまったことは謝罪したほうがよいと説得します。梨花の病はなかなか治らず、康頼は小一条邸を訪ねて彼女の病状が思わしくないことを報告したら許してくれるのではないかと提案します。
第15話
天暦三年(949)、この頃の梨花は、初めて晴明と出逢った時のあどけない姿からは考えられないほど色めいていた。
三月、藤原師尹は藤原実頼・藤原師輔・藤原師氏とともに法性寺で藤原忠平の七十算を祝った。
六月、陰陽寮は藤原師輔から干ばつが続いていることについて吉凶を占うよう命じられた。朝廷は検非違使に炎旱の祟りを為している神社と山陵を調査させた。さらに、祈雨のために大赦が行われ、伊勢大神宮で祈祷が行われた。七月に入ると干ばつはますますひどくなり、田園が焦げて枯れてしまった。朝廷は百姓たちに神泉苑の水を配り、田に注がせた。陰陽寮もまた、雨を降らせるために五龍祭を修した。晴明と保憲もこれを行った。
七夕の日、祈雨の願いが天に届いたのか、大雨が降ってきた。晴明と保憲は五龍祭の効験があったと喜ぶ。しかし、川が氾濫して水が道路に溢れ、道を往来することができなくなりました。天の川が氾濫してしまったと喩える人もいました。ちょうどその頃、梨花は小一条邸に出仕していました。彼女は家族が心配するからと理由をつけて帰ろうとしますが、師尹は源満仲に梨花が小一条邸に泊まることを伝えるよう命じました。こうして、彼女は初めて小一条邸で一夜を過ごすことになりました。何も知らない保憲は梨花が水害に遭うことはないと安心しました。忠行はせっかくの七夕なのに道が塞がっていては男女が逢瀬を交わせないと冗談めいたことを言いますが、もはや晴明の耳には届いていませんでした。彼には、天の川を渡った織姫が川の氾濫によって帰る術を失ったように思えました。
しかし、心の奥底では、こうして七夕の日に洪水で留まらざるを得なくなったのは天が引き合わせたのかもしれないという思いがありましたが、彼女は本心を認めたくなかったのです。それは師尹も同じ気持ちで、普段は氷のように冷たい彼もこの時ばかりははやる気持ちを抑えられません。
夜も更けようとしていましたが、なかなか師尹は帰ってきません。
諦めかけた梨花が寝床に入ろうとしたとき、師尹が部屋に入ってきました。そうして、二人はやっとお互いの愛を確かめ合ったのです。
梨花が目覚めたときにはすでに夜が明けていて、師尹の姿はありませんでした。昨夜のできごとはすべて夢だったかのように思えましたが。しかし、辺りに衣服が散乱しているのを見て、夢ではなかったのだとわかりました。
洪水も収まっていたので、梨花は満仲に連れられて家に帰ることになりました。人に見つからないように、こっそりと小一条邸を後にしました。晴明は艷やかな梨花の顔色を見て、師尹と何かあったのではないかと訝しみましたが、彼女が何事もなかったかのように振る舞うので聞けませんでした。陰陽寮では大人数で五龍祭を修したことで水害が起こったのではないかと皆が案じていましたが、雨を降らせるために陰陽寮だけではなく諸寺・諸社でも祈祷が行われていて、神泉苑の水を池の外に放つと水の恩恵があるという古くからの言い伝えがあったので朝廷から咎められることはなかった。
八月、藤原忠平が亡くなり、保憲は師尹に命じられて忠平の葬儀の雑事を占い定めた。忠平は法性寺の外の艮の土地に葬られた。忠平の住んでいた小一条邸は、彼の遺言のもと師尹が引き継ぐことになった。
晴明は梨花の月の障りが来ていないことに気付く。心当たりがないか問うたが、彼女は話そうとしない。嫌な予感がした晴明は丹波康頼に脈を診てもらうことを提案するが、拒まれてしまう。
第16話
梨花は、自分の身に何かが起こってしまったのではないかと不安になります。藤原師尹もまた、何ヶ月も退出していない彼女を不審に思っていました。
数日後、腹に痛みを感じた梨花は、やっと月の障りが来たと思って家に帰ります。やがて激しい腹痛が彼女を襲い、ただごとではないと感じた晴明は急いで丹波康頼を呼びに行きます。女房たちが梨花を看病している間に彼女の悲鳴が聞こえてきて、晴明をはじめ賀茂家の人々は皆心配します。このまま息絶えてしまうのではないかと思われる程で、賀茂保憲は急いで師尹に知らせに行きました。主人が穢に触れないように、源満仲が代わりに様子を見に行くことになりました。数時間後、晴明は康頼から梨花の子が流れたことを伝えられて衝撃を受けます。話し合いの末、梨花の心身を慮って彼女には真実を知らせないことになりました。晴明は梨花に、初めて男と契った後は月の障りが遅れて痛みやすいのだと涙を抑えながら説明しました。
天暦四年(950)三月、内裏の進物所で触穢があったので、藤原実頼たちが陣頭において賀茂祭を延期して二度目の申・酉の日に行うことについて議定が開かれました。先例はありませんでしたが、他の祭に倣って二度目の申・酉の日に賀茂祭を行うことを定めました。これらの日に祭を行うことについて、陰陽寮は神祇官とともに吉凶を占いました。賀茂上下の社司に命じて、祭の当日までに不浄の気が出て来ないように祈り申させることになりました。
第17話
天暦四年(950)五月、茂樹が急病を患ったので、晴明と保憲は彼を見舞いに行きます。そこへちょうど、藤原安子が皇子を出産しました。源高明は茂樹を召して出産後の雑事を行う吉日を選ばせようとして従者を差し遣わすが、病に臥せっている茂樹は参上することができません。そこへ、高明と藤原師輔が訪ねてきて、晴明と保憲は茂樹の代わりに吉日を選ぶことになります。事が終わって、晴明たちは禄を下給されました。
皇子を東宮に立てることが決まり、藤原伊尹が師輔の許へ来て、皇子の名を憲平と定めたことを伝えました。
残菊宴において、菊の花の匂いを嗅いだ晴明は突然気分が悪くなった。異変を感じた保憲が駆け寄ると、晴明から狐の耳が生えているのが見えた。
第18話
保憲は晴明を布でくるみ、人目を避けて帰宅した。出迎えた梨花は、晴明の正体が保憲に知られてしまったと動揺する。だが、幼い頃から晴明と行動をともにしてきた保憲は彼の性格をよくわかっており、驚きはしたものの、これまでと変わらず接した。そして、梨花が晴明の結婚に反対し続けた理由をようやく理解した。
この時、晴明は初めて自分が人間と狐の合いの子だと知った。狐は菊の花を好むので、自ずと体が反応したのであった。彼は、正体を知ってもなお自分の側を離れなかった梨花に感じ入る。古来より狐は妖術を使えると言い伝えられていたが、晴明は母から何も教えられていないので、どのように力を生かせばよいのかわからなかった。
十月、保憲は大春日益満とともに藤原実頼によって陣頭に召され、造暦について問われました。算の誤りのため、藤原師尹が算博士を召して同席しました。明年五月の暦について、保憲は宣命暦を元に作成して朔日を丁酉としましたが、益満は会昌革を元に作成して朔日を戊戌としていました。実頼が判断しかねていると師尹が藤原忠平の日記を持ち出してきました。延喜十七年(917)十二月に暦博士葛木宗公と権暦博士大春日弘範が明年正月の日蝕の有無について議論した際、宗公は宣命暦に基づいて日蝕は起こると申し、弘範は会昌革に基づいて日蝕は起こらないと申しました。その時は宗公の意見を採用し、明年の正月に日蝕は起こりました。翌年十二月にも同様の議論がなされ、この時も宗公の意見を採用しました。また、天慶元年(938)に暦博士大春日弘範と権暦博士葛木茂経が造暦について議論したときは、茂経の暦本が採用されました。そこで、宣命暦に基づいた保憲の暦が採用されました。幾度にも渡る造暦の論争に終止符を打つためには唐から新暦を持ち込むことが必要でしたが、その機会はなかなか訪れませんでした。
第19話
天暦五年(951)、三十歳を目前に控えてもなお、晴明は結婚に乗り気ではない。このままでは安倍氏が断絶してしまうことを懸念する保憲に対し、晴明は、自分の正体を受け入れてくれる女でなければ信用できないと話す。保憲は、晴明が梨花との結婚を望んでいることを察する。
七夕の夜、梨花は物憂げに星空を眺めていた。織姫は年に一度の彦星との逢瀬を交わすが、梨花にとっての彦星は訪れそうにない。晴明は彼女に、七夕に白雪との再会を願うのは今年を限りにやめることを伝え、お互いに前に進むべきだと話す。晴明は梨花に淋しい思いをさせないと誓い、結婚を申し込む。梨花も晴明を受け入れられるのは自分しかいないとわかっていたので、彼の告白を受け入れた。
晴明は梨花と結婚した後のことについて話し合った。梨花は、夫は妻以外の女とも関係をもつことができるが、妻も同様なのか尋ねた。晴明は、他の女を愛するつもりはなく、梨花が他の男と交わったらその男を殺してしまうかもしれないと脅かす。梨花は晴明の鋭い目つきに震え上がった。
保憲は小一条邸を訪ね、藤原師尹に梨花が晴明との結婚に伴い出仕を辞めることを伝える。師尹は驚きを隠せない。
十月、後撰和歌集の編纂が始まった。藤原伊尹が和歌所の別当に任じられ、清原元輔らが昭陽舎において編纂を始めた。
二人の結婚を知らない藤原師尹は、保憲の造暦の功績を利用して藤原実頼に加階を進言する。賀茂家の家格を上げて、梨花を妾として迎えようと考えたのだ。
第20話
天暦六年(952)、賀茂保憲が従五位下に叙された。暦博士としては異例のことだったが、保憲の朝廷への多大な貢献を踏まえて叙爵されたのだ。保憲は驚くと同時に、父忠行の位階を越えることを不孝に思い、父に位を譲ってほしいと奏上した。その結果忠行にも叙爵が行われ、彼は思いがけない出世を喜んだ。
もはや陰陽頭と同等の立場になった保憲は、忠行に晴明と梨花の結婚を提案する。幼い頃から師匠を献身的に支えてきた弟子と、その師匠の妹の結婚を祝福しない人はいなかった。
藤原師尹は梨花を妾にすると伝えるために、保憲を呼び出した。しかし、彼が話を切り出す前に保憲が梨花と晴明の結婚を報告した。これを機に彼女との関係を絶つことを請われて、師尹は無情を貫くしかなかった。
梨花は師尹に晴明と結婚することを伝えた。師尹は彼女の未練を断ち切るために敢えて結婚を祝福し、冷たく突き放す。梨花は、師尹にとって自分は一時の遊びに過ぎなかったのだと絶望し、二人の情は完全に絶たれた。
晴明と梨花は祝言を上げて、結婚生活が始まった。とはいえ、晴明は未だ一介の生徒でしかないので、このまま賀茂の家に留まることになった。
第21話
天暦七年(953)、梨花が懐妊した。晴明は彼女が再び流産しないように、丹波康頼の助言の下でありとあらゆる安産祈願を行った。彼は世継ぎを求めていたので、男子が生まれるための様々な方法を試した。保憲が生まれてくる子を案じているところへ忠行が来て、晴明は普通の人間とは異なるが善良な子だから何も心配はいらないと元気づけた。保憲は忠行が晴明の正体を知っていたことに驚く。忠行は、弟子入り試験の時に晴明の異変に気付いていたのだ。
僧日延が呉越に留学することが決まりました。保憲は新しい暦を日本に持ち込む機会が到来したと考えます。彼は、諸道の博士はみな不朽の書物によって技術を磨いているけれども、暦道においては貞観元年(859)に宣命暦が日本に伝来してから百年近い時が流れていること、その間に大唐では暦が改められているにもかかわらず、その暦を日本に持ち運んでくる人がいなかったので、新暦が伝わってきていないことを奏上しました。村上天皇は保憲の願いを聞き入れ、日延に新暦を日本に持ち帰ってくるように命じました。そうして、日延は呉越に渡りました。
天暦八年(954)、梨花が男子を出産した。母子ともに無事だったので、晴明は大いに安堵する。梨花は初めて子ができたことを喜んだ。妊娠中も晴明はただひたすらに安産を願い、他の女に目もくれなかったので、彼女は晴明の深い愛情を感じた。梨花は初めて晴明と出逢ってから今までのことを回想し、世継ぎを産んだことでようやく彼に恩返しができたと感じた。二人は再び愛し合い、まもなくして梨花は二度目の懐妊を迎えた。
第22話
二度目の出産は、梨花にとって難産だった。晴明が見守る中、彼女は生死の境を彷徨っていた。庚申の日だったので、意識を失った梨花の体から三尸の虫が飛び出した。
冥界にいる泰山府君の許に、天界の司命星君から人間界に白雪によく似た娘がいるとの報せが届いた。泰山府君と炳霊帝君は、白雪が梨花という名前で人間として暮らしていることを知って驚く。三尸の虫から司命へ、梨花の行状が報告されたことによって彼女の存在が発覚したのだ。だが、人間の行状を見ることができるのは司命ただ一人なので、梨花がどのような人生を送ってきたのか知ることはできなかった。
彼らが梨花の様子を確かめたところ、彼女は今まさに出産の苦しみで息絶えそうになっていた。居ても立っても居られない炳霊は人間界に降り立ち、梨花の居場所を突き止めた。晴明は、神秘的な風貌の男が突然現れたことに驚きを隠せなかった。炳霊は梨花の体に仙力を注ぎ込み、彼女は無事に二人目の男子を出産した。
晴明は炳霊を引き留めようとしたが、彼は梨花の安産を見届けた後すぐに冥界に帰った。泰山府君と炳霊は、梨花が人間としての生を終えるまで彼女を遠くから見守ることにした。
第23話
天徳二年(958)、梨花の出産から三年の月日が流れた。賀茂保憲は息子光栄を暦生として陰陽寮に入れた。晴明は、保憲は光栄に暦道を継がせる気だと察した。世継ぎが生まれたことで、晴明はいつか賀茂家から独立したいと考え始めていたが、博士はおろか得業生にもなっていない彼にとっては夢のまた夢だった。
源満仲のもとに男子(後の源頼光)が生まれた。幼名を文殊丸といって、近所に住んでいたので一緒によく遊んでいた。
日延が符天暦を持って帰朝しました。日延は呉越の司天台で暦本を学んできました。この暦は唐の時代に曹士蔿が編纂した暦法です。今まで日本に伝来した暦は唐土の王朝で定められた官暦でしたが、符天暦は民間で作成された暦でした。官暦としては採用されなかったものの占星術に使用され、広く流行しました。それまでの暦法では暦の計算起点を数万年前に置いていましたが、符天暦は顕慶五年(660)に起点を置いていました。さらに、宣命暦では一日を八千四百分を数えていたのに対して、一日を一万分としていました。日延によると、唐の時代に安禄山が反乱を起こしてから私的に暦が作られるようになったということでした。
この暦には、日・月・五星のほかに羅睺・計都という特殊な星が存在します。保憲は符天暦の使用について村上天皇に奏上しましたが、天皇は官暦ではないことを理由に符天暦を用いた暦の作成を見送ったため、保憲は当面の間は宣命暦によって暦を作成し、確認用の暦として符天暦を用いることを定めました。
天徳二年(958)十月、藤原安子が中宮に冊立され、藤原芳子が女御になりました。
出産の時期が近づいた藤原安子は小一条邸に移りました。賀茂保憲は陰陽頭として出産後の雑事を行う吉日を選びます。そして、安子は皇子(後の円融天皇)を出産しました。皇子は守平と名付けられ、親王宣旨を下されました。
天徳三年(959)、保憲はさらなる暦道の研鑽のためには天体について深く知る必要があると考え、独自に天文道を学び始める。そんな時、白虹が太陽を貫く天変が起こり、世間の人々は大きな災いが起こる兆しだと騒ぎあった。冥界では、泰山府君と炳霊帝君が白面金毛復活の気配を感じ取る。もはや、梨花の人生を静観していられる状況ではなくなってしまった。
第24話
天徳四年(960)正月、叙位が行われて藤原伊尹・藤原兼通・藤原兼家が加階されます。兄弟三人が同時に加階された例は今までにないことでした。藤原師輔は栄華の極みだと感嘆しました。
四月、賀茂保憲は天文博士になった。彼は暦道・陰陽道・天文道の博士を経験したことから、三道の博士と評された。保憲は賀茂氏を暦家として栄えさせることに決め、弟子として長く仕えてきた晴明に一つの道を譲ろうと考えていた。晴明は保憲の推薦で天文得業生になった。晴明と梨花は長い時を経てようやく道が開けたと喜んだ。
ところが、この時期から天変が頻りに起こるようになり、疫病が流行り始めた。疫病によって多数の死者が出て、藤原師輔も病に倒れて亡くなった。保憲は、師輔葬送の雑事を行う吉日を選んだ。
生前、師輔は伊尹に自分の葬儀は簡素に行うように遺言を書いていたが、伊尹は遺言に従わず通例通り葬儀を行った。疫病の猛威はこれだけに留まらず、とうとう賀茂忠行も病に臥して亡くなった。その後もひどい干ばつに見舞われ、宮中では穢に触れることが多かった。晴明は大きな災いが起こるのではないかと懸念する。
白面金毛の魂の残滓が集まり始め、平安京に災いを及ぼそうとしていた。炳霊帝君は冥界の司命から死籍を渡される。この名簿には、少し先の未来で死ぬ人間の名前が記されている。死籍を読んだ炳霊は、数ヶ月後に平安京で大きな火災が起こり、梨花とその家族が命を落とすことを知る。
火災を鎮めるためには梨花が白雪として覚醒することが必要だった。天界の霓裳羽衣を梨花に着せれば神仙の力を取り戻せるが、その代わりに人間界で起こったことをすべて忘れてしまう。炳霊は悩んだ末に再び人間界に降り立ち、梨花の前に姿を見せる。炳霊を見た梨花は、幾度か夢に現れた神仙だと気付いた。彼女は炳霊から数ヶ月後に都に訪れる運命を告げられる。
第25話
梨花は炳霊帝君の話を簡単に信じることはできなかったが、もし本当に災いが起こったら力を貸すことを約束する。そして、その時が訪れたときのために晴明への手紙を書き残した。梨花が晴明に出逢った証として、最初に付けていた簪を同封した。手紙には、その簪を持って自分を尋ねるよう書いた。神仙が人間と触れ合うことは不可能だが、純粋な人間ではない晴明なら奇跡が起こるかもしれないと希望を託した。
梨花は晴明の母親と同じ運命を辿ることになってしまうかもしれない我が身を嘆いた。晴明は、物憂げな様子の彼女を見てよからぬことが起こるのではないかと不安を覚える。
天徳四年(960)九月二十三日、殿上では庚申御遊が催されました。賀茂保憲も参上していました。
亥三刻、宣陽門内の北腋陣から出火があり、外へ燃え広がりました。侍臣たちが悲鳴を上げながら走ってくるのが見えました。藤原兼家が奏上して言うには、左兵衛陣門が燃えており、未だ消火できていない状況でした。村上天皇は内侍所に納められている大刀契を取ってくるように命じますが、温明殿には炎が燃え渡っていて持ち出すことができません。火はすでに燃え盛っていたので、人々はみな紫宸殿の庭に脱出しました。
憲平親王は侍臣に抱きかかえられて脱出し、消火のために藤原師氏と藤原師尹が参入しました。師尹は輿を準備させ、天皇を太政官朝所へ避難させようとします。そこへ保憲が急いで走ってきて、太政官は天皇の御忌方であり、太白神の在る方位だと報告したので、天皇は職御曹司に移ることになりました。晴明は内裏の方角が燃え盛っているのを見て、保憲のことが心配になって急いで宮中へ向かいます。皆が慌てて逃げ惑うなか、多くの宝物が焼けてなくなりました。
三種の神器のうち、神璽と宝剣は天皇が自ら手に持って脱出しましたが、神鏡だけは取り出せず宮中に残されたままでした。藤原実頼は急いで温明殿に向かいましたが、すでに焼亡していました。仁寿殿の棟木も半分焼け落ちていました。燃え盛る炎の中、実頼は神鏡を探し回ったが見つかりません。やがて、灰燼の中から神鏡が飛び出し、ふらふらと浮かび上がって桜の木の枝に掛かりました。神鏡は凄まじい光を放っていました。その光は都全体を照らし、夜であるはずなのに昼かと思える程でした。梨花は、この光は魔尊の力によるものだと察し、急いで光が強く輝いている方へ向かいます。
炳霊に霓裳羽衣を着せられた梨花は白雪として覚醒し、神仙の力を取り戻した。だが、それは梨花として生きた記憶をすべて失ってしまうことを意味していた。
白雪は滄溟傘を手にして大雨を降らせ、炎を鎮めた。その場にいた人々はみな女神が現れたと驚いた。その時、晴明は梨花の正体が神仙だったとわかった。役目を果たした白雪は晴明を認識することなく、天に帰っていった。
第26話
天徳四年(960)九月、内裏焼亡の翌朝、朝廷の貴族たちは神鏡をはじめとした宝物を灰燼の中で探し回りました。藤原実頼は温明殿の瓦の上で神鏡を発見しました。神鏡はほとんど無傷でした。しかし、宣耀殿の宝物や仁寿殿の太一式盤はみな尽く灰燼となっていました。朝廷は内裏修復の作業に取りかかります。
火災があってから世の中は落ち着かなくなり、いろいろな噂が飛び交いました。中には、平将門の息子が入京したという流言までありました。藤原師尹は源満仲らに命じて京中を捜索させます。
梨花の死穢によって晴明は物忌に籠もらなければなりませんでした。晴明の家では、子供たちが梨花の不在を不思議がって悲しんでいました。晴明は、結局のところ自分だけではなく子供たちも母親がいない中で育っていかなければならなくなったことを嘆き悲しみます。それからしばらくは梨花との思い出に浸っていましたが、彼女との約束を思い出して一家を繁栄させることを誓います。
十月、内裏焼亡により、村上天皇が職御曹司から冷泉院へ遷御することについて、職御曹司から冷泉院は大将軍の方角に当たりますので、四十五日に満たないうちに冷泉院へ遷御してもよいか議論がなされました。秦具瞻と文道光は忌むべきだと申しました。賀茂保憲は、一方分法によって方角を測ると、冷泉院は巽の方角に当たり、今年の大将軍は午の方角に在るので忌む必要はないと申しました。結局、保憲の説が採用されて遷御が行われることになりました。本来であれば陰陽頭の具瞻の意見の方が重んじられるところですが、保憲が三道を究めた陰陽道の第一人者であるがゆえにこのようになりました。また、冷泉院は古くから在る邸宅ゆえに新宅の儀は必要ないのではないかと問われました。しかし、保憲は古い邸宅であっても犯土・造作があるのだから、新宅の儀を欠いてはならないと答えます。また、保憲が遷御の際に反閇を奉仕することになりました。十一月、天皇は冷泉院へ遷御されました。
触穢の期間を過ぎても晴明は陰陽寮に来なかったので、保憲は心配しました。しかし、少し遅れて晴明が来たので、安堵しました。
内裏の火災によって温明殿にあった四十四柄の剣が焼損した状態で発見されました。その中で、護身剣と破敵剣という二本の剣は特に重要な霊剣とみなされていました。内裏焼亡の際に梨花が災いを鎮めたのを、多くの貴族たちが目撃していました。実頼は、保憲であれば何か手がかりが掴めるかもしれないと考え、保憲にに霊剣の文様を修復するよう命じます。晴明も弟子として保憲の修復を手伝うことになりました。二本の剣は日・月・四神などの文様が刻まれていましたが、火災によって焼けて見えなくなっていました。しかし、火災が起こる前に霊剣を見たことのない晴明と保憲には文様がどのようであったかわかりません。晴明が不注意にも霊剣に触れると、霊剣からきらきらとした星のような霊気が立ち込めました。晴明には、亡き妻の霊魂が未だ現世に留まっているように感じられました。実際に、それは梨花の魂の残滓でした。霊気が剣の上から下まで辿っていくと、文様が明らかになりました。実頼からどうやって霊剣の文様がわかったのだと驚かれると、晴明は式神のおかげだと答えました。
十二月、晴明が宜陽殿の作物所で鍛冶師に霊剣の鋳造を始めさせました。
冥界に戻った白雪は、人間界での劫を経験したことで真神に昇格していた。だが、彼女は霓裳羽衣を取り込んだことで人間だったときの記憶がない。白雪は簪がないことに気付いたが、その在処を知っている者は誰もいなかった。
天徳五年(961)二月、保憲が参内して改元が必要だと奏上します。今年は辛酉革命という王朝に災難が降りかかる年に当たり、現在の元号である天徳は陰陽道において火神の名前であるためです。そこで、天徳から応和に改元が行われました。
内裏の復旧作業中に新造した柱に虫喰いが発見されました。その虫喰いは三十一の和歌の体をなしており「造るとも またも焼けなむ 菅原や 棟の板間の 合はぬかぎりは」というふうに読めました。朝廷は「何度造り直してもまた焼けてしまうだろう、菅原道真の胸の痛みが癒えぬ限りは」という意味だと解釈して大騒ぎになりました。
六月、高雄山の神護寺において霊剣を再鋳造するための儀式が行われました。保憲が祭文を読み、晴明が進行役を務めました。
第27話
真神に昇格した白雪は、泰山府君から天仙聖母碧霞元君の称号を賜る。
応和四年(964)、梨花が晴明の前から姿を消して四年が経過しました。夢の中でさえ、晴明は梨花に逢うことはかないませんでした。晴明が家の庭に植えた梨の木が花をつけていました。
この数年の間に、陰陽道第一人者に等しい保憲の弟子だということで、晴明のもとに何人かの陰陽寮の官人たちから縁談の話が舞い込みます。しかし、心に決めた妻は梨花一人だけである晴明はそれらの縁談をすべて断っていました。
本来であれば子育ては女房が中心となって行うものでしたが、晴明は亡き母の分の愛情も注いでやろうとして、時間のある時は率先して育児に関わりました。
幼い晴明が母を失ったとき、父がそうしてくれたからです。
藤原安子が皇女(選子)を出産して崩御されました。村上天皇の嘆きは甚だしいものでした。
賀茂保憲は来たる応和四年の甲子革令について奏上しました。この年は甲子の年に当たり、陰陽道において変革が起こりやすいと考えられていました。藤原実頼の屋敷で改元についての議論がなされ、保憲は災いを鎮めて徳を施すために改元が必要だと訴えます。そこで、応和から康保へ改元が行われました。さらに、甲子の年は海若祭を行うことが定められていたので、保憲は祭祀を行うために摂津国難波浦まで行かなければなりませんでした。晴明も同行しました。晴明は幼い頃に摂津国で仙女に出逢い竜宮を訪れたことを話しますが、保憲にはおとぎ話のように思えて信じられません。
晴明と保憲は難波浦に到着したものの、雨が降っていて祭祀を行うことができませんでした。晴明たちは摂津国にある草香の里という小さな村に案内されます。その日の晩、里の長老がこの村に残る伝説について語り始めます。昔、この里に住んでいたある男の妻は家が没落したため夫の許を離れて京へ上り、貴族の家に乳母として仕えるようになりました。生活が安定してきたので妻は夫を訪ねようと里帰りするが、夫は行方知れずになっていました。それでも妻は夫に会うことを諦めず、ついに夫と再会を果たし、春の都へ帰って行ったのでした。
晴明と保憲は梨花の簪の力を使って竜宮を訪れた。東海竜王は晴明との再会を喜んだ。晴明は、傘を武器にして水を操る神仙を知らないか尋ねたが、竜宮にそのような者はいなかった。晴明が梨花からの手紙を竜王に見せると、冥界の司命と深い関わりがあるのではないかという。
碧霞は忘川の守衛から久しく川を彷徨っている魂魄についての報告を受け、忘川に向かいます。その魂魄は生まれる前に亡くなった娘のものだったのですが、同じ境遇の子供たちとは異なり、長い間川を渡れずにいました。魂魄が忘川を漂い始めてから十五年が経過したと聞いて、碧霞は驚きます。近頃は魂魄が薄れてきて、このままでは忘川の中に散ってしまう状況でした。哀れに思った碧霞は長い間魂魄を放置していた守衛を叱り、魂魄を引き寄せます。
第28話
碧霞元君は魂魄を引き寄せ、仙術によって少女の姿に変えました。碧霞は侍女に少女を介抱させ、彼女が目覚めるのを待ちました。少女の両親は天地の吉凶を無視して交わったので、この世に生を受けることができませんでした。久しく忘川を彷徨っていた彼女はひどく衰弱していました。碧霞は真神の力を注ぎ込んで何とか存在を維持しようとします。
康保三年(966)、正月から頻りに天変が起こっていました。晴明と賀茂保憲は天文密奏で忙しくなります。朝廷は天変を鎮めるために、寛静に火天供を修させました。晴明は、天徳四年の内裏焼亡から数年に渡って世の中が落ち着かないことを憂えます。
閏八月、都では大雨で洪水になりました。雨を止めるための諸社奉幣と祈祷が行われました。藤原師尹は勅命を受けて左右両京で水害があった場所を巡検しました。彼は梨花と契った夜のことを思い出し、子が流れてしまったのも道理であったのだと悔やみました。
碧霞たちが見守るなか、少女は意識を取り戻しました。少女は親に会うことなく亡くなったので、名前がありませんでした。碧霞は、忘川を漂う少女の魂魄は蛍のようだったことを思い出します。さらに仙人だった頃の名前から一字を取って、少女を蛍雪と名付けました。碧霞は泰山府君に事情を説明し、蛍雪を冥官見習いとして採用してもらいました。彼女が実の親を裁いてしまわないように、百年間は修行に専念して裁判に携わらないことになりました。
蛍雪の両親のことは分かりませんでしたが、彼女が死んだ場所が日本の平安京だということがわかりました。碧霞は泰山府君に暇を請うて、蛍雪を連れて平安京に行くことにしました。碧霞が仙術で移動しようとすると、泰山府君に止められます。蛍雪は人間なので、神仙の碧霞のように瞬間移動ができないのです。碧霞と蛍雪は泰山府君から教えてもらった通路を辿って、平安京の六道珍皇寺の井戸から地上に出ました。かつて冥官として働いていた小野篁が、この井戸を使って地上と冥界を行き来していたのです。
都を遊覧している間に碧霞は満月丸を思い出し、彼は陰陽師になれたのだろうかと思いを馳せます。しかし、満月丸は幼名であったため、探し出すのは至難の業でした。
六道珍皇寺の井戸は長らく使われていないせいで悪臭が立ち込めており、碧霞と蛍雪は登るのに苦労しました。碧霞は平安京の鬼門にある一条戻橋に目をつけ、この橋と忘川の奈何橋を繋ぎました。ただし、普通の人間が誤って冥界に足を踏み入れることがないように、神仙の血が流れている者にしか冥界の入口を発見できないように術を施しました。そうして、二人は冥界に帰りました。
憲平親王は天徳四年の内裏焼亡においてまばゆい光を放ったという神鏡に興味を持ちます。神鏡の周りには邪気が漂っており、不思議に思った憲平親王が鏡に触れようとしたところ、邪気に襲われてその場に倒れ込んでしまいます。憲平親王の不在によって宮中が騒ぎになり、偶然にも藤原兼家が親王を発見して救出しました。その日から、憲平親王は病にうなされるようになってしまいます。
康保四年(967)二月、憲平親王が病を患って四ヶ月が経過した。藤原師尹は僧たちに加持祈祷を行わせるが、親王の病は一向に快復しない。憲平親王が神鏡の邪気に触れて重く患ってしまった。晴明は憲平の体に邪気がまとわりついているのを目にした。彼以外の者には見えていなかった。やがて憲平の病は平癒したが、まもなく村上天皇が崩御された。
第29話
康保四年(967)、晴明の二人の子供が元服を迎えました。晴明は、兄を吉平、弟を吉昌と名付けました。晴明は二人を陰陽寮に入れることにしましたが、暦生にはすでに保憲の息子光栄がいるため、出世は見込めそうにないと考えます。そこで、晴明は保憲と子供たちをどの部門に入れるか話し合いました。この時の保憲は天文博士でしたが、これまで弟子として自分を支えてきた晴明に譲るつもりでいた。晴明は二人の適性を見て、吉平を陰陽生に、吉昌を天文生にすることにしました。
碧霞元君は炳霊帝君に蛍雪を冥官の見習いとして修行させたいと頼んだ。炳霊は蛍雪が碧霞と同じ性質を持っていることを不思議に思ったが、碧霞は蛍雪の魂魄を補う際に力を注ぎ込んだせいだと思っていた。
六月、藤原兼家が藤原兼通の後任として蔵人頭に任じられます。晴明は藤原実頼に命じられて政始の吉日を撰び、冷泉天皇の御代が始まりました。実頼は関白に任じられたものの天皇との血縁をもたないため、実質的な政治の実権は藤原伊尹や兼家が握っていました。
病から復活したものの、天皇は度々狂気的な行動に出ることがあり、人々は狂気の病に冒されているのではないかとささやきあいました。晴明は、強引に天皇の寿命を延ばしたせいで天皇がおかしくなってしまったのではないかと後悔しますが、保憲は邪気によるものではないかと推測します。
七月、藤原師氏が実頼の許を訪れて、除目が行われることを伝えます。実頼は、天皇が狂乱の病に犯されている中でも公事を行うことを嘆きます。昔から武猛・暴悪の王はいましたが、狂乱の君主は前代未聞でした。実頼は、このような状況下でも競って昇進を望む伊尹らを外戚不善の輩であると強く非難し、関白である自分の存在を無視して政治を主導する伊尹と兼家に対して名ばかりの関白だと嘆きます。
それからまもなくして、先帝(村上天皇)の女御藤原芳子が卒去しました。
その後、為平親王と守平親王のどちらを東宮に立てるか議論がなされたが、為平親王の后は源高明の娘だったので、高明が実権を握ることを恐れた伊尹と兼家は守平親王を東宮に立てます。春宮大夫には師氏、皇太弟傳には藤原師尹が任じられます。数日後には、伊尹の娘藤原懐子が天皇の女御となりました。程なくして天変が相次ぎました。晴明は、これらの天変はみな凶兆だと危ぶみます。即位式のとき、天皇の病を考慮して、実頼の判断で即位式は大極殿ではなく紫宸殿において行われました。その後、叙位によって兼家は兄兼通の官位を追い越し、人々は兼家は兼通よりも先に大臣になるのではないかと噂しました。
晴明は小野篁が六道珍皇寺の井戸から地上と冥界を行き来していたという噂を聞いて実際に下ってみたが、行き止まりになっていた。彼の狐の神通力を持ってしてもどうにもできなかった。晴明は狐の血をまったく生かせていないことをもどかしく感じていた。
安和元年(968)、懐子が出産のため里下がりしました。その隙を見計らうかのように、兼家は娘藤原超子を入内させます。さらに、十二月には超子が女御になりました。公卿ではない貴族の娘が女御になったのは初めてのことでした。
第30話
安和二年(969)正月、藤原実頼の屋敷に人々が集まって宴が開かれ、先帝(村上天皇)を偲んで涙しました。
二月、藤原師尹と藤原兼家の家人が闘乱し、師尹の数百人に及ぶ家人が屋敷を打ち壊す事件が起こりました。
藤原兼通は正月の除目で参議になったものの、中納言と蔵人頭を兼任している兼家との差は依然として開いていました。世間の評判を不快に感じた兼通は、この頃から出仕を怠るようになります。
三月、源高明が、為平親王が立太子されなかったことを恨んで朝廷を転覆させようと企んでいるという噂が流れ始めます。その後、源満仲らが高明の謀反を密告し、高明は太宰外帥に左遷されました。師尹が左大臣に、藤原在衡が右大臣に任じられました。宮中で人々が驚き騒ぐ様子は、さながら承平・天慶の大乱のときのようでした。翌日、高明は出家して、彼の息子も出家した。満仲は謀反密告の褒賞として正五位下に叙されました。四月には高明の西宮殿が焼失しました。何者かが屋敷に火を付けたのではないかという噂も流れました。
一連の騒動で最も昇進したのは左大臣になった師尹であったことから、世間の人々は安和の変の首謀者は師尹ではないかと噂した。
冷泉天皇は狂気の病ゆえに譲位を行い、守平親王が円融天皇として即位した。師尹は重く患い、晴明と保憲は病気平癒の祈祷を行った。しかし、恐らくもう長くはなかった。保憲は長い間世話になったと感謝を伝えた。
人々は、高明の怨霊による祟りだと噂しました。それを聞いた晴明は、高明はまだ生きていると非難します。
小一条邸の鶴の鳴き声を耳にした実頼は、主人に先立たれて哭くならばどうして長寿を譲らなかったのだと嘆きます。
碧霞元君の許に蛍雪がやって来て、ある死者の生前の行いを調べていたときに碧霞そっくりの女を見たと報告してきた。梨花のことだと察した碧霞は、不本意ながらも浄玻璃鏡を手に取った。碧霞は、不義の間柄でありながらも彼が梨花を深く愛していたこと、彼女を傷つけて後悔していたことを知る。蛍雪から処遇について問われた碧霞は、生前十分に苦しんだのだから、罰を与える必要はないと伝えた。
第31話
十二月、賀茂保憲は主計頭に任じられます。これが、陰陽寮出身者が他の寮の官職を兼任するようになった最初の例になりました。陰陽寮の官人の中で暦道や天文道に携わる者は計算に長じているためです。
天禄元年(970)五月、藤原実頼が亡くなり、世間の人々は彼の死を悼みました。
七月、藤原師氏が病に倒れました。師氏は自分の人生を振り返り、善行を積んでこなかったことを後悔していました。だが、今更後悔しても仕方ないと思い直して、師氏は自身の名前を書いた紙を空也上人に渡して「多忙ゆえに善行を修することができずにいたところへ、こうして病を患ってしまいました。今はただ、あの世に行くのを待つばかりです。地獄で報いを受けるのを逃れる術もありません。どうかお助けください」と懇願しました。空也上人は師氏が亡くなったら棺の上にこの手紙を置き、お許しがあれば手紙は焼けずに残ると伝えます。晴明は空也上人から事情を説明され、再び泰山府君の許を訪れて師氏が無事極楽浄土へ行くことができるよう説得してほしいと頼みます。晴明は承諾し、再び冥府へ行くことになります。晴明は一条戻橋から冥府へ向かいました。
晴明は、人間界において泰山府君は人間の魂を支配する神だと信じられているが本当か尋ねます。すると泰山府君は本当だと言って、死者の中でもう一度会いたいと願う者はいるか聞かれます。晴明は、死んだ妻に会いたいと答えます。泰山府君は獄卒に冥府を探させますが、妻の姿はなく、すでに生まれ変わってしまったのではないかと説明します。泰山府君が言うには、小野篁は確かに冥官として仕えていましたが、輪廻の境に入ったので新しい生を迎えました。晴明に興味を持った泰山府君は、小野篁のように冥府に仕えないか提案します。
炳霊は獄卒たちに晴明を捕らえさせ、彼を仙鎖で縛り付けました。晴明が動揺していると、炳霊は方術によって彼の正体を暴こうとします。炳霊帝君の方術によって、晴明の体から九尾狐の尾が解き放たれました。炳霊が晴明の命を奪おうとしたその時、碧霞元君が間一髪のところで晴明を守りました。十年という長い年月を経て、二人はようやく再会を果たしたのです。晴明は目の前の神仙がかつての妻と同じ容貌をしていることに驚きを隠せません。侍女から碧霞元君と呼ばれているのを聞いて、晴明は彼女が梨花ではなく神女であるということがわかりました。元君は晴明を彼女の住まう宮殿である碧霞宮に連れていきます。元君が晴明の手をとって床に上ろうとすると、侍女が卑しく汚らわしい凡人が床に上ってはいけないと咎めます。しかし、元君は晴明を床に上らせました。
晴明は冥界の獄卒に捕まり、泰山府君の許へ連行された。事情を聞かれた後で追い出されそうになったが、やっと冥界にたどり着けた晴明は、亡き妻に会わずに引き下がるわけにはいかなかった。冥府が騒がしくなってきたところへ碧霞元君が現れた。晴明が狐の子だということがわかり、碧霞は妖狐の統括者として彼を監視することになる。彼女にとって、一度は情を絶ったはずの晴明と再び関わるのは気が進まなかったが、泰山府君の命令だったので渋々従った。こうして、晴明は碧霞と一緒に地上に戻った。
第32話
晴明は碧霞に、梨花が遺した手紙と簪を見せた。碧霞は、梨花の想いは汲むが家族として接することはできないと告げた。晴明は冷ややかな態度の彼女に傷つきながらも、監視役としてでも構わないから側にいてほしいと伝える。
晴明の家で、碧霞は滄溟傘を発見しました。三界においてその傘を扱えるのは碧霞だけでした。真神の力が滄溟傘に吸収され、槍に変化しました。その光景を見た晴明は、梨花の正体は碧霞元君という神仙だったのだと確信します。晴明は碧霞を抱きしめようとしましたが、彼女のよそよそしい態度を見て以前の記憶を失っていたことを思い出しました。
最初は妻と再会できたことに喜んでいた晴明だったが、梨花とはまったく異なる碧霞の振る舞いに戸惑いを隠せません。
碧霞もまた、自分が人間であったときに契りを結んだのが晴明だということが信じられませんでした。
藤原師氏が亡くなり葬儀が行われました。翌朝になって晴明が灰の中を見ると、手紙は少しも焼けていませんでした。それを見て、師氏は極楽浄土に行くことができたのだとわかりました。
十月には、藤原在衡も亡くなりました。
天文生の中で、吉昌は特に聡明で勉学に勤めることを怠りませんでした。そこで、その年の十一月に保憲は吉昌を天文得業生に推薦し、認められました。さらに、保憲に代わって晴明が天文博士に任じられました。
碧霞は庶民たちが安和の変に基づいた猿楽を行っているのを目にします。その内容は、朝廷で権威を振るっている藤原氏が他の一族を排斥するために源氏と結託し、源高明を太宰府に左遷したという残酷な政変でした。首謀者は政変によって右大臣から左大臣へ昇進を遂げた藤原師尹とされていました。
天禄二年(971)、立て続けに藤原氏が亡くなることについて晴明はその原因を占うことになります。晴明は、左遷された源高明の祟りだと奏上し、このまま高明を太宰府に流したままであれば、菅原道真のときのように都に雷が落ちてきたり、内裏が炎に包まれるだろうと脅かします。こうして、朝廷は源高明を太宰府から召還することに決めました。
天禄三年(972)閏二月、藤原兼家は権大納言に任じられました。この時、兼家は右大将も兼任していたので、もうじき大臣になるだろうと噂されていました。
四月、源高明が太宰府から帰京しました。
八月、藤原伊尹が飲水の病に倒れます。
十月、伊尹は摂政を辞任する表を提出しました。その後、兼通と兼家も参内して摂政の辞任を認めるべきだと奏上しました。しかしその後、兼通と兼家はどちらが伊尹の後を継ぐのかということについて口論になり、次第に激しい罵り合いになりました。そうして、伊尹は摂政を辞任しました。辞表が一度で認められたのは異例のことだったので、世間の人々は驚き非難しました。
十一月、伊尹は薨去しました。その後まもなく兼通が藤原安子の遺言状を携えて参内したところ、円融天皇は鬼の間で戯れていました。兼通が近づいていくと、天皇は兼通の方をちらっと見てそのまま奥の方へ入ってしまいます。兼通は滅多に参内して来ないので、天皇は面倒に思ったのです。兼通は天皇に追いすがって安子の遺言状を見せました。そこには、安子の字で「関白のことは、兄弟の順序通りに任じるように」と書かれてありました。天皇は少しの間亡き母を懐かしみ、遺言状を持って奥の間へ入っていきました。兼家は栄進を期待しましたが、意外にも兄の兼通の方が先に内大臣に任じられ、関白にまでなりました。後になって兼家は兼通が策略を巡らせたことを知ります。一方、兼通は娘藤原媓子の入内を急ぎます。
第33話
晴明は、子どもたちには普通の人間として生きてほしいと願い、出生の秘密は自分一人で背負っていくことに決めました。
天延二年(974)、賀茂保憲は暦道を息子の賀茂光栄に継がせ、天文道は晴明に譲ると話しました。
五月、円融天皇の御願により比叡山に大乗院を建立する計画が進められていましたが、担当の藤原典雅が障りを称して動きません。そこで、平親信が現地に向かうことになりました。保憲は大乗院を点地する吉日を選び、晴明も同行することになりました。その日の夜、親信は保憲の家を訪問し、翌日のことを案内しました。その夜は庚申の日だったので、寝ることはできませんでした。翌朝、晴明たちは都を出発して比叡山に登りました。一通り視察を終えた後、阿闍梨の房でもてなされました。本来であれば衣冠を着用すべきところを、保憲が視察する場所が多く不便だと言いました。そこで、土地を鎮める儀式を行う時だけ衣冠を着用することになりました。酉の刻に下山しました。皆で帰京しようとしたところ、保憲が疲労で動けなくなってしまったので親信だけが帰り、晴明と保憲は現地で一泊してから帰ることになりました。保憲は、晴明が自分に弟子入りした時のことを思い出します。彼は未だに晴明の亡き妻の正体が神仙であったことが信じられない思いでいましたが、こうして再び会うことができたのならば、決して手放してはいけないと伝えます。
六月、晴明は天文博士の任を解かれ、保憲の息子賀茂光国が新たに天文博士に就任しました。
十一月、朔旦冬至の叙位が行われました。十一月一日が冬至にあたる日は吉日とみなされたことによります。保憲は造暦の功績によって陰陽師としては異例の従四位に叙されました。本来、陰陽師の最高位は陰陽頭の従五位下だからです。
第34話
天延四年(976)正月、冷泉上皇の女御藤原超子が皇子(居貞親王)を出産しました。
春になって、老若男女問わず庶民を中心に大勢の失踪者が続出します。疾走した人々は掻き消えるようにいなくなり、二度と帰って来ませんでした。鬼に連れ去られたのだという噂が流れました。このことがあってから、都の人々は申の刻を過ぎると家の門をきつく閉ざして外に出なくなりました。朝廷は比叡山から大勢の僧綱を召して、清涼殿において仁王会を行わせました。また、源頼光をはじめ諸国の武士たちが禁門の警固にあたりました。晴明は朝廷に召されて大勢の人々が疾走したのは神仏の祟りによるものか、あるいは悪霊の仕業か占うよう命じられます。晴明が占ったところ、鬼の仕業であることがわかりました。鬼は元々人間の女でしたが、ある時、貴船神社に参詣して妬ましい女たちを殺めるために自分を鬼神にしてほしいと祈願しました。すると貴船明神の神託があり、宇治の川原で鬼神になるための儀式を行うよう告げました。女はお告げに従い、生きながらにして鬼神になったのでした。
五月、内裏で火災が起こり、激しい風が吹いて炎が辺り一面に飛び散りました。この火災の影響で、神鏡は損傷こそしていなかったものの、輝きを失い黒ずんでしまいます。晴明は碧霞元君に、天徳四年にも内裏で火災があったことを話します。碧霞が梨花だった頃、彼女は滄溟傘で雨を降らせて内裏の火災を鎮めたのです。さらに、六月には大地震が起こり、空が黒雲に覆われて大地は激しく震動し、民家が次々に倒壊しました。この地震は二ヶ月間続きました。未曾有の災害が続き、菅原道真の祟りだという噂まで流れました。この災害により、天延から貞元へ改元が行われました。
ある晩、渡辺綱は源頼光の使者として一条大宮まで行くことになりました。頼光は綱に髭切の太刀を持たせます。任務を終えた綱が一条戻橋を渡ろうとすると、橋の東詰を南の方へ渡っていく女の姿が見えました。綱が橋の西詰を渡っていると、女が馴れ馴れしく声を掛けてきて、こんな夜更けに独りでは心細いので、家まで送ってくれないかと泣きついてきました。綱は女を馬に乗せました。途中で、女は一瞬のうちに鬼の姿となって綱の髻をつかみ空高く飛ぼうとしました。綱は少しも動じず、髭切を抜いて髻をつかんでいた鬼の腕を切り落としました。鬼は悲鳴を上げながら愛宕山へ飛び去りました。綱が鬼の腕を頼光に見せると、頼光は驚いて晴明を呼びました。晴明は綱に七日間物忌するように伝え、鬼が腕を取り返しにくるだろうから、鬼の腕には厳重に封をして仁王経を読経するように伝えます。綱が物忌を始めてから六日目の夕方、家の門を叩く音が聞こえました。訪問してきた女は綱の母親を名乗ったので、綱は門の前まで出ていきました。綱は物忌中のため会えないと言いましたが、女にしつこく頼まれて仕方なく門の中に入れました。女は綱に鬼の腕を見せてほしいと頼んできました。綱が渋々鬼の腕を取り出して差し出すと、女は自分の腕だからもらっていくと言ってたちまち鬼の姿となり、逃げていきました。
秋の夜、源頼光の体に冷たい風が吹き付けて激しい頭痛に苛まれました。ようやく宿所に帰り着いたかと思うと寒気が増して、身体中が燃えているかのように汗が湧き出て倒れてしまいました。晴明や頼光四天王たちも必死に看病しました。医師が頼光の脈を診てただの風邪だと薬を渡しましたが、一向に効果はみられませんでした。あらゆる薬を試しましたが、熱は下がりませんでした。
夜になって、頼光は夢が現かも定かでない状態で、誰かが「我が背子が来べき良いなりささがにの蜘蛛の振る舞いかねてしるしも」という古今和歌集の歌を口ずさむ声が聞こえました。頼光が不審に思って目を開けると、燈火の影から見知らぬ法師が現れました。無数の糸筋を頼光に向かって投げつけてきたので、頼光が枕元に置いていた膝丸の太刀で法師を斬りつけると、跡形もなく消え失せました。燭台の下に血の跡があったので辿っていくと、大きな塚の前で巨大な山蜘蛛が傷を負って倒れていました。頼光は膝丸を蜘蛛切と改名しました。
保憲の体調はますます悪くなり、病に臥せってしまいました。自分の命がもう長くないと悟った保憲は、安倍氏が賀茂氏とともに陰陽寮の実権を握っていくことを願いました。
そうして、貞元二年(977)二月、賀茂保憲が亡くなりました。
第35話
晴明は賀茂保憲の弟子として賀茂家の一族に混ざって葬儀を行いました。師匠亡き後、晴明は完全に賀茂家と決別することになります。賀茂光栄は、優秀な弟子とはいえ晴明が父保憲から天文道を譲られたことを内心よく思っていなかったのです。晴明は賀茂氏の所有していた陰陽道の書を隅々まで書写しました。愛弟子といっても、保憲が生きている間は自由に閲覧できなかったのです。晴明はこれらの書物で得た知識を彼がこれまでに学んできた知識と併せて、一冊の本にまとめる計画を立てます。
藤原兼通は重病を患ってもなお、自らの地位を弟の藤原兼家に渡さない方法ばかり考えていました。ある時は兼家が冷泉院の御子を即位させようと企んでいると讒言し、またある時はひたすらに兼家の無能ぶりを奏上しました。挙句の果てには、兼家から官位を取り上げて左遷する方法はないか思案を巡らせていました。
十月、兼通が病に臥していたとき、外から先払いの声がしました。兼通は兼家が見舞いに来たのかと思って待っていると、兼家は屋敷の前を通り過ぎて参内しました。不快に思った兼通が参内したところ、ちょうど兼家が円融天皇に拝謁していました。兼家は兼通がすでに亡くなったものだと思っていたようでした。そこへ不意に兼通が現れたので、兼家はひどく驚きました。兼家は兼通のほうをちらっと見て、鬼の間の方へそそくさと逃げていきました。激怒した兼通は最後の除目を行うと宣言し、次の関白に藤原頼忠を指名します。それから兼家のう近衛大将の官職を取り上げ、藤原済時を大将に任じ、さらに兼家を治部卿へ降格しました。この除目に衝撃を受けた兼家は天皇に長歌を奏上します。その歌には、自分は長きに渡って誰よりも天皇を支えてきたこと、年内に元の官職に戻してほしいと書かれていました。天皇は兼家に、この月だけは我慢するように伝えます。兼家は夢の中で兼通の屋敷からおびただしい数の矢が東の方へ向かっていくのを目撃しました。よく見ると、矢は悉く兼家の屋敷に落ちていきました。兼家は不吉な夢だと恐れました。晴明は兼家から夢占いを命じられて占ったところ、兼家が見た夢は悪夢ではなく、天下が兼通から兼家に移り、兼通に仕えている人々がそのままそっくり兼家の方へ参るという吉夢でした。
退出してまもなく、兼通は亡くなりました。
翌年の除目で、兼家は右大臣に任じられます。兼家は、自分が冷遇されていた当時は藤原氏が絶えてしまうのではないかと思えたと天皇に歌を奏上しました。それに対して天皇は、昔から川の流れのように延々と続いてきた藤原氏なのだから、嘆くことはないと返しました。
第36話
碧霞元君はかつて満月丸に「立派な陰陽師になったら冥官に採用する」という意味で再会を約束していた。賀茂保憲もまた、生前に暦道・陰陽道・天文道の三道を究めた陰陽師であるため、彼女は渋々保憲を冥官として受け入れた。碧霞は炳霊帝君から晴明に正体を明かさないのかと聞かれるが、今正体を明かしたら何をしでかすかわからないと素直になれない。
天元二年(979)五月、晴明の執筆した『占事略决』が完成しました。占事の理論は精緻を究めなければならず、ほんの少しの間違いが大きな間違いに繋がります。晴明は老後までにその核心にたどり着くことを願っていましたが、遠い未来においても吉凶の道理を完全に理解することはできそうにありません。ただ、その一端だけでも書き記し、六壬式盤のもつ意味を抜き出そうと思ってこの書を執筆したのです。晴明は、この書を安倍家の子孫に代々伝えていくことに決めました。吉平と吉昌にも書写するよう伝えました。保憲の死後独り立ちしても未だに自信がなさそうにしている晴明に、碧霞元君は発破をかけます。
播磨国の法師陰陽師蘆屋道満は、仏法には詳しくありませんでしたが占いに優れていて、度々奇特を起こしては人々を驚かせました。道満は、地元で自分と肩を並べる者はいないだろうと慢心していました。
都では、藤原詮子が懐妊し、男子出産の祈祷が数ヶ月間に渡って行われました。
天元三年(980)六月、皇子懐仁(後の一条天皇)が生まれました。
七月、暴風雨によって宮中の樹木・諸門が顛倒し、東西両京の人家の多くが破損しました。大雨は止まず、洪水になって大河のように水が溢れ、多くの舎屋が流損しました。洪水になったのは七夕の後だったので、碧霞元君は織姫と彦星は幸運に恵まれていると冗談を言いました。
ある日、晴明の許に一人の法師が訪ねてきました。法師は従者として二人の童子を連れていました。晴明がどこから来たのか問うと、法師は播磨国から来た芦屋道満という法師で、晴明が優れた陰陽師だという噂を聞きつけて陰陽道を習おうと志して来たのだと言いました。晴明がふと道満の従者を見ると、人間のものではない気配を放っていました。そこで、晴明は道満に今日は忙しくて時間が取れないから吉日を選んでまた来るように伝えました。道満は手を擦り合わせて感謝して帰っていきました。しばらくして道満が戻ってきて、従者の童子が二人ともいなくなったので返してほしいと言ってきました。晴明は従者を道満に返し、他の者ならともかく自分にこんなことをしてはいけないと忠告しました。道満は自分を晴明の弟子にしてほしいと懇願してきました。
十一月、賀茂臨時祭の宣命が奏上されている間に突然主殿寮から出火がありました。陰陽寮が賀茂臨時祭を行うべきか否か吉凶を占ったところ、不吉だったので、臨時祭は停止されました。
第37話
天元五年(982)二月、師貞親王が紫宸殿で元服の儀式を行いました。
三月、藤原遵子を円融天皇の皇后に立てることが決まり、賀茂光栄が立后の吉日吉時を選定しました。
十一月の夜、内裏で火災がありました。円融天皇は職曹司に避難しました。この時、神鏡と大刀契が縫殿寮に移されました。火災によって、累代の宝物が多数紛失しました。晴明は、天徳四年の内裏焼亡で保憲とともに霊剣の再鋳造に携わったこと、梨花の霊魂の残滓によって霊剣の文様が修復されたことをしみじみと思い出しました。世間の人々は、またしても菅原道真の祟りだと噂しました。その噂が本当か確かめるために、晴明は天皇から天徳四年の内裏焼亡の復旧作業のときに道真の和歌が書かれていた柱の木片を渡されました。晴明が実際に木片の虫喰を見たところ、強引にこじつければ和歌と読めなくもない程度のものでした。およそ道真の祟りとは言い難い状況でしたが、碧霞元君は木片に付着している炭がこの世の火ではないことを発見します。
第38話
永観二年(984)八月、円融天皇から師貞親王へ譲位が行われました。
十月、師貞親王が花山天皇として即位しました。即位式の際、天皇は王冠が重すぎて頭が痛むからと言って王冠を脱ごうとしました。花山天皇は重い頭痛を患い、特に雨の降っている日はひどく痛みました。ありとあらゆる治療が施されたが、一向に治りません。晴明が占ったところ、花山天皇の前世が原因でした。晴明は天皇の前世は優れた行者だったこと、前世の髑髏が大峰の岩の隙間に挟まっていること、雨が降ると髑髏が岩に押されて痛みを感じるので、御頭を取り出して広い場所に置けば痛みが治まるであろうことを奏上しました。晴明は天皇から大峰に行き髑髏を取ってくるように命じられます。晴明が大峰を登っていると天狗が襲いかかってきたので、狩籠の岩屋にたくさんの魔類を祀り置き、天狗を撃退しました。晴明が谷底に向かったところ、実際に髑髏が挟まっていました。晴明は髑髏を取り出しました。晴明たちが京に帰ってくると、天皇の病は平癒していました。
寛和元年(985)十一月、大嘗会において晴明は吉志舞を奉納しました。
第39話
寛和二年(986)六月の夜、花山天皇は出家のために密かに内裏を出発しました。その夜は月がとても明るく輝いていたので、天皇は誰かに見つかってしまわないか危惧しましたが、神璽と宝剣が懐仁親王の手に渡ってしまった今となっては後戻りすることはできませんでした。弘徽殿の女御からもらった手紙を忘れてきたことに気づいた天皇は手紙を取りに戻ろうとしましたが、出発するほかありませんでした。その頃、晴明と碧霞元君が家の縁側で涼んでいると、帝座の星が突然移動したのが見えました。晴明が帝の退位を示す兆しだと驚いているところに、家の前を天皇が通り過ぎました。晴明は大急ぎで参内し、このことを奏上しました。女官たちは天皇がいなくなったことに気づいておらず、御座所や御寝所をはじめあらゆる宮舎を捜し回りましたが、天皇の姿はありません。しかし、貞観殿の小門がたったいま人が出ていったかのように細く開いていました。さてはこの門を出て出家に向かったのだろうと、女御や更衣は泣いて悲しみました。天皇の出家を伝え聞いた公卿たちも参内し、呆然としました。御車屋には乗り物があったので、徒歩で向かったのであればまだ遠くには行っていないだろうと追手が差し向けられました。
花山寺に到着して、花山天皇が剃髪しました。すると、藤原道兼は父藤原兼家に出家前の姿を最後に見せてから剃髪したいと申し出て退出しました。その時、天皇は騙されたことに気づいて内裏に戻ろうとしましたが、源頼光らに阻まれてどうすることもできませんでした。兼家はもしもの事態に備えて頼光ら源氏の武者を天皇に同行させていたのでした。
翌日、一条天皇の即位式が行われました。
九月、晴明は吉昌を天文観測の功績によって天文博士に推挙しました。
第40話
晴明は泰山府君に、泰山府君を祀る儀式を行わせてほしいと願い出ます。泰山府君はこれを承諾し、祭祀を行うときに必要な供物は呪文について伝えます。死籍から生籍に名前を移す作業が必要になるため、紙・筆・硯・墨などの筆記用具を供えてほしいのだというのです。また、延命祈願の際の依代として鏡や木製の人形を求められます。晴明は日本に泰山府君の名を広めることを約束して冥府を後にしました。
永延三年(989)二月、円融法皇は一条天皇のことで夢見が悪かったので、尊勝御修法・焔魔天供・代厄御祭を行うことになりました。そこへ、晴明は焔魔天供と代厄御祭の代わりに泰山府君祭を奉仕させてほしいと願い出ます。藤原実資は往古の記録を辿ってもそのような祭祀は聞いたことがないと反対しますが、晴明はかつて自分が非公式な形式ではあるものの、この祭祀を行ったことによって村上帝を疫病から救い、冷泉院の寿命を延ばすことができたのだと説明しました。藤原兼家は泰山府君祭の実施を認め、陰陽寮に尊勝御修法と泰山府君祭を行う日を選ばせます。陰陽寮も聞いたことのない泰山府君祭のことを聞いてざわめきます。こうして、晴明は公の場で初めて泰山府君祭を行うことになります。祭祀の場で、晴明は泰山府君に言われたとおりの供物を準備し、祭文を唱えました。碧霞元君は物陰からその様子を見守っていました。泰山府君祭は無事に終わり、数日後に法皇の夢見はすこぶる良くなりました。晴明は泰山府君祭を陰陽寮の祭祀に加えたいと奏上し、認められます。
こうして泰山府君祭は陰陽寮に受け入れられたものの、現状では数ある陰陽道の祭祀の一つにすぎませんでした。そこで、晴明は自分が生み出した祭祀を盛り上げるために、碧霞元君に天女の役を務めてほしいと頼みます。
一ヶ月後、朝廷で花宴が催されました。晴明は、泰山府君祭の効験は人間以外にも及ぶので、桜の花に泰山府君祭を行って花の命を延ばしてみせようと宣言します。晴明が祭祀を行うと、空から天女に扮した元君が降りてきてその場にいた人々は驚きました。天女は桜の美しさに感嘆し、花びらを袖に隠して天に上っていきました。数日後、本来であれば散っているはずの桜がまだ咲いていました。人々は晴明の泰山府君祭によるものだと感動しました。晴明は、これは自分にしかできない秘術なのだと話しました。
こうして晴明は泰山府君の名を都じゅうに広めることに成功したが、泰山府君は依然として晴明を碧霞の夫として認めなかった。晴明は婚姻関係にはこだわりがなかったが、碧霞はいつか夫を迎える立場である。彼以外の男を受け入れることは、彼女にとっては耐え難い苦痛だった。
第41話 永祚の風
泰山府君は依然として碧霞元君が晴明を正式な夫に迎えることに反対していた。炳霊帝君は碧霞は、梨花が藤原師尹の正妻になれないことで心を病んでいたことを踏まえて、愛する人に同じ思いをさせないと決めていた。
永延三年(989)八月、彗星が出現しました。年号を改めて災いを消すために永祚に改元が行われました。
都で暴風雨が起こり、酉の刻頃から子の終刻まで続きました。激しい風によって普門寺が焼亡し、右馬寮が倒壊して馬が下敷きになってしまいました。
晴明が占ったところ、この災害は西の山に棲む幻術を得意とする鬼の仕業でした。
十月、遍照寺で大般若経の供養が行われました。多くの貴族が参列しました。音楽の演奏があり、大唐・高麗楽の舞と童舞がありました。若い貴族たちや僧たちが晴明に話しかけてきました。彼らは式神を用いて人を殺めたりすることもできるのか聞いてきたので、晴明は虫などであれば殺められるが、生き返らせる方法がないから罪づくりなことをしても仕方がないと答えます。そこへ、庭から蛙が池の方へ飛び跳ねていきました。貴族の一人が、晴明の力がどれほどのものか見てみたいので、あの蛙を殺めてくれないかと言ってきました。晴明は、自分を試そうというのであれば仕方ないと言って草の葉を摘み取り、呪文を唱えるようにつぶやいて蛙の方へ投げやりました。すると、草の葉は蛙の上にかかったところで蛙はぺしゃんこに潰れてしまいました。その場にいた人々はみな真っ青になって怖気づきました。
藤原兼家は太政大臣に任じられ、その御礼参りとして先祖の御墓所へ参詣しました。藤原道長も同行しましたが、道長は多くの先祖が葬られている御墓所に寺がないのはとても残念なことだと思い、いつか自分が偉くなったときにこの地に三昧堂を建てることに決めます。
第42話 酒呑童子
正暦元年(990)、藤原道隆の娘藤原定子が入内し、一条天皇の女御となりました。
都の人々が次々に失踪する事件が起こりました。晴明が占ったところ、大江山に棲む鬼の仕業だとわかりました。大江山には鬼神が棲んでおり、日が暮れると都だけではなく近隣諸国の人々までも数え切れないほどさらっていくというのです。さらわれるのは、決まって見目麗しい娘でした。そこで、一条天皇は源頼光に鬼神を退治するよう命じます。頼光は勅命を承ったものの、自分たちの力だけでは無理だと思い神仏の加護を祈願することにしました。大江山の翁たちが言うには、この山の鬼神はよく酒を呑むことから酒呑童子と名付けられ、酒を呑ませれば前後不覚になるといいます。そこで、碧霞元君は神変鬼毒酒を調合し、頼光に渡した。その酒を鬼が呑めば力を失い、人間が呑めば薬になるといいます。実は、翁たちは八幡・住吉・熊野の三社の神が人の姿をとって顕れたのでした。晴明たちが翁に言われたとおりに河上を登ると、貴族の娘たちを発見しました。彼女たちは家族を恋しく思い、さめざめと泣いていました。河上をさらに登ると酒呑童子の居城があり、夜になると娘たちが召されるといいます。入口では酒呑童子の眷属として星熊童子・熊童子・虎熊童子・金熊童子の四天王が見張り番を務めています。彼ら四人の力が例えようがないほどだといいます。晴明たちは酒呑童子の居城にたどり着き、頼光が都から持参した酒を酒呑童子に勧めました。酒呑童子は盃を受け取って呑み、甘露のような味だと言いました。酒呑童子は女たちにも呑ませたいと言って、姫君たちを呼び寄せました。彼女たちもまた、都の貴族の娘でした。酔いが回った酒呑童子は、身の上話を始めました。さらに、自分の眷属である茨木童子を都に行かせた際に渡辺綱に遭遇したことを話しました。その後、酒呑童子は眷属の四天王にも酒を呑ませ、鬼たちは泥酔して床に転がりました。この様子を見た頼光は姫君たちに近づき、今夜必ず鬼を倒して都へ返すと約束しました。頼光四天王が鬼の手足を鎖で繋いで四方の柱に縛り付け、頼光が首を切り落としました。酒呑童子の断末魔は、雷が天地に響くのかのようでした。星熊童子や金熊童子など十人余りの鬼たちも倒しました。晴明たちは捕らえられていた娘たちを連れて都に帰りました。
第43話 羅城門の鬼
正暦四年(993)二月、一条天皇が急病を患ったので、晴明が御禊を奉仕したところすぐに平癒しました。その功績によって、晴明は正五位上に叙されました。
都では疫病が流行り始め、世の中がとても騒がしくなりました。その勢いは次第に増していき、四位や五位の貴族までもが病で亡くなりました。藤原道隆が亡くなり、藤原道兼が関白を引き継いだわずか数日後で道兼も亡くなってしまいます。晴明が占ったところ、羅城門にいる鬼神の仕業ではないかということになりました。
ある春の夜、晴明は源頼光から酒宴に招かれました。そこには頼光四天王もいました。晴明は頼光に羅城門の鬼神が疫病を撒き散らしていることを話します。渡辺綱は真偽を確かめるために羅城門に行くことになります。夜更けに雨が降りしきる中、綱は羅城門へやってきました。その証拠として頼光から賜った標の札を門の壇上に置いて帰ろうとしました。すると、何者かが綱の兜をつかんで引き止めました。それはまさしく羅城門の鬼神でした。綱は鬼と渡り合い、鬼神は黒雲も向こうに逃げ去りました。
長徳元年(995)、賀茂光栄は宿曜師の仁宗と共に暦本を作ることを申請し、仁宗は造暦宣旨を蒙った。光栄は宿曜師と協力して造暦を行うことで、暦道を実質的に独占しようとしていたのだ。
七月、陣の座において藤原道長と藤原伊周が口論になりました。その様子は闘乱かと思う程でした。その数日後には、道長の従者と藤原隆家の従者が闘乱を起こし、道長の従者が隆家の従者に殺されました。
八月、晴明の許に高階成忠の屋敷において法師陰陽師が道長を呪詛したとの報せが届きます。その呪詛は、藤原伊周の命によるものでした。晴明は道満を疑います。
第44話 長徳の変
長徳二年(996)正月、藤原伊周は故藤原為光の三の君の許へ通っていました。同じ頃、花山法皇はその妹の四の君の許へ通っていました。ところが、伊周は花山法皇も三の君の許に通っているのだと誤解して、隆家に相談します。隆家は花山法皇を脅そうと、弓に秀でた従者に命じて四の君の許から帰ろうとする花山法皇に矢を射させました。隆家の従者が射た矢が花山法皇の衣の袖に当たりました。驚いた法皇は慌てて帰りました。互いの従者同士が闘乱になり、隆家の従者が法皇の従者を殺めました。法皇は女の許に通っていたことを知られたくなかったので事件を公にせず包み隠していましたが、結局のところ大勢の人々に知られることになりました。
二月、伊周の家人の屋敷が捜索され、藤原道長は一条天皇から伊周・隆家の罪科を定めるよう命じられます。
三月、藤原定子が職御曹司から里へ退出します。同行する者は少なく、里第における宴もありませんでした。その後、藤原詮子が病にかかり、大赦を行うことになります。晴明が道長に命じられて詮子の病の原因について占ったところ、呪詛の可能性があるため、寝殿の中に呪物が隠されていないか捜索しました。すると、板敷の下から呪物が縛り付けられた土器が発見されました。また、伊周が私的に太元帥法を行っているという噂もありました。この修法は私的に行ってはいけないものでした。
四月、隆家と伊周は花山法皇を射た罪、藤原詮子を呪詛した罪と私的に太元帥法を行った罪で配流されることとなりました。だが、隆家と伊周は定子の御所に籠もっており、命令に従いませんでした。そこで一条天皇は宣旨を下し、夜に大殿の戸を取り壊して隆家を捕らえさせました。一方、伊周は御所を脱出して愛宕山に逃げ隠れたという報せがありました。すぐに検非違使が山に登って伊周を捕らえ、配所に行かせました。
十二月、法師陰陽師が道長を呪詛したことがわかりました。
第45話 泣不動縁起
園城寺の智興阿闍梨は疫病にかかって心身ともに苦しみ、高熱にうなされました。しかし、大法秘宝や医療鍼灸の限りを尽くしても、一向に効果がみられません。大いに悲嘆した弟子たちは、晴明を呼んで師匠を助けてほしいと懇願します。晴明は智興の様子を見た後、弟子の中から誰かが師匠の身代わりになればその者の名を都状に記し、泰山府君に祈祷して寿命を取り替えると説明します。智興には大勢の弟子がいたが、なかなか名乗り出る者はいません。晴明の言葉を聞いてもなお身代わりになろうとする者はいませんでした。弟子たちは互いに顔を見合わせ、しばらくの間沈黙が続きました。そこへ、十八歳になる證空という弟子が晴明に身代わりを申し出ます。彼は、長年師匠に付き従っていた弟子でした。しかし、師匠に特別気に入られていたわけではありませんでした。證空は、自分は人生の半分以上を生きたのだから残りの人生もそう長くなく、貧しくて善行を積むこともできないため、自分が身代わりになると決めたのです。晴明は、證空の志は大いに師匠の恩に報いるだろうと感動し、ほかの弟子たちも涙を流しました。身代わりの祈祷を行う前に證空は故郷の母に別れの挨拶をしたいと申し出たので、晴明はこれを許可しました。證空の母は證空が身代わりになることを嘆きましたが、證空の師匠への想いを受け入れて送り出しました。證空が戻ってくると、晴明は泰山府君祭を行い、香の煙が燻るなか祈祷しました。すると、智興の病はたちまち平癒し、證空が苦しみ始めました。師匠が助かったので、弟子たちは證空の死に備えて死穢に触れても構わない部屋を用意し、證空も自分の持ち物を整理して遺言を書き、部屋の中で念仏を唱えました。證空は高熱にうなされ、計り知れないほどの苦しみに苛まれました。眠りについた證空の夢の中で神託があり、目覚めると證空は元気になっていました。夜が明けても證空が生きていたので、周囲の人々は驚きました。晴明が泰山府君の慈悲によって師匠と弟子ともに助かったと伝えると、師匠と證空は泣いて喜びました。
長徳四年(998)九月、庚申の日の夜、晴明は殿上に伺候していました。一条天皇をはじめ若い殿上人の多くが眠気を覚えて長い夜を持て余していました。晴明は天皇からなんとかして皆の眠気を覚ますよう命じられます。晴明がしばらく祈祷すると、天皇の御前にあった剪刀台などありとあらゆるものが一ヶ所に集まって踊り跳ね出しました。しかし、ものすごく激しい動きだったので皆驚いて震え上がってしまいました。天皇から皆が怖がらないことをするように命じられた晴明は、それならば皆を笑わせてみると申しました。晴明は明るい場所へ算木を運んでいき、置き広げました。殿上人たちは嘲笑したが、晴明が算木を置き終えると皆は不思議と可笑しい気持ちになって笑い出しました。天皇も笑いが止まらなくなり、部屋の奥へ入っていきました。笑い声は宮中に響き渡り、笑うのをやめようとしてもやめられませんでした。殿上人たちが晴明に向かって手をすり合わせながら笑いを止めるように懇願すると、晴明は算木を押し崩しました。すると、何事もなかったかのように笑い声は止みました。
第46話 主人と式神
長保二年(1000)五月、藤原道長が病に倒れました。晴明が占ったところ、道長の病は式神による呪詛ではないかということになりました。翌日、道長の屋敷で呪物が発見されました。
賀茂光栄は一条天皇から賀茂光国に暦道を伝授するよう命じられます。しかし、光栄は暦道については子息に習い継がせるべきだと勅命を拒否しつつも、光国の才能も認めて陰陽助あるいは博士に欠員が生じたときに任じられるのがよいと答えます。
九月、頒暦の暦本を陰陽寮に送る期日が過ぎたが、未だ進上されてません。これは、賀茂光栄が暦博士の任命を申請しているものの未だ任じられていないからです。そうしているうちに御暦奏の期日が迫ってきています。陰陽寮は暦部門の懈怠によって責めを蒙ることを恐れていました。そこで、暦博士は本来であれば除目の際に任命されるものですが、吉日がありません。藤原道長は光栄の息子賀茂守道を暦博士に任じました。これを知った安倍吉平は、光栄が暦本を作ればよかったではないかと不満を漏らしますが、晴明は敢えて自分で作らず暦本の完成を遅らせることで、息子を博士に任じさせようとしたのだろうと推察します。
十月、一条天皇が紫宸殿に出御する際、晴明は反閇を奉仕しました。応和の前例では陰陽寮が供奉し散供していましたが、晴明が道の傑出者であるため彼が供奉したのです。
第47話 陰陽の達者
長保三年(1001)閏12月、藤原詮子が亡くなったことによって、藤原顕光は天応・延暦の先例に倣って追儺を停止すべきだと奏上しました。その結果、年末は大祓だけを行うことになり、追儺は中止になりました。だが、年末になって晴明は碧霞元君から邪気を祓うために追儺が必要だと言われました。陰陽寮は追儺を中止したので、晴明が自宅で追儺の祭文を読み上げることになりました。だが、晴明は読み上げる声が小さいので、元君はもっと大きな声を出さないと神々に聞こえないと言います。そこで、晴明が大声で祭文を読み上げたところ、外の人々にまで聞こえたようで、皆が呼応して追儺の儀を行いました。
晴明は藤原行成のために泰山府君祭を奉仕することになります。晴明は行成に必要な供物を伝え、延年益算を願いました。
第48話 道満の厭術
藤原道長の許に早瓜が献上されたが、物忌の期間中だったので、晴明は受け取ってもよいか占いました。晴明が瓜を調べたところ、一つの瓜から毒気が感じられました。晴明が祈祷すると瓜は左右にゆらゆらと揺れ始めました。源頼光が刀で瓜を叩き割ると、瓜の中で小さな毒蛇がとぐろを巻いていました。頼光が瓜を割ったときに蛇の頭も切られていました。
長保六年(1004)二月、藤原道長が法性寺の修理巡検のために門に入ろうとした時、連れていた白い犬が道長の前に立ちはだかり、門の中に入れないように吠えまわりました。道長はしばらく立ち止まって様子を見ていましたが、特に変わったことはなかったので再び入ろうとしました。すると、犬が道長の衣の裾を加えて引き止めようとしました。何か理由があるのだろうと思った道長は晴明を呼び、吉凶を占うよう命じました。晴明はしばらくの間占い、犬が道長を引き止めたのは道の下に厭物が埋められているからだと伝えました。さらに、晴明は道長に命じられて厭物が埋まっている場所を探して掘り起こすと、土を五尺程掘ったところに厭物が埋められていました。そこには、土器を二つ打ち合わせたものに黄色い紙が十文字に縛り付けられていました。土器の中には何も入っていませんでしたが、底に朱砂で一文字が書かれていました。晴明は懐から紙を取り出し、鳥の形に折って空へ投げました。紙の鳥はたちまち白鷺になり、南の方へ飛んでいきました。晴明たちが鳥を追っていくと、古民家の中に落ちていくのが見えました。そこは道満の家でした。道満は播磨国へ追放されました。
寛弘元年(1004)、晴明は五龍祭を奉仕しました。夜になって大雨が降り、人々は晴明の祭祀に効験がみられたのだと感動しました。翌日、晴明は褒美を賜りました。
第49話 蘇る記憶
晴明は藤原道長から一条天皇の病の原因を占うよう命じられる。天皇は強い邪気に冒されていた。晴明が泰山府君祭を行うと、九尾の狐が姿を現して都の外へ逃げていった。伝説の悪狐・白面金毛九尾の狐だとわかった。
源頼光と四天王は後を追い、那須野の原で白面金毛を発見した。碧霞元君は激しい雨を降らせて、白面金毛が逃げられないようにした。頼光らが妖狐を退治したが、不思議なことに狐は大きな毒石に変じた。
晴明は毒石に近づかなければ害はないと説明し、人を近づけないために札を立てた。毒石に近づく者はいなかったが、動物が近づいては倒れた。石の周りには動物の骸が積み上がり、殺生石と呼ばれた。碧霞は晴明に気づかれぬよう密かに那須野に向かう。
碧霞が殺生石と対峙すると、少女の霊魂が現れた。彼女は「いずれ時が経てば復活して、再び日本を傾ける」と宣戦布告した。日本に災いが訪れないように、碧霞はここで霊魂を完全に絶つことに決めた。彼女の一撃によって殺生石は二つに割れた。ところが、石から立ち込めた凄まじい毒気が碧霞を襲い、彼女は昏睡状態になってしまう。眠っている間、梨花だった時の記憶が次々と呼び起こされる。
第50話(最終回)
魔尊を倒すための九尾狐の力を解放したことによって、晴明の正体が都じゅうの人々に知られてしまいました。しかし、全身全霊で平安京から災いを退けた彼を物の怪だと恐れる者はもはや誰もいませんでした。正体を知られた晴明は、もうここにはいられないと別れを告げます。晴明は藤原道長に息子の吉平と吉昌を託して、この世を去りました。このときの晴明は八十五歳で、人間であればとうに亡くなっていてもおかしくない年齢でしたが、それでも道長や息子たちをはじめとした大勢の人々が晴明との別れを惜しみました。
碧霞元君の真摯な説得によって、青丘は晴明を正式に狐族の皇子だと認めます。青丘において、晴明はついにかつての母親と再会を果たしました。しかし、青丘の皇子の身分をもってしても、真神である元君とは未だ釣り合いません。そこで、玄天上帝が特別に東海の神仙の称号を与えた。元君は晴明に上帝は自分の師匠だと紹介しました。そのときになって初めて、晴明は幼少の頃に出逢った白雪と元君が同じ存在だと知りました。彼にとって、陰陽師を志したきっかけである白雪が人間に転生したのが梨花で、梨花が人間界での試練を終えて真神に昇格したのが碧霞元君だったのは、思いもよらないことでした。
三年後、北宋の皇帝真宗は封禅のために泰山に登り、玉女池を訪れました。突然、池から女神の石像が湧き上がり、真宗は石像を碧霞元君として祀りました。後に元君は泰山府君を凌ぐ人気となり、彼女を祀る廟が次々と建てられました。碧霞元君の傍らには、夫として、冥官として常に彼女を支え続ける晴明の姿がありました。
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