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『晴明伝奇』第16話の解説

解説

藤原安子が皇子を出産する

  • 『九暦』天暦四年(950)5月24日条:
    寅の刻、男皇子が誕生した。去る夜、子の刻より出産の気配があった。
    修善・解謝・度数を相重ねていたが、平安を期すために重ねて色々の大願を立てた。〈(藤原)在衡の五条宅において御産があったことを、ある本の勘物□□(欠字)。ところが、外記の日記に言ったことには「遠規の春日高倉宅である」という。〉
    具さであることは、願文に在った。卯の刻、書状を少納言の乳母命婦に託し、皇子が平安に生まれたことを奏上させた。
    返報に言ったことには「主上(村上天皇)はもっとも和悦安慰のご様子でした。すぐに仰って言ったことには『今後、特によく祈願をさせて、兼ねて験僧に守護させよ』ということでした」という。
    降誕の後、すぐに野剣一柄・犀角一株・虎首一頭を枕上に置いて護りとした。〈今後、皇子を懐妊したら、事前にまずこれらの物を儲けることにする。その時になって求めても、すぐに用意するのは難しい。〉
    また、書状を以て事情を中宮台盤所に申し送った。報命の旨は、大底、内裏と同じであった。
    同じ刻、左衛門督源高明卿が来臨し、問い奉った。雑事を勘申させるために、陰陽助平野宿禰茂樹を召した。ところが、忽ち障りを称して参らなかった。そこで、陰陽権助秦連茂宅に遣わし、相共に勘申させた。
    御臍緒及び御哺乳を始める日時:今日辛酉 時は辰二点もしくは午時二点〈午時を用いた〉。
    御湯殿の調度を始めて具す時:今日、時は辰二点
    御沐浴の時:今日、戌二点〈ただし、御浴水は卯の方角に汲む。御船は申方に置く。〉
    御衣を始めて着られる日時:二十六日癸亥、時は巳二点もしくは午二点、二十八日乙丑、時は午二点もしくは酉二点、ただし黄色の衣を用いられるように。
    辰時、中使蔵人左衛門尉藤原季平が来て、綸命を伝えた。仰せの旨は、今朝、少納言が伝えた旨と同じであった。
    巳の刻、左兵衛督中納言〈(藤原)師尹〉が来問した。その知らせに言ったことには「重服の人は必ずしも参り来る必要はない、しかし、平安のことを承り、どうして門外に参らないことがあろうか。それだけではなく閣下も同じく重服である。これによって、参り向かった」という。
    仁和寺禅公が書状を以て訪ねた。
    左大臣(藤原実頼)が掃部頭源朝臣公輔を差し遣わし、問い奉った。
    午の刻、中宮の御使亮常行朝臣、朱雀院の御使侍従重光朝臣が参り、恩命を伝えた。
    按察使中納言(藤原)在衡が来問した。今朝、□□法師を召し、皇子のために今日から始めて七日間、元神供を奉仕するように命じた。その料物は、穢に触れていない物を以てこれに宛てた。件の法師は、彼の道を詳しく知っていたからである。
    故中納言平時望の女子を呼び〈(藤原)兼通の旧室。先日、私□このことを伝えた。〉乳付を奉仕させた。時は、午二点。
    晩頭、帰るときになって絹六疋を贈った。縑を以て嚢とした。
    これより前、侍医季当が甘草汁を供した。次に、蜜を光明土砂に和え、御唇に塗った。故当季朝臣の息左近局を乳母とした。〈このことは、先日に相定めた。〉
    修理大進源超が工部を率いて、材木を持たせて御湯殿の雑具を作らせた〈家の職別辺り。そこで、召して伝えたのである〉。御湯槽一隻〈台がある〉。床子二脚〈一脚は御湯殿に奉仕した人の伺候する料。一脚は御対湯に奉仕した人の伺候した料である〉。二階一脚〈御剣、虎頭、犀角を□料とする〉。瓫台四脚〈瓫八口を置く料である〉。

  • 『九暦』天暦四年(950)5月25日条:
    朝夕の御浴は、通例のとおりであった。読書・打弦は昨日と同じであった。
    戌の刻、蔵人頭内蔵頭(藤原)有相朝臣を勅使として給物があった。
    縑二十疋・絹八十疋〈白三十、赤五十〉・綿二百屯・調布三百端である。この給物は、非常に過差があるようだ。伝え聞いたことには「中宮が始めて皇子を産んだとき、給物の数はこれと同じです。その後の御産の時は、絹五十疋を下給します」という。ところが、一親王の生産の時のようにこの給物があった。今回は、どうして彼の数を用いたのだろうか。
    御厨子所の膳部平是明が、仰せによって鯉二隻を持って来た。この夕方、美濃権守興方・前但馬守遠規が饗膳を儲けた〈興方は女房に碁手二十六貫を饗し、男方に碁手二十五貫を饗した〉。
    この日、天台良源法師が数日の護摩の巻数を送り奉った。これは、彼の師が私君に奉仕したものである。廻信に託し、信乃布二十段を贈った。
    中使蔵人中務丞信孝が来て、夜来の動静を問うた。息所の腹中が痛み悩んでいることを申させた。
    参議右衛門督〈(藤原)師氏〉・大蔵卿保平・太宰大弐〈随時〉・右大弁が参問した。
    巳二刻、朝の御浴を供した。文章博士三統宿禰元夏が『古文孝経』を読んだ。鳴弦の者は五位・六位が各六人であった。
    申の刻、夕方の御湯殿。読書・鳴弦は朝と同様であった。
    民部大輔橘好古朝臣の息女を副乳母とした。元々、故殿に奉仕していた者である。

皇子憲平の立太子

  • 『九暦』天暦四年(950)6月25日条:
    臨時御読経が結願した。終わってから、御前に召して仰って言ったことには「今月の御体御卜に言ったことには『七月上旬、行幸により、もしくはご病気があるだろうか』ということだ。今、事を案じたところ、十六日はすでに七月節に入っている。どうして障りを恐れることがないだろうか。そこで、書状を中宮に奉ったところ、報命に言ったことには『このことは、確かに思惟して行われなければならない』という。ただし、まずは期日を定めてから上皇の処分を請う。明日、陰陽師を召して吉日を選び申させよ」という。
    退出した後、(藤原)伊尹に奏上させて言ったことには「誰にこのことを選ばせるべきでしょうか。また、何処に勘文を進上させるべきでしょうか」という。
    命じて言ったことには「先帝の御日記に言ったことには『延長三年、故太政大臣(藤原忠平)は左大臣であった。ところが、陰陽頭氏江一人を大臣家に召して勘申させた』という。そうであれば、陰陽助(平野)茂樹〈この間、頭を欠いていた〉を大臣家に召し、勘申させよ」という。

  • 『九暦』同年6月26日条:
    (平野)茂樹を召して勘文を進上させたところ「来月二十三日戊子がもっとも吉です」という。
    午の刻、内裏に参った。(藤原)伊尹にこの事を奏上させた。仰って言ったことには「その日に遂げ行うように。そもそも先例では、皇太子を立てた後、幾日を経ずに東宮は職曹司に入った。ところが東宮の凶事の後、すでに数十年に及び、荒涼はすでに甚だしい。職に至ってはまた、憚るところがある〈延喜の次の皇太子(保明親王)が、東職において夭逝した〉。
    宮中で便のある所を尋ね求めたところ、修造の間、もしくは数ヶ月を経るだろうか。事は先例に背くのを恐れる」という。
    奏上して言ったことには「このようなことは、便宜に従って行われなければなりません。昔に在る東宮及び職曹司に破損はありません。そこで、早く移り入ります。当今、この両所の雑舎が顛倒し、残っている所は幾ばくもありません。また、諸司の間にもその所はありません。それだけではなく、秋三月は王相が西に在ります。皇子の居所は宮城の東に当たり、便のある所を選んで、三ヶ月の間修理を加え、移徙を行うのがもっともよろしいでしょうか」という。
    仰って言ったことには「申したことは、道理がないわけではない。けれども、庶事は先例によって行わなければならない。もしくは数ヶ月、里第に在れば、後代の謗りを遺さないだろうか」という。
    重ねて奏上して言ったことには「太上天皇は遜位の後、一日も禁中に留まってはなりません。ところが、去る天慶九年四月、禅位の後、朱雀上皇はなお弘徽殿にいらっしゃり、七月に至って朱雀院に御出しました。これはつまり、夏三月の南方の王相によるものです。また、皇后は数日も人家に住んではなりません。ところが、当今の太后は、延長元年四月に立后しました。太政大臣の五条家に住む間、職に即き、九月に至って主殿寮に移御した。『これもまた、確かな前例がないわけではないが、新議があって行われた』ということです。これを以てこのことを謂うと、当時の定めに特に難はないでしょうか。もしくは、やはりその難があるのならば、まずは居所を造り設け、そのことを行われなければならないでしょうか」という。

  • 『九暦』同年7月11日条:
    御前に召し、命じて言ったことには「まず、親王とする宣旨を下した後、このことを行うように。(平野)茂樹を召し、吉日を選び申させよ」という。
    「また、名字は参議維時朝臣に選ばせた。ところが、未だ勘申していない。それだけではなく『延喜の後の皇太子の名字は、あの時、維時朝臣が侍中として勘申しました』という。事は、そうであってはならないが、憚ることがないわけではない。中納言(藤原)在衡卿に命じてその字を選び申させよ」という。すぐに陣頭に向かい、件の卿に伝え命じた。
    退出した後、頭弁(藤原有相)に相語って言ったことには「先日の仰せのようであれば『東宮は皇太子の居所である。どうして一度の凶事によって長くその所を棄てようか。宜しく修造を加え、あの宮に住まわせるように』ということだ。仰せの旨は、もっとも道理なことである。敢えて申してはならなかった。けれども、延喜の初めの太子(保明親王)は成人後にあの宮において突然夭逝した。その後、破壊はもっとも盛んである。ほとんど荒野のようであった。今、ひとえに道理を論じると、幼少の皇子を住まわせることに恐れるところがないわけではない。延長・天慶の前例では、凝華舎を皇太子の宿廬とした。この両太子は、すでに后腹の親王である。あえて因准するべきではない。前例では、貞観の時代、右大臣良相卿が曹司を中重に給わった。臣下はすでに陣中に伺候していた。そうであればつまり、今回の太子は桂芳房を宿廬としようと思う。よろしく便宜を量り、このことを奏上するように」という。仰って言ったことには「よろしい。従い行うように」という。

  • 『九暦』同年7月14日条:
    先日の仰せの旨により、(平野)茂樹宿禰を召し、皇太子に御名を授け奉る日時を選び申させた。十五・十六日の午の刻が吉である。所があって、帯に「封」の字を加えて蔵人頭(藤原)有相朝臣の許に送り、これを奏聞させた。

  • 『九暦』同年7月15日条:
    辰の刻、按察中納言(藤原在衡)が来て勘文を授けた。召しによって、内裏に参った。仰って言ったことには「藤原朝臣が勘申した『広業』・『憲平』がよろしい。特に『憲平』は謂れに便がある」という。
    また、言ったことには「『字書』・『唐韻』を引勘しようと思うが、午の刻、すでに過ぎたか」という。答えて言ったことには「重服の人はこの事を承り行ってはなりません。大納言藤原朝臣(顕忠)が奉行するのがよろしいでしょうか」という。
    罷り出た後、例の念仏の事に列させるため、法性寺に参った。
    亥の刻、(藤原)伊尹が告げ送って言ったことには「『憲平』の字を選び定めました。すぐに、件の刻に大納言顕忠卿が宣旨を蒙り、所司を召して伝えました。その後、氏の大夫を率いて弓場殿に参り進み、左近中将良岑義方朝臣に慶賀を奏上させました。この大納言のほかに、藤氏の公卿は参りませんでした。そこで、大納言一人及び殿上の氏の大夫及び左少弁雅量が相従いました」という。

  • 『九暦』同年7月16日条:
    昨日の親王官符を、今日請印した。
    「今日のうちに請印するようにと、昨日仰られたのである」という。

  • 『九暦』同年7月22日条:
    外記是連が来て言ったことには「藤大納言(藤原顕忠)が内裏に参りました。殿上の仰せを承り、明日、皇太子を立てるようにとのことを外記に命じました。従って、関係のある諸司に伝え命じました」という。
    天慶七年の前例では、皇太子の御飯は中宮から料米を内膳司に渡して炊き進めさせた。あの例に准えて、主膳監が未だ定まっていない間、本家の米をあの司に渡して炊き進めさせるようにと史維宗・典膳仲舒に命じた。このことは、前例もしくは宣旨に依って行うだろうか。あの司に勘申させ、後のために記さなければならない。

  • 『九暦』同年7月23日条:
    天が曇った。
    寅の刻、左右衛門府が来て、白砂を敷いた〈両府の督は、あるいは因縁、あるいは近親である。そこで先日、知らせを示し送り、府ごとに五十両を曳かせた〉。
    卯の刻、修理職の官人が雑工を率いて造作を行っていたのは切しているようだった〈家は職別当である。そこで先日、趣旨を伝えて進め、諸所を修理させた〉。
    辰の刻、蔵人左近少将(藤原)伊尹が召しによって内裏に参った。すぐに勅使として色々の給物を持たせて到来した。恐れ多いことを奏上させ、禄を下給した〈白張の細長一襲・袴一具〉。すぐに本家の侍人に御帳を供設させた。下給した物は、飯埦一口〈蓋を加えた〉、水垸一口、羹垸四口、四種坏四口、盞一具〈三物〉、盤八枚、馬垸盤一枚、箸二双、御匕二枚、朱の御台盤二脚〈それぞれ、台があった〉、御帳一具〈帳台があった。帷・金物を加えた〉、御鏡二面〈繍緒及び筥台を加えた〉、犀角二株〈綱があった〉、御畳二枚〈大、御帳の御坐料である。帳の帷ならびに御した〉。
    ただし、銀器及び御帳の帷料は調えられていた。その他の物は、大嘗会のときに主基方が献上したものである。
    重い服忌によって、この日は参入するべきではない。ところが伊尹が伝えたことによって参入した。さらに、陣座を経由せず殿上の侍に着した。御前に召し、坊官を定め仰られた。この議は、おおよそのことは一昨日に終わっていた。ところが今、重ねてこの仰せがあった。
    時刻が巳に来たので、罷り出た。これは、大納言藤原顕忠卿が宣命案を奏上した〈この卿は同じ忌月である。今月は、いわゆる服直である。ところが今日のことを行うため、垂纓して吉についていた〉。次に、清書を奏上した。
    午三刻、紫宸殿にいらっしゃった。儀式は通例のとおりであった。詳しいことは、外記日記にある。宣命が終わって、左右近衛・左右兵衛が啓陣を率いて参り来た。左右近陣、少将・将監・将曹・府生・番長・府掌は各一人、近衛は各十人。左右兵衛、尉・番長は各一人。兵衛が各十九人。すぐに左少将以下府生以上の座を西中門北廊、右近・右兵衛官人の座、同じ中門南廊、左兵衛官人の座、東対東坂屋南庇〈本家の侍所〉に設けた。番長以下の者は、左右近は西中門西庭にいた。右兵衛は西御門の外にいた。左兵衛は東御門の外にいた。必ず左右は東西に相分かれて伺候しなければならない。ところが、便宜に従って伺候させた〈ただし今日から十余日の間、物節以下は幄下に伺候する。その後は、右近が南片庇に伺候し、左近が北中門東掖片庇に伺候した。〉
    未の刻、左大臣(藤原実頼)が参入した。今朝の召しによるものである。御前に伺候した。坊官除目があった。また、殿上人・蔵人を定められた。大臣は中間に還って陣の座に着した。夜に入って召しがあり、再び参上した。「これこれのようであれば、中宮から藤原公雅を蔵人に挙げられた。ところが、その聞こえがなかったので、御使が再三往復し、相定められる間、すでに酉の刻に及んだ」という。
    戌の刻、坊官の亮(源)雅信朝臣・少進守忠が慶賀を啓上した。大進遠規が女房に託し、伝えて啓上させた。ただし、傅・大夫は重服により参入しなかった。(略)

  • 『御産部類記』同日条:
    (前略)この間、左大臣(藤原実頼)が召しによって参入した。
    すぐに和徳門より入り、直ちに御前に参上した。しばらくして、先年の坊官の召名を召した。少外記理綱が、去る天慶七年・延長三年の召名を持参した。次にまた、五位以上の歴名帳を召した。権少外記春道有方が持参し、ならびに蔵人に託してこれを奉った。左大臣は独りで御前に伺候し、坊官の夾名を書き出した。
    黄昏の間、左大臣が陣座に就いた。参議左大弁源庶明朝臣に坊官の召名を清書させた。この間、大納言藤(藤原)顕忠卿が召しによって御前に参上した。左大臣を皇太子傅とすることについて仰せを奉り、還り着した。同じく庶明朝臣に黄紙に書かせた。左大臣が坊官の召名を覆奏した。還り着してから、大納言が再び春宮傅の召名を覆奏した。すぐにまた、還り着した。終わってから、左大臣が外記に命じて式部省を召させた。大丞藤(藤原)清雅が参入し、召名を賜って罷り出た。その後、物を被けたことには差があった。ただし、左大臣は独り陣座に留まった〈これは、素服によって参入されないのである〉。
    しばらくして御前に参上し、東宮蔵人・殿上人を定められた。
    亥二刻、退出した。今日の早朝、御帳一具・銀器一具・朱台盤二脚を仁寿殿から出して、府、皇太子の御在所に遣わし奉った。
    宣命が終わった後、御剣一柄について、左近権中将良岑義方にこれを遣わした。纏頭があった。春宮傅・坊官及び蔵人・殿上人の夾名は左のようである。
    春宮傅 従二位藤原実頼〈兼〉
    春宮大夫 従三位藤原師尹〈兼〉
    春宮亮 従四位源朝臣雅信〈兼〉
    春宮権亮 従四位下藤原有相〈兼〉
    春宮大進 従五位下藤原遠規
    春宮少進 正六位上藤原守忠
    春宮大属 正六位上御立宿禰維宗〈兼〉
    春宮少属 正六位上山前連豊範
    蔵人 少監物橘仲任・左兵衛尉源惟正・文章生橘為政・蔭孫藤為保
    殿上人(四位) 左近中将良岑義方朝臣・藤信恒・忠清朝臣・右近少将藤直忠朝臣
    殿上人(五位) 左少弁藤原雅量・左近少将藤原伊尹・左兵衛権佐藤斉敏・散位藤朝臣親賢
    殿上人(六位) 蔭孫藤公雅

平野茂樹が諸々の祭祀を行う吉日吉時を選定する

  • 『九暦』天暦四年(950)7月26日条:
    雨。大夫(藤原師尹)が初めて参入し、殿上の侍の座に就いた。
    陰陽寮を召し、御殿祭・御井祭及び鎮祭・御膳所の神を奉仕する日時及び政を始める日時を勘申させた。必ず、一官が共に勘文を進上しなければならない。ところが、他の官人は各々障りを申したため、陰陽助平野茂樹宿禰が一人で勘申した〈この間、陰陽寮は頭を欠いていた〉。
    私(藤原師輔)と大夫は内裏に参った。申の刻、傅左大臣(藤原実頼)と私は御前に伺候した。除目があった。事が終わって、左大臣は除目を笏に取り副え、陣の座に着した。右中弁(藤原)有相朝臣に清書させた。参議が伺候していなかったためである。すぐに外記有方に持たせ、御在所に参上して奏聞した。(略)


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