『晴明伝奇』各回で取り扱う時期と主なできごと(史実編)
この記事では、『晴明伝奇』の各回で取り扱う時期とその間に実際に起ったできごとについて記載していきます。全50話分あります。
古記録・和歌集に残っている出来事だけを書いています。
『大鏡』『今昔物語集』のような、物語性の強い古典文学に記載されている事柄については触れていません。
『晴明伝奇』は安倍晴明と陰陽道の主神泰山府君の娘・碧霞元君の複雑な運命の絡み合いを中心に、晴明の生涯を辿る物語です。全50話。
晴明がどのような一生を送ったか分かる史料は少ないので創作は必須ですが、できる限り史実に基づいています。
安倍晴明は現在放送中の2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』にも出演しています。
さらに、安倍晴明は大河ドラマの主人公になってほしい歴史上の人物にもランクインしています!
各回の時期・できごと
第1話
時期:延長八年(930)
延長八年(930)に疫病が流行していた
→『日本紀略』延長八年(930)6月26日条に「春から夏にかけて疫病が止まなかった」とあります。
第2話
時期:延長八年(930)~天慶二年(939)
延長八年(930)六月に天変が頻りに起こる
→下記史料を参照してください。
①『扶桑略記』同年6月12日条
②『扶桑略記』同年6月14日条
③『扶桑略記』同年6月15日条
④『扶桑略記』同年6月23日条清涼殿落雷事件
→『日本紀略』延長八年(930)6月26日条を参照してください。清涼殿落雷事件の後に天変・怪異が頻りに起こる
→下記史料を参照してください。
①『扶桑略記』延長八年(930)7月5日条(雷)
②『扶桑略記』同年7月15日条(流星)
③『扶桑略記』同年7月20日条(雷鳴・風雨)醍醐天皇が咳病を患う
→『日本紀略』延長八年(930)7月15日条を参照してください。
第3話
時期:天慶元年(938)
都で大地震が起こる
→『扶桑略記』承平八年(938)4月条を参照してください。暦博士大春日弘範と権暦博士葛木茂経の造暦論争
→『本朝世紀』天慶元年(938)10月17日条を参照してください。暦本が定まらないことを理由に、陰陽寮が御暦奏を延期する
→『本朝世紀』天慶元年(938)11月1日条を参照してください。朝廷が造暦の議論の際に葛木茂経の暦本を採用すると宣旨を下したと主張
→『本朝世紀』天慶元年(938)11月4日条を参照してください。陰陽寮が朝廷から御暦奏が遅延したことに対する過状(始末書)の提出を求められる
→『本朝世紀』天慶元年(938)11月7日条を参照してください。陰陽寮が通例より一ヶ月遅れで御暦を奏上する
→『本朝世紀』天慶元年(938)12月1日条を参照してください。葛木茂経が提出した月蝕についての勘文と実際に起こった月蝕の動きが寸分違わなかった
→『本朝世紀』天慶元年(938)12月15日条を参照してください。藤原忠平が賀茂忠行を召し、功績があれば特に褒賞を与えることを伝える
→『貞信公記抄』天慶二年(939)12月30日条を参照してください。
第4話
時期:天慶三年(940)~天慶四年(941)
正月の行事が平将門・藤原純友の兵乱によって中止になる
→『日本紀略』天慶三年(940)1月1日条を参照してください。太政大臣(藤原忠平)大饗が兵乱によって中止になる
→『九条殿記』天慶三年(940)1月4日条を参照してください。宮中で国家鎮護の修法が行われる
→『阿娑縛抄』『法琳寺別当補任』天慶三年(940)1月14日条を参照してください。賀茂忠行が東西の兵乱を鎮めるために白衣観音法を提案する
→『阿娑縛抄』私目録第五十之二を参照してください。賀茂保憲が暦生の身分で暦博士大春日弘範と一緒に造暦に携わる
→『符宣抄』天慶四年(941)7月17日条を参照してください。
第5話
時期:天慶五年(942)
天変地異が頻りに起こる
→下記史料を参照してください。
①『本朝世紀』天慶五年(942)3月7日条(地震)
②『本朝世紀』同年3月16日条(地震)
③『本朝世紀』同年3月18日条(地震)
④『本朝世紀』同年3月19日条(陰陽寮が天変・地震を占う)
第6話
時期:天慶五年(942)
承平・天慶の乱を平定した御報賽として石清水臨時祭が行われる
→『日本紀略』天慶五年(942)4月27日条を参照してください。
『本朝世紀』同年4月10日条によると、この臨時祭が行われた日は事前に陰陽寮が選定した吉日でした。
第7話
時期:天慶五年(942)
第8話
時期:天慶五年(942)~天慶六年(943)
慶滋保胤の誕生年
→『慶滋保胤 (人物叢書 新装版)』(2016年、吉川弘文館)の説により、慶滋保胤の生年を天慶六年(943)としています。
第9話
時期:天慶七年(944)
大雨・暴風によって京中の建物が損壊する
→『日本紀略』天慶七年(944)9月2日条を参照してください。激しい雨で川の水が溢れる
→『日本紀略』天慶七年(944)9月11日条を参照してください。皆既月蝕が起こる
→『日本紀略』天慶七年(944)9月15日条を参照してください。藤原忠平が重く患い、加持祈祷が修される
→『日本紀略』天慶七年(944)10月24日条、『日本紀略』同年10月25日条を参照してください。
第10話
時期:天慶七年(944)~天慶八年(945)
藤原安子が従五位上に叙される
→『貞信公記抄』天慶八年(945)1月9日条を参照してください。
この叙位は先例のないことでしたが、成明親王(後の村上天皇)の寵愛が盛んなため叙すことになりました。大原野祭において、藤原忠平は病が重く束帯を着用できない
→『貞信公記抄』天慶八年(945)2月24日条を参照してください。
藤原忠平は所労で束帯を着用することができなかったので、烏帽子・直衣を着用しました。藤原忠平の病状が悪化する
→『貞信公記抄』天慶八年(945)3月23日条を参照してください。藤原忠平は体調が悪く参内することができない
→『貞信公記抄』天慶八年(945)3月26日条を参照してください。
藤原師尹が使者として藤原忠平の許を訪れ、左大臣藤原仲平が病を称して参内していないことを報告しました。しかし、忠平もまた参内することができないほど重く患っていました。除目の際、藤原忠平は一言も発することができない
→『貞信公記抄』天慶八年(945)3月27日条を参照してください。
第11話
時期:天慶八年(945)~天慶九年(946)
安倍氏の吉志舞
→吉志舞は安倍氏の当主が大嘗会で奉納する舞です。
安倍氏が吉志舞を奉納した記録は、下記史料で確認できます。
①『日本三代実録』貞観元年(859)11月19日条 ※清和天皇の即位時
②『日本三代実録』元慶八年(884)11月25日条 ※光孝天皇の即位時
③『北山抄』大嘗会事:寛平九年(897)11月20日条 ※醍醐天皇の即位時
④『園太暦』寛和元年(985)11月24日条 ※花山天皇の即位時(この時は、安倍晴明が吉志舞を奉納しました)
⑤『御堂関白記』長和元年(1012)11月25日条 ※三条天皇の即位時
第12話
第13話
時期:天暦元年(947)
藤原実頼が左大臣、藤原師輔が右大臣になる
→『日本紀略』天暦元年(947)4月26日条を参照してください。陰陽寮が疫病を鎮めるための祭祀を修する
→下記史料を参照してください。
①『貞信公記抄』天暦元年(947)8月14日条(鬼気祭)
②『貞信公記抄』同年8月22日条(四角祭・四角四境祭)
第14話
第15話
第16話
時期:天暦四年(950)
平野茂樹が皇子出産後の雑事を占う
→『九暦』天暦四年(950)5月24日条を参照してください。
源高明は陰陽助平野茂樹を召して皇子出産後の雑事を占わせようとしました。しかし、茂樹は障りを申して参上しなかったので、彼の邸宅において占わせました。賀茂保憲と大春日益満が造暦の議論を行う
→『西宮記』『北山抄』を参照してください。
天暦四年(950)10月17日、暦博士賀茂保憲と大春日益満が造暦の異論について藤原実頼から問われました。
明年五月朔日について、保憲は宣命暦に基づき丁酉としましたが、益満は会昌革に基づき戊戌としました。最終的には、保憲の宣命暦が採用されました。
第17話
第18話
第19話
後撰和歌集
→『本朝文粋』を参照してください。
藤原伊尹が和歌所別当を務めました。
第20話
朱雀上皇の出家
→『醍醐寺雑事記』天暦六年(952)3月14日条を参照してください。賀茂保憲が所帯の栄爵を賀茂忠行に譲ってほしいと請う
→『本朝文粋』天暦六年(952)4月27日条を参照してください。
暦博士賀茂保憲は所帯の栄爵(従五位下)を父忠行に譲ってほしいと願いました。
第21話
日延の呉越留学
→『太宰府政所牒案』を参照してください。
賀茂保憲が長年に渡り新暦が日本に伝来していないことについて述べています。
第22話
藤原安子の中宮冊立
→『扶桑略記』天徳二年(958)10月27日条を参照してください。藤原芳子の女御宣旨
→『日本紀略』天徳二年(958)10月28日条を参照してください。
第23話
時期:天徳三年(959)
藤原安子が出産のため小一条邸へ遷御する
→『日本紀略』天徳三年(959)1月25日条を参照してください。藤原安子が皇子(後の円融天皇)を出産する
→『日本紀略』天徳三年(959)3月2日条を参照してください。白虹が太陽を貫く天変
→『九暦』天徳三年(959)12月9日条を参照してください。
第24話
時期:天徳四年(960)
正月の叙位で藤原伊尹・兼通・兼家が同時に加階される
→『九暦』天徳四年(960)1月7日条を参照してください。霜が降る天変
→『天徳御記』天徳四年(960)4月1日条を参照してください。賀茂保憲が天文博士に任じられる
→『扶桑略記』天徳四年(960)4月22日条を参照してください。天変が頻りに起こる
→下記史料を参照してください。
①『日本紀略』天徳四年(960)4月4日条
②『日本紀略』同年4月5日条
③『日本紀略』同年4月7日条
④『日本紀略』同年4月20日条疫病が流行する
→下記史料を参照してください。
①『扶桑略記』天徳四年(960)5月2日条
諸国及び十五大寺に官符を下し、疫病を鎮めるための祈祷を行わせました。
②『祈雨記』同年5月3日条
疫病による死者が多いので、諸社奉幣と読経を行わせました。
③『日本紀略』同年5月28日条
疫病の流行により、相撲人が停止されました。藤原師輔 没
→『日本紀略』天徳四年(960)5月4日条を参照してください。干ばつの被害
→『祈雨記』天徳四年(960)5月13日条を参照してください。
陰陽寮が、炎旱の祟りについて軒廊御卜を行いました。内裏で触穢が起こる
→下記史料を参照してください。
①『日本紀略』天徳四年(960)6月1日条
②『日本紀略』同年6月11日条
第25話
時期:天徳四年(960)
内裏で火災が起こる
→『日本紀略』天徳四年(960)9月23日条を参照してください。
第26話
時期:天徳四年(960)~応和元年(961)
賀茂保憲らが村上天皇の冷泉院遷御の可否について意見を述べる
→『村上天皇御記』天徳四年(960)10月22日条を参照してください。
村上天皇が職御曹司から冷泉院へ遷御することについて、職御曹司から見て冷泉院は大将軍(方位神)の在る方角にあたります。そこで、忌む必要があるか否かについて天文博士賀茂保憲・秦具瞻・文道光が議論しました。具瞻と道光は忌むべきだと述べましたが、保憲は忌む必要はないと述べました。村上天皇の冷泉院遷御に際し、賀茂保憲が反閇を奉仕する
→『日本紀略』天徳四年(960)11月4日条を参照してください。
村上天皇が冷泉院へ遷御した際、天文博士賀茂保憲が反閇を奉仕しました。安倍晴明が霊剣を鋳造させる
→『塵袋』天徳四年(960)12月12日条を参照してください。賀茂保憲が霊剣再鋳造のために五帝祭を修し、安倍晴明が進行役を務める
→『塵袋』応和元年(961)6月28日条を参照してください。
天文博士賀茂保憲は霊剣再鋳造のために高雄山の神護寺において三方五帝祭を修しました。
『大刀契事』によると、保憲が祭文を読み、天文得業生の安倍晴明が奉礼(進行役)を務めました。
第27話
時期:康保元年(964)
甲子革令により応和から康保へ改元が行われる
→『日本紀略』康保元年(964)7月10日条を参照してください。
『応和四年甲子革令勘文』によると、左大臣藤原実頼の邸宅で改元について議論がありました。天文博士賀茂保憲は「応和四年は甲子の年にあたるため、災いを鎮め徳を施すために改元が必要である」と述べました。賀茂保憲が海若祭を修する
→『革暦類』を参照してください。
康保元年(964)8月21日甲子、天文博士賀茂保憲は摂津国難波浦において海若祭を修しました。
第28話
時期:康保四年(967)
憲平親王の病
→『日本紀略』康保四年(967)2月17日条を参照してください。
憲平親王が病を患ってからこの日で四ヶ月に及びます。藤原師尹が藤原兼家に命じて加持祈祷を行わせる
→『西宮記』康保四年(967)3月1日条を参照してください。憲平親王を病から救うために御修法が修される
→下記史料を参照してください。
①『日本紀略』康保四年(967)3月2日条
②『延喜天暦御記抄』同年3月4日条
③『延喜天暦御記抄』同年3月11日条
④『日本紀略』同年3月28日条村上天皇 崩御
→『日本紀略』康保四年(967)5月25日条を参照してください。
第29話
時期:康保四年(967)~安和元年(968)
安倍晴明が政始の吉日吉時を選定する
→『本朝世紀』康保四年(967)6月23日条を参照してください。
陰陽師安倍晴明は政始の吉日吉時を選定し、勘文を提出しました。7月15日に行うことが定められました。
『本朝世紀』同年7月15日条によると、実際にその日に政始がありました。藤原実頼の嘆き
→『清慎公記』康保四年(967)7月22日条を参照してください。天変が頻りに起こる
→下記史料を参照してください。
①『日本紀略』康保四年(967)9月9日条
②『日本紀略』同年9月10日条
③『日本紀略』同年9月13日条冷泉天皇の即位式が紫宸殿で行われる
→『日本紀略』康保四年(967)10月11日条を参照してください。藤原超子の入内
→『日本紀略』安和元年(968)10月14日条を参照してください。
第30話
時期:安和二年(969)
太政大臣(藤原実頼)大饗
→『清慎公記』安和二年(969)1月2日条を参照してください。
管弦の興が催されましたが、村上天皇の御代を追憶して演奏したものだったので、皆が涙を拭いました。藤原師尹と藤原兼家の家人の闘乱
→『日本紀略』安和二年(969)2月7日条を参照してください。
右大臣藤原師尹の家人と中納言藤原兼家の家人が闘乱になり、師尹の家人が兼家の邸宅を打ち壊しました。源満仲が源高明らの謀反を密告し、高明が太宰府に左遷される
→『日本紀略』安和二年(969)3月25日条を参照してください。
源満仲らが源高明の謀反を密告し、高明は太宰外帥に左遷されました。このことによって右大臣藤原師尹が左大臣に、大納言藤原在衡が右大臣に昇進しました。源高明の出家
→『日本紀略』安和二年(969)3月26日条を参照してください。源高明謀反密告の褒賞として、源満仲が正五位下に叙される
→『日本紀略』安和二年(969)3月27日条を参照してください。源高明の西宮第で火災が起こる
→『日本紀略』安和二年(969)4月1日条を参照してください。冷泉天皇の譲位
→『日本紀略』安和二年(969)8月13日条を参照してください。
冷泉天皇は守平親王(後の円融天皇)に譲位しました。藤原実頼が弟藤原師尹に先立たれたことを嘆く
→『拾遺和歌集』の藤原実頼の歌「おくれゐて鳴くなるよりは葦鶴のなどか齢を譲らざりけん」を参照してください。
第31話
時期:天禄元年(970)
藤原実頼 薨去
→『日本紀略』天禄元年(970)5月18日条を参照してください。
第32話
時期:天禄元年(970)~天禄三年(972)
藤原師氏 薨去
→『日本紀略』天禄元年(970)7月14日条を参照してください。藤原在衡 薨去
→『扶桑略記』天禄元年(970)10月10日条を参照してください。源高明の召還
→『日本紀略』天禄二年(971)10月29日条を参照してください。源高明の帰京
→『日本紀略』天禄三年(972)4月20日条を参照してください。
安和の変で太宰府に左遷された源高明が帰京しました。藤原兼通と藤原兼家の口論
→『済時記』天禄三年(972)10月22日条を参照してください。
藤原伊尹が提出した摂政の辞表について、藤原兼家・藤原兼通は一緒に殿上に伺候し、辞任を認めるべきだと奏上しました。その後、誰が伊尹の後を継ぐのか口論になり、やがて罵詈雑言に及びました。藤原伊尹の辞表がたった一度で認められる
→『済時記』天禄三年(972)10月23日条を参照してください。
通例では、臣下は数度に渡り辞表を提出しなければ認められません。しかし、伊尹は病を患ってから初めて辞表を提出し、すぐに認められました。これは先例に反することであり、世間の人々の不平不満は充満しました。藤原伊尹 薨去
→『親信卿記』天禄三年(972)11月1日条を参照してください。賀茂保憲の推薦で安倍吉昌が天文得業生になる
→『類聚符宣抄』を参照してください。
天禄元年(970)11月8日、安倍吉昌は聡明で勉学を怠らないことによって、正五位下行主計頭兼天文博士賀茂保憲の推薦で天文得業生になりました。
第33話
時期:天延二年(974)
安倍晴明が賀茂保憲の大乗院点地に同行する
→『親信卿記』天延二年(974)5月14日条を参照してください。
主計頭賀茂保憲は平親信と一緒に都を出発し、比叡山に登りました。保憲は子・姪等を従えていましたが、その中には安倍晴明もいました。朔旦冬至の叙位で賀茂保憲が従四位に叙される
→『朝野群載』を参照してください。
第34話
藤原超子が皇子居貞を出産する
→『日本紀略』天延四年(976)内裏で火災が起こる
→『日本紀略』天延四年(976)5月11日条を参照してください。二ヶ月間に渡り地震が続く
→下記史料を参照してください。
①『日本紀略』天延四年(976)6月18日条(申の刻に大地震があり、雷のように鳴り響いた未曾有の災害だった)
②『日本紀略』同年6月19日条
③『日本紀略』同年6月20日条
④『日本紀略』同年6月21日条
⑤『日本紀略』同年6月22日条
⑥『日本紀略』同年6月23日条
⑦『日本紀略』同年6月26日条
⑧『日本紀略』同年6月29日条
⑨『日本紀略』同年6月30日条
⑩『日本紀略』同年7月11日条
⑪『日本紀略』同年7月12日条
⑫『日本紀略』同年7月14日条
⑬『日本紀略』同年7月18日条
⑭『日本紀略』同年7月20日条
⑮『日本紀略』同年7月21日条
⑯『日本紀略』同年7月23日条災害によって天延から貞元へ改元が行われる
→『日本紀略』貞元元年(976)7月13日条を参照してください。
第35話
時期:貞元二年(977)
賀茂保憲 卒去
→『尊卑分脈』を参照してください。
貞元二年(977)2月22日、天文博士従四位下賀茂保憲が卒去しました。
第36話
時期:貞元二年(977)~貞元三年(978)
藤原兼通が除目を行い、藤原頼忠を次の関白に指名する
→『日本紀略』貞元二年(977)10月11日条を参照してください。
太政大臣藤原兼通は病のため関白を辞任し、後任に左大臣藤原頼忠を指名しました。藤原兼通が除目を行った後、藤原兼家が円融天皇に長歌を奏上する
→『拾遺和歌集』を参照してください。藤原兼通 薨去
→『日本紀略』貞元二年(977)11月8日条を参照してください。藤原兼家が右大臣に任じられた後、円融天皇に和歌を奏上する
→『新古今和歌集』の藤原兼家の歌「かかる瀬もありけるものを宇治川の絶えぬばかりも嘆きけるかな」を参照してください。
兼家の歌に対して、円融天皇は「昔より絶えせぬ川の末なれば淀むばかりを何なげくらん」と返しました。
第37話
藤原詮子が皇子懐仁(後の一条天皇)を出産する
→『日本紀略』天元三年(980)6月1日条を参照してください。
第38話
時期:寛和元年(985)
第39話
時期:寛和二年(986)
花山天皇の出家
→『本朝世紀』寛和二年(986)6月23日条を参照してください。
花山天皇は密かに清涼殿を出発して花山寺に向かい、出家しました。一条天皇の即位
→『日本紀略』寛和二年(986)6月23日条を参照してください。安倍吉昌が天文博士に任じられる
→『除目大成抄』を参照してください。
寛和二年(986)9月、安倍吉昌は天文博士に任じられました。
第40話
時期:永祚元年(989)
安倍晴明が円融法皇の夢想のために泰山府君祭を行う
→『小右記』永祚元年(989)2月11日条を参照してください。
『小右記』同年2月10日条によると、円融法皇が一条天皇のことで夢想がよろしくないので、尊勝御修法・焔魔天供・代厄御祭が奉仕される予定でしたが、実際には晴明が泰山府君祭を奉仕しました。
第41話
時期:永祚元年(989)
彗星の出現により、永延から永祚に改元が行われる
→『日本紀略』永祚元年(989)8月8日条を参照してください。永祚の風
→『小右記』永祚元年(989)8月13日条を参照してください。遍照寺供養
→『小右記』永祚元年(989)10月25日条を参照してください。
第42話
第43話
時期:長徳元年(995)
高階成忠が法師陰陽師に藤原道長を呪詛させる
→『百錬抄』を参照してください。
長徳元年(995)8月10日、高階成忠は法師陰陽師に右大臣藤原道長を呪詛させました。
第44話
時期:長徳二年(996)
藤原伊周・藤原隆家の従者が花山院の従者と闘乱を起こす
→『日本紀略』長徳二年(996)1月16日条を参照してください。藤原詮子の寝殿の板敷の下から厭物が発見される
→『小右記』長徳二年(996)3月28日条を参照してください。藤原伊周・藤原隆家の配流宣命が下される
→『小右記』長徳四年(996)4月24日条を参照してください。
花山院を射たこと・藤原詮子を呪詛したこと・私的に太元帥法を行ったことにより、配流宣命が下されました。藤原隆家が配流される
→『小右記』長徳二年(996)5月1日条を参照してください。藤原定子の出家
→『小右記』長徳二年(996)5月2日条を参照してください。藤原道長が法師陰陽師に呪詛される
→『小記目録』長徳二年(996)12月15日条を参照してください。
第45話
時期:長徳四年(998)
第46話
時期:長保二年(1000)
藤原道長が呪詛される
→『小記目録』長保二年(1000)5月8日条を参照してください。
藤原道長の病気は式神のせいではないかと疑われました。藤原道長の邸宅で厭物が発見される
→『小記目録』長保二年(1000)5月9日条を参照してください。一条天皇が賀茂光栄に賀茂光国への暦道の伝授を命じる
→『権記』長保二年(1000)7月9日条を参照してください。一条天皇の紫宸殿出御に際し、安倍晴明が反閇を奉仕する
→『権記』長保二年(1000)10月11日条を参照してください。
第47話
時期:長保二年(1000)~長保三年(1001)
藤原顕光が追儺の停止を提案する
→『日本紀略』長保三年(1001)12月条を参照してください。
右大臣藤原顕光が天応・延暦の先例に倣って今年の追儺を停止するべきだと提案しました。そこで、29日は大祓だけ行い、追儺は停止されました。安倍晴明が私宅で追儺を行い、世間の人々が呼応する
→『政事要略』巻二十九を参照してください。
第48話
時期:寛弘元年(1004)
藤原道長が法性寺の修理巡検を行う
→『御堂関白記』寛弘元年(1004)2月19日条を参照してください。安倍晴明が五龍祭を修したところ効験があり、禄を賜る
→『御堂関白記』寛弘元年(1004)7月14日条を参照してください。
第49話
時期:寛弘二年(1005)
第50話
時期:寛弘二年(1005)
安倍晴明 卒去
→『土御門家記録』を参照してください。
安倍晴明は寛弘二年(1005)9月26日にこの世を去ったとされています。
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