【小説】オリジナル・サンクチュアリ
窓の方から光が漏れている。買ってきたカーテンが少し短いのだ。その光は床を泳いで窓から少し離れた鉢植に被さっている。
少しして、左の方でアラームが鳴り始めた。iPhoneが光っている。2ループ目でアラームを止めた。
そういう朝だった。
私はここ最近アラームが鳴るより早く目を覚ます。早起きの習慣が付いてきているのだと思う。志望校に落ちて一年浪人生をやっていた間に生活習慣が乱れ切った私にとって、それは嬉しい事実だった。
私はベッドから降りてカーテンを開けた。陽の光に目が眩む。徐々に目が慣れてきて、人気のない先頭でY字に分かれる路地や標識や駐車場が見えた。何の面白みもないけど私にとっては新鮮で素敵に思える。
そういう感覚を忘れないでいたいなと思った。
灯りをつけて、冷蔵庫から牛乳を取り出してダイニングに置いて、棚から皿を出してそこにコーンフレークを注いで、牛乳を注いでテーブルに持っていった。ささっと食べて歯を磨く。化粧をする。
「悪目立ちしないように、それでいてお洒落には見えるように」と選んだ黒とグレーのドッキングワンピースに着替えてL.L.Beanのトートバッグを持ってコンバースのスニーカーを履いて、家を出て、戸締りをよく確認した。
万事問題なし。模範的な一日の始まりだ。
「人生初」と言うとなんだか仰々しい感じがするけれど、人生で初めて受けた大学のガイダンスはノートを取るほどでもない簡単なものだった。
「なんだこんなもんか」と呆気なく思うと共に少し安堵する。私だけが置いていかれる心配はなさそうだった。
ガイダンス終わりに席の近い人同士で話すみたいな空気になって、そのうちの何人かと大学用インスタでFFになった。私のインスタは投稿が全然ないからまずいかもと一瞬思ったが、みんな新しいアカウントでそんなこともなかった。
新しいバイトに向かう電車の中、DMで挨拶を済ませる。みんな感じの良い子だった。とある子にアカウントに設定した誕生日が本当か聞かれて「ほんとだよ」と返すと、「明日じゃん! お祝い言うね!」と返信が来た。
「そんなことわざわざしなくても良いのに」と思いつつ、そう言ってくれるのはすごく嬉しかった。
その最中、LINEが来ていた。バイト先からだ。開くと、「今日からなので忘れずにねー」とだけ入っていた。
こっちに越してきて初めてのバイトは居酒屋だ。私と一緒でこの春からオープンするらしく、その求人を偶然目にして連絡したらあっさり受かった、という具合だ。
半年も続かなかったけど一応マックのクルーをやってたことがあるのでお客さんの対応は何とかなると思う。しかし、人間関係はどうだろうか。
電車が止まった。駅の人混みを抜けて居酒屋まで歩く。居酒屋のドアには元気の良いフォントで「本日開店!」と張り紙がしてあった。少し緊張しながらドアを開ける。
店内には面接の時に会った店長さんがいた。他のバイトはまだみたいだった。「こんにちは、如月です」と挨拶する。
店長は一通りの作業を親切に説明してくれて、その間に他のバイトの人もやって来た。同じ学生が多かったこともあり開店前トークは結構盛り上がって、ここでもLINEを交換した。で、また誕生日のことを聞かれて、誕生日のお祝いをしてもらえることになった。
初日ということでお客さんは多かったけどジョッキをおぼんに高く積むみたいな特殊技能は要求されなくて、問題なく人を捌き切った。
バイト終わり、バイト仲間と店長に挨拶して店を出る。上手くやっていけそうな気がした。
居酒屋の外で、夜はすっかり更けている。春先の夜はまだ寒い。このワンピースで春の間は乗り切れると思ったけど、何か羽織れるものは持って来た方が良いかもしれない。
すっかり増えた人の間を縫うようにして繁華街から抜け出す。
ここから家までは歩いて行ける距離だ。人のいない方へと歩く。だんだんと人が減って住宅が増えて、やがてその数が逆転する。
住宅街。あるのは一軒家とアパートと標識と自動販売機。人の少ない道は歩きやすい。私は今日を振り返った。
初めて大学に行って友達ができて、バイトに行って友達ができた。平凡と言えばそれまでだけど、素敵な日だ。
明日もこうであって欲しいものだと願いながら道を歩くと、何だか変なものを見つけた。
歩いている道の先、横にあるもう一本の道と合流するあたりにバリケードのようなものが置いてある。何かの工事だろうか?
よく分からないので近づく。そして気付く。バリケードの正体は向こう側からガムテープか何かで補強されて壁のようになっている段ボールだった。一度平たくした段ボールを切れ端で作った三角の台で挟み込んで立たせているのだ。被災地とかで見るようなやつだ。高さは私の腰と肩の間くらいで、ちょっと跨げそうになかった。
向こう側にある街灯の灯りが段ボールに遮られて僅かなものになっている。完全に道を塞がれていた。どういうことだろう。工事をやるにしても段ボールで壁を作るなんてことをするはずがない。何か異常な事態が起こっている。
不可解に思いつつも家には帰らなきゃいけないので段ボールを倒してみることにした。一番右の端に行って力を入れる。ぴちっという向こう側のテープが剥がれる音が聞こえる。あと少しだろうと思ったので体重をかけた。その瞬間、押し返された。
突然の事態に困惑する。
声がした。
「辞めて。入って来ないで」
女の子の声だった。
さらに困惑する。この事態を引き起こしているのは女の子なのか。声の感じから察するに私より年下な中学生か高校生くらいだ。そんな少女が、何故。
「あの、私家がこの先で行けないんですけど……」
気が動転していて敬語で応対する。バイトをしていたせいもあるかもしれなかった。
「あれ? 意外と声が若い」
ガサゴソと向こう側で音がする。ペリペリとテープを剥がす音がして、左側の方で段ボールのドアが開いた。
不思議というのか異質というのか、そんな少女だった。どこか堂々とした空気を纏っている。そのせいで正確に分からないがやはり幼い。おそらく中学生くらいだ。
こういうファッションも地雷系というのだろうか。首元を守るようにハイネックが横へ広がっている白地に薄紫のラインが入ったパーカーを羽織って、頭にはフリルのない白いヘッドドレスを被っている。どちらも着古した感じで、首元が少しよれている。コスプレという感じではない。
血色感のない肌をしているなと思ったら化粧をしていた。白い下地を塗ってその上からパウダーを塗ったような感じだ。青色のアイシャドウを瞼と目の下に入れて垂れ目気味にアイラインを書いている。地雷系とはちょっと違うメイク。
黒い髪は相当長かった。バッテンの髪飾りをしている。髪の大部分は後ろでまとめているみたいだけど横髪はそのまま垂らしていて、それが腰のちょっと上くらいまである。その黒髪が段ボールのドアが漏れる光に反射して艶々と光っていた。
少女が首を傾け、鋭い目線をこちらに向けた。
「あなたは何歳?」
「え、19歳」
そう答えると、少女はにやりと笑って手招きし、段ボールの真ん中にあるドアを開けて中へ帰っていった。
私はというと、全く意味が分からなかった。しかし、私は吸い込まれるように彼女の後を追っていた。ノブも何もない、ただ切り込みを入れただけのドアを押し開ける。
そこは、段ボールで限られた空間だった。左を見ると、隣の道からの合流も阻止されている。中には周りを別のもので覆われているせいで役割を失ったガードレールがあって、電柱があって、自動販売機が一つあって、道路標識が一本立っていて、それら全てを街灯が照らしていた。全てがうっすらと白んでいた。
振り向くと、少女は段ボールを椅子にして座っていた。私を見てまた笑っている。上がった口角をそのままに口を開いた。
「ようこそ。オリジナル・サンクチュアリへ」
「オリジナル・サンクチュアリ?」
反射的に私はオウム返しをしていた。本当に見当もつかないとそうなるらしい。言ってからやっと思考する。バンドが何かの名前? それにしては、「ようこそ」と辻褄が合わない。
私は回答を待つことにした。
「そう。オリジナル・サンクチュアリ」
少女は足を組んだ。
「私ね、最近……と言っても春休み前だけど友達から推しの話をされたの。知らない実況者の人だった。それを聞いて私は『推しを私の中に侵入させないで欲しい』って思った。嫌だったの、流行りに巻き込まれていく感じが。推しとか聖地とかそんな物が世の中には蔓延り過ぎてる。私は自分の推すものだけで生きていきたい。だから、自分だけの場所を作ったの。私だけの聖地。ここでは、何もかもが私の思い通り。20歳以上は禁止。大人禁制。それが、オリジナル・サンクチュアリ」
長い喋りを終えて、少女は期待の眼差しで私を見て来た。こちらとしてはそう解説されても意味がわからない。大体私はバイトをしてお金を稼いでるし、明日誕生日だから19歳でいられるのは今日が最後だ。
どうしたものだろうと長考の末に「凄いね」と言った。その言葉に少女は不満げな顔をしている。
「その『凄い』は、どの『凄い』なの?」
「えーっと、まず段ボールだけでこんな空間をつくっちゃうのが凄いと思うし、『自分だけの聖地』っていう……概念も凄いと思った」
「そっか。なら良いや」
少女が立ち上がりぶらりと自動販売機に行く。何か買うのかと思いきやボタンをリズムよく押して楽しんでいるだけだった。
それを見て、彼女の言わんとすることがほんの少しだけ分かった気がした。こんな振る舞いは大人が、例えば親がいたらすぐに辞めさせられるだろう。友達と一緒にいても浮いてしまうから出来ないだろう。
だから彼女はこの場所を作って、彼女として振る舞っているのだ。それが良いことかどうかは別としてなんとなく素敵だと思った。
辺りには多めに持って来たが余ったと思しき段ボールがいくつかいくつか転がっている。そのうちの一つをひっくり返して椅子にして座った。段ボールが地面に擦れる音を聞いて少女が振り返る。
「もしかして、サンクチュアリで遊んでいく?」
隠そうとしているけれど、瞳は輝いていた。
「うん。少し遊んでいこうかな」
「サンクチュアリに来たのはあなたが初めてなの。あんまり遊ぶところもないけど楽しんで」
自販機の明かりが薄ぼんやりその横顔を照らしていた。平静に見えて、案外喜んでいそうだった。
「でも、もう夜遅いし今日は帰ろうと思う。えーっと……、あなたも。今帰らないと親御さんが心配するでしょ?」
「心配するかもね。でもいいの、お母さんは今日も他の人の家にいるし。それに、私の聖地には大人なんていらない。私を型に嵌めて、歪めて出荷しようとする人たち」
何か、相当拗らせている。親と揉めたのだろうか。家庭に問題がないかが少し心配になった。
ただ年頃だし「大人が嫌」という気分になるのはわかるから、現実的な方面から説得することにした。
「でも、夜泊まる場所ないでしょ? そしたら寒くない?」
すると、少女は右の方を指差した。指先に視線を沿わせる。
そこにあったのは、段ボール箱を縦に並べてその上に一枚の段ボールを敷いた避難所で見るような物だった。
「……まさか、これがベッド?」
少女が無言で首を縦に振る。
眩暈がした。それはいくら何でも問題がありすぎる。
「絶対寒いよ」
「大丈夫。私にはアルミホイルがあるから。巻いたら寒くない」
意外と知識の収集と準備はしているらしかった。確かにアルミホイルはアウトドアの防寒に良いと聞いたことがある。
しかし、そういう問題ではない。
「あのね、こんな普通に人が通るところで女の子が寝てるなんて危なすぎるの。しかもこんな時間だよ?」
少し強めの口調で言うと、少女が口を窄めてみるからに不服そうにした。
「何もわかってないね。ここは『人が通るところ』じゃなくて、もう私の聖地なの。気持ち悪い大人は入ってこれないし、安全なの」
完璧だとアピールするように少女が胸を張る。しかし、その時逆算するようにわかったのだが、彼女は元々が猫背なので胸を張ったところでさほど姿勢は変わらなかった。
ただ、私はその様子を見て「確かに」とも思った。段ボールで作られた彼女の言う聖地は交通法だとかそういうものには弱いだろうけど外敵からの侵入に弱いわけではない。こうして中にいるからこそその安心感がわかる。
「分かった。確かに完璧なプランかも」
すると、少女がふふんと笑う。
「ようやく分かった? 私の聖地は完璧なの。それじゃあ一緒に遊びましょ。お姉さんの名前は?」
「如月」
「如月ね。じゃあ、私のことは『ちゅありちゃん』って呼んで」
「……『ちゅあり』ってもしかしてサンクチュアリ?」
「そう。私はもうここから出ない。だから古い名前は捨てて新しい名前を作ったの」
「なんだか、仏教の戒名みたい。あの世の名前ってわけじゃないけど」
「かいみょう……?」
目の前の少女、ちゅありは困惑した様子で首を傾げた。戒名がわからなかったらしい。そういうところは年齢相応なのか、と思った。
そして辿り着く。ちゅありを一言で表すなら「ギャップ」だ。行動と年齢のギャップ。纏う堂々とした雰囲気と年相応のあどけなさ。
そんなことを考えているとちゅありに見つめられる。「なんか言え」って目をしている。
「まあ、戒名とかはいいとして。一緒に遊ぶんじゃなかったっけ? 何で遊ぶの?」
「自販機のボタンをポチポチして曲を作ったりかな」
あれか。流石にそれはやりたくない。
「……他のはない?」
「うーん。じゃあサンクチュアリの紹介でもしようかな。こっちこっち」
手招きされる。ちゅありは青白い光を放つ一台の自動販売機の側にいる。近くに行くと、ちゅありが背伸びして自動販売機の上の方を指差した。
「ここでは缶コーラ500mlが100円で売ってる。素敵でしょ? ボタンを押して遊ぶこともできるし、この聖地の要って感じかな」
ボタンを押して遊ぼうとは思わないが500mlコーラ100円は確かに魅力的だ。私は財布を取り出して2本コーラを買った。
一本をちゅありへ差し出す。ちゅありは最初困惑して、後からニヤッと笑って受け取った。
「ね? こうやって奢ったりもできる。みんなここに集まるだろうからバーみたいにだってなれるの。素敵でしょ? 如月、ありがとう」
ニヤッという笑顔はいつのまにかニコニコの笑みに変わっている。それを喜ぶ姿が素敵だと思った。
そのまま二人でコーラを飲んで、自販機のぼんやりした灯りの下で他愛のない事を喋っていた。その頃にはすっかりオリジナル・サンクチュアリを素敵なものだと思うようになっていた。
「あっ、あれも見て欲しい!」
ちゅありが顔をパッと上げながら言った。「ちょっと待ってて」と早足にどこかへ向かっていく。白いガードレールを迂回してアスファルトを進んで行って、段ボールの壁の側に置いてある使い古されたリュックサックをゴソゴソとやっている。やがて、ちゅありはご機嫌な足取りでこちらへやってきた。
「これ!」
ちゅありが手を差し出す。そこには、数珠繋ぎになった黒くて丸い石が乗っかっていた。
「これね、カンゴームっていうの。すごく強い力を持った石でね、魔除けの力を持ってて、災いを跳ね除けてくれるんだ。それに、綺麗でしょ?」
ちゅありは人差し指と親指で石を摘み上げ、自動販売機の光へ近づけた。真っ黒い石の自販機に近い側面が喫茶店で頼むモカのような焦茶色に変わる。自動販売機の弱い灯りだと茶色に変わるのはそれまでだった。
ちゅありとしてもその結果は不服だったようで口を横に結んで目を泳がせている。
だから言ってあげた。
「綺麗だね」
「ほんと?」
「うん」
宝石を撫でるように優しく、少女の頭を撫でた。
「じゃあ、そろそろ帰るね。くれぐれも低体温症には気を付けて」
「何そのアドバイス」
「あはは」
「また明日も来てね」
また明日。明日になったら、私は20歳になっている。そのことはとうとう言い出せなかった。
私は目を見て無言で頷いた。
それは言葉を発していないだけの、明確な嘘だった。
そしてちゅありに見送られ、薄ぼんやり明るいサンクチュアリを後にした。
朝。
カーテンから這い出る陽の光。それを糧に変える観葉植物。ベッド。鳴り出したアラーム。それを止める。平穏無事な朝。
iPhoneには、たくさんの通知が来ていた。一瞬戸惑った。しかし、その文面がどれも「誕生日おめでとう!」とか「お酒飲みに行こうね!」とかだったので、「そうだ、誕生日にメッセージを貰う約束をしてたっけ」と思い出した。
まだ暗い部屋で返信を打ち込む。こんなに多くの人から祝われたのは初めてかもしれない。この時期、小学校はまだギリギリ始まってなくて、いつも寂しい思いをしていたのだ。だからこそ、すごく嬉しかった。
心なしか浮かれ気味にベッドを飛び出してカーテンをパッと開ける。やっぱり陽の光に目が眩む。徐々に目が慣れてきて、いつものY字に分かれる路地や標識や駐車場が見えた。何の変哲もない光景だった。
何の変哲もない。変の象徴だった、あのサンクチュアリが先頭にない。角度的にここから見えるはずだ。
何かあったのだ。私は大急ぎで着替え、朝食も食べないまま家を出てY字路の方へ向かった。
ない。確かに昨日までここら一帯を封鎖していたはずの段ボールが一つ残らず無くなっている。道を進むと、ガードレールが見えた。そこにちゅありがもたれかかっていた。
「ちゅあり! 大丈夫? 怪我してない」
「……してない」
昨日の夜の堂々さとはかけ離れた絞り出すような、やつれた声だった。ますます心配になる。
「何があったの?」
「……昨日……大人に通報されて……。ケーサツに取り壊された。私も家に帰らなきゃいかなくなった」
ちゅありはそれだけ言うと腕で目を覆った。頭をガードレールの上において呆然としている。
かける言葉がなかった。何を言えると言うのだろう。それでも、何か励ましの言葉を言おうとした。
その時だった。
「かえでッ!」
遠くで、怒りのこもった叫び声がした。その方向を向くと、肩と胸周りを出した格好の茶髪の若い女性がいた。
ちゅありが手で顔を覆った。
「ママ……」
叫んだ女性がこちらへやってくる。ガードレールの私たちがいるところの反対側まで来てそこにもたれているちゅありの手を持ち上げ、無理やり起立させた。
「うあっ」
ちゅありがそんな声をあげる。
「ほら行くよ」
腕を引っ張られてガードレールをずりずりと引きずられ、ちゅありは手を引かれていった。
「あの、そんなに乱暴にしなくてもいいんじゃ……」
勇気を出してそう言った。
ちゅありの母親らしき女性がその声に応じて一瞬立ち止まって、少しみじろぎして、そのまま歩き出した。
ちゅありは、そのままどこかへ連れて行かれてしまった。
私はその場に立ち尽くした。そして、この場所が本当にあのサンクチュアリだったのかをもう一度疑った。大量の段ボールはどこにもなく、あの時の素敵な空間は単なる細くて灰色の路地に戻っている。
ふと、後ろを見た。そこには自動販売機があった。コーラが一缶500円で売っている。やはりここはサンクチュアリの跡地らしかった。買おうという気は起きない。私はもともと炭酸飲料がそんなに好きではないからだ。あの時コーラを買ったのは、サンクチュアリの空気に当てられた気まぐれだった。
そんな空気はどこにもない。
ちゅありもいない。
あの子はかえでと言うらしい。あの夜だけだったのだ。オリジナル・サンクチュアリとそこに住むちゅありが存在したのは。
思えば、ちゅありの連絡先は知らない。インスタから、LINEから、たくさん通知は来たけれど、彼女とやり取りすることは金輪際ないだろう。
私だけがオリジナル・サンクチュアリとちゅありのことを覚えている。だけどそれが何に影響するのだろう。
私には分からなかった。
とりあえず家に帰った。朝食を食べて化粧をして、家を出て大学へ向かった。
電車内、私は揺られる。そうして今日もまた、規範的に一日は始まったのだった。
了
追記
自分で作った楽曲版があるのでよければ聴いてください。
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