「神がなければ、全てが許されている」
僕の親は実存主義に影響を受けた世代でしたが、僕らはサルトルなどあまり読まなくても感性として「実存が本質に先立つ」という感覚をサブカルチャーなどを通じてカッコいいと刷り込まれていました。でも、その時代精神を経て日本は良い方向へ向かったでしょうか?
この視点から当時のロシアの状況と現代日本の状況は本質的に似たような課題を持っていると思います。
僕自身がそうでした。高校ぐらいの頃、今「ペスト」で話題になっているカミュの「異邦人」に強い共感を持ちました。それは「太陽のせい」で不条理によって殺人者となった主人公の感覚が自分に似ていて、自分も同じ運命をたどるかもしれないと不安に感じたからかもしれません。数年後、僕は持病が信仰によって助かった(と信じている)体験などを通じて唯心論へのパラダイム変換を経ました。それによって今まで疎遠だった実家の仏教や様々なスピリチャルな人、キリスト教関係者などとの共感を持てるようになりました。
もしこの意識変換がなかったら、最悪の場合「罪と罰」のラスコリーニコフのような犯罪を犯してしまったかもしれません。「カラマーゾフの兄弟」では主にイワンの正義感から発する無神論の考察を主軸に宗教組織の問題提起など展開するようにも感じられますが、フョードルもドミトリーもイワンも修道僧になったアリョーシャに深い愛情を持っている点が興味深いと思います。イワンの痛烈な批判の中に、宗教も含め21世紀の人類全体に与えられた課題が散りばめられていると私は捉えています。
これに関連して哲学者の梅原猛さんの「カラマーゾフの兄弟」についての発言を以下引用させていただきます。
【神がなければ、文明も道徳も存在しない】
カラマーゾフ家には三人の息子がいるんですが、その親父さんがフョードル。フョードルは地主で、いまの典型的な日本人みたいだな。世渡りがうまくて、出世して、金もうけが上手や。しかし宗教を信じてなくて、いろいろな女性と関係がある。
いまの日本で出世している人にも、そういう人が多いよ。やり手で、どっさりお金をもうけるけれども、どうも人品がいやしい。それでいろいろ悪いことをする。奥さん以外に女の人をつくる。それがフョードルです。
フョードルと奥さんの間には、三人の息子があるんです。ドミートリイとイワンとアリョーシャ。ドミートリイは、直情径行、素朴な性質を持っていて、うそをつかないけれども、衝動にかられたら何をするか分からない、という人間です。根は正直だけど、怒ると手がつけられない。そういう人は皆さんのなかにもいるでしょう。
次男がイワン。これは頭がいいんだ。哲学者です。いろいろ考えた結果、無神論者になる。神はない、神がなかったら道徳もないというのがイワンの結論です。そして三男がアリョーシャ。彼は、もって生まれた宗教的な人間。そういう人、ときどきいますね。心が美しくて、生まれながらに宗教性をもっていて、やさしくて、美少年。それがアリョーシャです。
フョードルという、しょうもない親父に三人の、親父よりずっとすぐれた息子が出た。
ところがフョードルにはもう一人、子どもがいるんです。フョードルはたいへん女の人が好きで、普通の人が近づこうとしない女乞食に子どもを生ませた。それがスメルジャコフです。スメルジャコフは本当はフョードルの息子ですが、フョードルの家の召使いになっている。
このようなカラマーゾフ家に突如として殺人事件が起こります。ある日、親父のフョードルが殺された。いったい誰が殺したんだろう。いちばん疑われたのは長男のドミートリイです。実はフョードルとドミートリイの間には、ある女の人をめぐって争いがあった。それでドミートリイが疑われる。
しかし本当は、殺したのはスメルジャコフでした。この召使いが、ちょうどこのとき癲癇をおこして(実はこれはスメルジャコフが殺して、癲癇というアリバイをつくったにちがいないんですが)ドミートリイが疑われる。この小説は一面は推理小説ですが、実は非常に思想的な小説です。
そのなかに、こんな話があるんです。フョードルと息子たちが暖炉にあたって酒を飲んでいる。フョードルは一杯機嫌で息子に、「どうだ息子たち。神さまはあるか。不死はあるか」と聞く。
ロシアの宗教はロシア正教というのですが、それはビザンチンすなわちイスタンプールにあった東ローマ帝国のキリスト教の伝統を引くものです。西欧のキリスト教は西ローマ帝国のキリスト教の伝統を引くものですが、キリスト教であることは変わりません。キリスト教の神学では、神の存在と、魂の不死を証明することがもっとも大切なこととなります。神がなかったらキリスト教がなりたたず、魂の不死がなかったら、人間が死んでのち天国へ行き、そこで生きながらえ、神の子のキリストが再びこの世に現れて、この世が神の国となる日にあうことはできません。
この二つがいちばん大事な、教義の中心ですね。神の存在と魂の不死。その問題をフョードルは話題にして、息子たちをからかっているんです。「神さまはあるものか。魂が不死なことがあるものか。人間は死んでしまえばおしまいじゃ。神さんなんてうそばかりや」とフョードルは思っていて、息子に聞いたんですよ。
次男のイワンはそれに対してこう答える。「神もありません。不死もありません」。フョードルは喜んでこう言います。「そうだろう。神の存在とか不死とか言って人をだました坊主どもを縛り首にしてやりたい」。
すると、イワンはこう答える。「しかしねえお父さん。神さまがなかったら文明というものはありません」。神というものがなかったら、文明というものはない。これは重要な発言です。人類の文明で、宗教のない文明はありません。人類はいろんな文明をこしらえてきたけれども、どのような文明でも、宗教が文明の基本になっている。これは近代までそうなんです。だから、神がなかったら文明というものはありません、というイワンの言葉は間違いないのです。
イワンは、「神がなかったら、道徳はない。道徳がなかったら、人間はなにをしてもいい」と考えているのです。宗教がなかったら、道徳もなくなる。道徳がなくなったら、なにをしてもいいんだ、というのがイワンの恐るべき結論です。
なにをしてもいいということは、親殺しをしてもかまわないんだ。人間の最大の罪は親殺しです。先日、小学校六年生の生徒がお母さんを殺したという事件があったでしょう。
人を殺すのは罪ですが、とりわけ親を殺すのは最大の罪でしょう。でも宗教がなくなったら、親殺しも許される。それがイワンの結論です。
フョードルには、イワンの答えの意味の深さがよく分かりませんでしたけれども、「それじゃアリョーシャ、おまえはどう思う」と問う。「神もあります。不死もあります」、そう三男のアリョーシャは答えるわけです。
【まだ救いの方向は明らかになっていない】
結局、イワンの思想が、「カラマーゾフの兄弟」という小説の中心になっているんです。
宗教がなかったら、神を信じなかったら、道徳もありえない。道徳がなかったら、なにをしてもよろしい。なにをしてもいいんなら、親を殺してもかまわない。
イワンはそういうふうに、親を殺してもかまわないという思想をもっていた。けれども親は殺せなかったんですが、その話を自分の腹違いの弟であるスメルジャコフにしたんです。スメルジャコフは女乞食の子どもですから、心のなかは親に対する恨みにこり固まっている。だからイワンの話を聞いて、スメルジャコフがフョードルを殺したんですよ。
母が女乞食で、自分は本当の息子だけど息子らしい扱いをうけてない。スメルジャコフは親のフョードルに対して、そういう恨みを持っている。恨みを持っているから親を殺した。しかもスメルジャコフは、「これはイワンの思想である」と考えて、「イワンの許可を得た」と思って親を殺すんです。
この事件があらわになりまして、さっき言いましたように、長男のドミートリイが疑われます。しかしイワンは、それはスメルジャコフがやったものであることを知って大いに悩み、ノイローゼになる。そこで「カラマーゾフの兄弟」は終わっています。
西洋ではイマヌエル・カントという哲学者がいまして、彼は宗教なしに道徳を自立させようとした。それで道徳律、道徳の規則をたてた。規則をつくって人間をきびしく律しようとしたのですが、どうもそれは無理なようです。いまの人間は、カントのいう道徳律で自分を規制する力を失って、欲望に忠実に生き、フョードルみたいになっている。
テレビに出てくる、いま日本で活躍している人たちの顔を見ると、フョードルのような顔をしている人が多い。そんなことをいったら叱られますが、フョードルが現代人の象徴であるような気がします。ドストエフスキーは、親殺しも許されるというイワンの思想を近代の帰結と考えている。しかし、それではいけない。そういう近代の帰結を超えた新しい文明の方向を示すのがアリョーシャです。
ドストエフスキーの、この「カラマーゾフの兄弟」は未完に終わりました。ドストエフスキーはアリョーシャを中心にこの小説を完結させたいと思っていたようですが、それはついに書かれなかった。
私はそのことが、現代の精神を象徴していると思うんです。いま、近代の帰結は見えているけれども、まだ救いの方向は明らかになっていない。そういうことをドストエフスキーは言おうとしているに違いない、と私は思います。たしかに西洋の道徳は、ほとんどはキリスト教が培ったものです。キリスト教の道徳は立派な道徳で、キリスト教から自由になったという近代道徳すらも、キリスト教が培ったものです。キリスト教の信仰が失われるとき、その培った道徳も危なくなる。
私が京大の学生であったころ、西洋からすぐれた神学者が来て話をしたことがあります。
その場に花が生けてあったんですが、その神学者は、現代の道徳はちょうどこの生け花のようなものだ、と言った。宗教という根があれば花は咲きつづけるけれども、宗教という根がなかったら、花はやがて枯れてしまう。彼はそう言いましたが、たしかにそうなんで、いま現代日本は、近代化することによって、日本の伝統的な仏教や儒教といった宗教を失ってしまった。かといってキリスト教を受け入れたわけではない。韓国などと比べて、キリスト教信者はずっと少ないんです。われわれは宗教を失った時代に生きている。宗教を失ってもいいんですが、心配なのは、それによって道徳も失っているんじゃないか、ということです。ドストエフスキーが言ったように、神を信じなかったら、道徳はなくなる。
道徳がなかったらなにをしてもよい、という時代に入っているんじゃないかと私は思うんです。
(朝日新聞社 「梅原猛の授業 仏教」より)
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