大きな物語と、小さな物語。人間の心を知るために。
いままで人の心を理解したくて、勉強してきた。
本もたくさん読んだ。
どうやったら「人のこころ」「人のしあわせ」を理解できるだろうかと考えた。
ひとつの方向からでは見えなさそうだったから、
いろんな角度から眺めてみた。
もちろん、そんなものは未だに見つからない。
簡単に見つかる訳がない。
とはいえ、考えたくなるのが私の性でもある。
いうちゃなんだが、私はそこそこ利口だと思う。
どちらかというと、論理的と言われるタイプの人間だと思う。
そこそこ名の通った大学で、理系として大学院まで進学したし、
ちょっとお堅い学術書のほうが好きだし、
何かがあったらすぐ論文を読みたいと思うタイプ。
ところが、家に引き篭もる日々が続き、
なにかの歯車が噛み合わなくなった。
いままで高速道路を走るように走ってきたわたしが、
急にノロノロ運転になって、
私自身の抱える問題を無視できないようになった。
何かの歪みが、顕在化してきた。
一言でいうと、病んだ。
思えば私は、自分の心に蓋をしてきたように思う。
いままで感情は邪魔だと思っていた。
ロボットのように効率的に動ければいいのにと思っていた。
説明のつかない感情は矛盾だとみなし、
いつか解かなければいけない課題であるとしていた。
でもこの整合性の取れない歪みを歪みとして知りたい好奇心が勝った。
あるとき、自分の心の闇の箱を開けてしまった。
有象無象の化け物たちが襲いかかってくる。
自分でコントロールが効かなくなる。
困った。
そんなはずでは。
考えれば考えるほど、ドツボにはまるものらしい。
そんな時に私に新しい扉を開いてくれたのは、
「個別具体の、小さな物語」だった。
まず、カウンセリングをうけた。
自分という個別具体の物語を紡いだ。
そして日記を書いた。
日記を書くワークショップに参加した。
私の書く日記なんて誰が読むの?と思いながら、
ワークショップの課題で、冊子にして展示した。
この2つの体験で学んだことは、
正解不正解じゃない、自分の心に浮かんだものを、言葉にすること。
入試の小論文みたいに、誰かに評価されることはない。
仕事で書く文章みたいに、何かを正確に伝える必要もない。
はじめはソワソワした。だって正解がないのだから。
正解を求めることすらナンセンスだなんて。
何を目指しているの?どうしたらいいの?
わからないままに、書き続ける。
そして、わかったことがある。
どうやら「小さな物語」が、心の何かを支えているらしい。
科学的に取り扱おうと思ったら、ビジネス的に考えたら、
あまりにもちっぽけすぎて吹き飛んでしまうかもしれない。
そんな「小さな物語」たち。
役に立つ、役に立たない、そんな話はここではナンセンスだ。
ひとはそれぞれに、自分から見える世界で生きる。
自分の認知の世界で生きる。
だからいま何かに苦しく思っているのなら、
自分の物語をつむぎなおすことなのだと思う。
もちろんその過程は容易ではなく、
「いうは易し行うは難し」なことが山ほどあるのだけれど。
それでもひとつずつ、自分の心と対話を続ける。
そうすると今まで無意味とすら思っていた、
この世に溢れる小さな物語たちが、
急に大切に思えてきた。
映画、小説、エッセイ、
そしていろんな人の個人的な話。
ほかの人が紡ぐ物語をみて、
ああ、こうやって紡いでいけばいいのねと、
私の物語も少しずつ紡がれ始める。
もちろん私は科学を好む人間だし、
抽象的な議論は今でも好きだ。
でもそれだけでは立ち行かない世界があることを知って、
大切な「小さな物語」を見つけた。
そして見つけたPodcast「超相対性理論」
抽象と具体を行き来しながらの議論が心地よい。
これから私の世界は、どんな変化を見せてくれるだろう。
〜お知らせ〜
近日中に、日記を販売し、学生時代からの友人とPodcastを始めることになりました。小さな物語をとおした、私の人生の自由研究。
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