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心配されない人:誰も助けてくれないから、自分でどうにかするしかない、のか。

 きっかけは、ほんとうに些細なことだった。たいしたことのない、業務上でうまく進まない事務処理の連絡。そのメールを受け取った瞬間から、ざわざわ、くらくら、立ち眩み。やばい、オフィスで倒れた。立とうと思ったら身体に力が入らなくなって、デスクの横でぺたりと座り込んでしまった。

 引き金となったメールは、本当に大したことのない内容だった。でも仕事もプライベートも、ストレスとプレッシャーが押し寄せていたのか。なみなみに注がれたコップに、最後の一滴が落ちた瞬間、水が溢れてしまったような、そんな状態。

 かろうじて右手で椅子に手をかけて上体を起こす。こんなことある?動揺がとまらない。リモートワークが推奨されているオフィスには、ほとんど人がいない。いる人はみんな違う部署の人で、少し離れている場所に数名。

 誰にも気が付かれないまま、ぼーっと過ごす。見つけて誰かに心配してほしい気持ちと、メンタル不調がばれて評価に傷をつけたくない気持ちの葛藤。

 じっとしてたら、すこしずつ力が戻ってきた。思考もだんだん戻ってきた。今日の打ち合わせまではなんとかこなそう。元気を出すために甘いコーヒーを買いに行こう。糖分と脂質とカフェイン。今はドーピングが必要。社会人として、信頼に足るしっかりした人だというイメージを崩したくない。どうにか今を乗り切ったら週末は休める。

 とりあえず今日の打ち合わせはなんとかこなそう。それにしても力が出ないので、場所を移動して座り心地のよい椅子で休憩。ちょっとだけ仮眠をとって、自席にもどろうとするも、また体に力が入らなくなる。また床に座り込む。どうしよう。

 本当にメンタルがダメな時は体が動かなくなるというけれど、まさか自分の身に降りかかるとは思わなかった。引き金になったメールが些細なことだったのも不意打ちだった。あぁ本当にこんなことがあるんだなと、どこか客観的に自分を観察している自分もいる。

 オフィスでひとり床に座り込む。誰も私に気がつかない。誰にも心配されないから、自分ひとりでどうにかするしかない。悲しいけれど、それが私の生き方なのかもしれない。いままでも、そうやって自分でなんとかしている気がする。

 「元気だね」「つよいね」とよく言われる。同僚や上司からは「どんなに大変なときでも、前向きに取り組む」と評価されていた。そういえばギリギリのときも「もう大変です〜嵐のようです!やばい!!」と冗談まじりに明るく騒いでしまっている。
 だからいままでも大変なときは大変だと周りに言うようにしていたけれど、まだ頑張れると思われているのかもしれない。しかも自分が多少無理してでも頑張ったらどうにかなる、という変な成功体験も抱えている。

 ポジティブに前向きに諦めずに取り組む。それは私の良いところでもあるのだけれど、同時に自分の首を締めている。

 もうだめだ、自分はできない、弱い、なんて、自分で認めるのに抵抗もあるのかもしれない。というか、もうダメですと周りに言って、助けてもらえてどうにかなった記憶があんまりない。足元をすくわれるか、周りの良かれとおもった善意が私の状況をさらに悪化させたり、言い訳をするんじゃないと責められたり。

 だから、もうだめだ、助けてほしい、と素直に言える人がうらやましい。そんな人はきっとどこかで、助けを求めたら誰かが助けてくれること、たとえ具体的に何か助けてもらえなかったとしても、すくなくとも弱った気持ちを誰かが受け止めてくれることを、心の奥底で信じているんだろう。私にはそんなふうに見える。自分は弱いと言えるひとのほうが、実のところ、しなやかな強さがあると思う。いいな、ちょっとずるい、とすら思う。

だから弱く見える人のほうが実はしなやかで強くて、強く見えるひとのほうが本当は脆くて弱いのかもしれない。

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 いろいろ考えながら床に座り込んだままボーッとしていたら、つかまり立ちできるくらいには力が戻ってきた。なんとかオフィスチェアに深く座り直す。
 私が倒れて業務が進まなくなるのが、みんなもどうすればよいか困るだろう。誰かに今の状況は共有しておいて、本当に私が倒れても多少はどうにか回る状況をつくろう。でも一体、なにをどう頼ればよいのだろう。いま上司は長期休暇だし。まず同僚に振れる仕事は振ろう。あと明日は大切な外部との打ち合わせ1件のほかはキャンセルしようか。

 月に一回のチームミーテイング。在宅勤務になって一年半が過ぎた。私のチームは出社する人が少なくて、顔を合わせることがほとんどない。しかもみんなバラバラの仕事を個人プレーでこなしているから、この打ち合わせがないと皆が何をしているのか分からない。
 いつもより5分はやめに会議URLにアクセスしてみる。おなじく少し早めにアクセスしている先輩がいた。最近めっきりりと雑談が減った。私は誰かとの会話を、強く欲していた。
「久しぶり〜最近元気?」
「元気じゃないですよ〜ローンチ直前で、毎日が嵐のようです」
 いつものように明るく、でも私が出せるギリギリのSOSを発信する。
「え〜元気じゃないの?」
 なんて話をしていたら、時間になって続々とチームメンバーも会議に参加する。

 いつもの淡々とした業務報告が進む打ち合わせ。でも私の業務報告パートで、流れが変わった。元気じゃないという私が、あまりに珍しかったのだろうか。 今日もハキハキと、でも止まらない早口で業務進捗を次から次へ報告する私に、みんなが異常な空気を感じ取ったのだろうか。みんな心配し、無理しないように、こんなことなら出来るから頼っていいよ、と口々に言ってくれる。

 思った以上に心配されてしまい、むしろ私は戸惑った。

「こういうときは予期せぬトラブルがあるものだから、そういうものだから無理しないように」
 マネージャーからのひとことは、ずばりどんぴしゃ。頭では分かっていたけれど、いざ他のひとからも言ってもらえると、心にもストンと落ちる。自分の状況に、客観的なお墨付きをもらうことによる安堵感。

 すべての打ち合わせが終わった夜、チームの仲のいい先輩に助けを求めて電話。何かできることがあったらやるよと言ってくれたので、お言葉に甘えて、まず何を助けてもらえるか切り出しかたから相談をする。気がついたら先輩ががっつりサポートに入ってくれることになった。混沌とした案件をみると逆に燃えるらしい。ありがとうございますの気持ちと、申し訳なさと、不甲斐なさの混じった気持ち。仕事できなくて不甲斐ないですといったら、いやいやそういうレベルのものじゃないし、こんなに業務量抱えてたらそりゃパンクするよと、受け止めてくれた。私も頑張ったな・・・このタイミングで助けを求めることができた自分を褒めよう。そして先輩の手を借りよう。

 ということでメンタルはぎりぎりだったのだけれど、ギリギリのところで救われた。助かった。文字通り、命拾いした。SOSを発信して、本当によかった。


 もちろん過去の、助けを求めても助けてもらえなかった、悲しさと虚しさはまだあるけれど。こうやってひとつずつ、誰かに助けてもらって良かったなって体験を積み重ねて、いつか私はもっと自然と人を頼れるようになるのかもしれない。
 恵まれない家庭環境も、過酷だった学校も、子どもの自分にはどうしようもできないことも多かった。大人になったいま、おぼつかないながら自分の足で歩くようになって、あのとき得たかったものを、すこしずつ取り戻しているのかもしれない。
 ひとりで頑張ってきた自分を認めよう。幼き自分に、頑張ったねと心からねぎらおう。でももうだいじょうぶ、これからは周りの人に助けをもとめてもいいから。十分に頑張っている自分を認めよう。

 まずはちょっと話してみる。心から漏れ出る気持ちを言葉にしてみる。そこからはじまる大きな変化があるかもしれない。そんなふうに感じた、私の記念すべき小さな1歩だった。

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