バイプレーヤー~大杉漣の思い出~

 私はずっと田舎の古びた木造校舎で学んだ。このため、高校の教室を見ても、あまり進学したという感動はなかった。高校は建て替え工事が進められていて、新米の1年生には古い木造校舎があてがわれた。

 ◇食傷
 下宿は高校のすぐ前だった。月に一度、家に帰るかどうかだった。
 なぜ、彼の名前を憶えていたかと言うと、汽車の乗り換え案内で、いつも「大杉方面云々」とアナウンスされていたからだ。
「ここでも、大杉かよ」
 と、終着駅が近づくたびに、思っていた。

 ◇断片
 ロングホームルームの時間にミーティングしていると、大杉は大きな鼻を鳴らしながら、熱心に耳を傾けていた。あと、サッカーをしていたような気もする。
 私は病気のために高校を1年休学した。1周遅れになっていなければ、もっと思い出があったに違いない。

 ◇忘却
 6年前、鍼灸の勉強会の後、仲間と飲んでいた。視覚障害者としていろいろな活動に携わっている者がいて
「明日、大杉漣のインタビューに行くんですよ」
 と、言う。クラスメイトだったことを話した。
 取材で、大杉に私の話を振ったところ
「50年も前のことだから、覚えてないなあ」
 と、いうことだったらしい。
 大杉は責められない。私にしても、うんざりするほど名前を聞かされていたから、忘れなかっただけにすぎない。

 ◇狭間(はざま)
 大杉は『村の写真集』(2004年 三原光尋監督・脚本)に出演し、相変わらず渋い役をこなした。映画の舞台は徳島県最西部。見覚えのある風景のオンパレードだ。撮影時期と私のUターン時期が重なっていたら、再会を果たすことができただろうに。
 2018年2月、突然の訃報が日本中を駆け巡った。66歳だった。不世出のバイプレーヤー(名脇役)の死を、多くの人が悼んだ。
 大杉を思い出すたびに、ワックスがけした木造校舎の匂いが蘇る。我々は時代の変わり目を生きていたのかもな。

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