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代償 ~あるいは幻の地方創生~



 §1 街道今昔

 
 なぜ、学校に鎌などを持って行ったのか、60年も前のことなので、すっかり忘れてしまった。学校行事として、通学路の草刈りでもしたのだろうか。

 下校時、山道の脇に植えられていた杉の若木を、鎌で伐ってしまった。幹の先端が切られていた。

 隆がやったのか、それともほかの子供がやったのか。これも定かではない。

 年々、杉は育った。難を逃れた杉は上へ上へと伸びていく。先を伐られたものは、多くの枝が横に張り出す。いくら生育しても、木材としては使い物にならないことは、子供たちにも分かった。

 隆は登下校時、その杉を見るたびに、心が痛んだ。
 杉は身近にあった。どの杉も春先に枝に触れると、黄色い粉が飛散した。  
 子供たちは面白がって、枝を叩いたり、揺すったりした。もちろん、くしゃみをしたり、目を腫らしたりするような子はいなかった。

 隆の生まれた村は、四国の中央部にある。
 暴れ川として名高かった「四国三郎」吉野川。支流・祖谷(いや)川には、松尾川を初めとして大小の川や谷が注ぎ込む。そのひとつ、千足(せんぞく)谷の南北に家々が点在していた。

 祖谷川の川音を聞きながら、なだらかな山道をしばらく登ると、大きく右折する。代わって、ゴーゴーという千足谷の渓流の音が耳に入る。
 やがて目の前に、集落が広がる。
 家々は山肌にへばりつくように建てられ、周囲に畑が拓かれていた。千足谷の中流域には水田もあり、稲作が行われていた。

 ひっそりとした仙境のような村だった。だが、千足村は人々が往来した時代が、長く続いた。

 祖谷川と吉野川の合流地点から、祖谷川の西岸に街道が抜かれ、千足村の奥を経て、秘境・祖谷地方へと通じていた。

 この街道は一九二〇年(大正九)祖谷川沿いに延長五一キロに及ぶ「祖谷街道」が開通することによって、歴史的使命を終える。
 村の奥の道が「馬道」と呼ばれていたことを聞かされて、隆は育った。人馬が通行した名残りである。

 §2 国土緑化


 隆が子供の頃には、街道跡は山仕事に行く樵(きこり)や炭焼きなどが利用するくらいであった。
 千足村から先は、広大な森林地帯だった。伐採と植栽が繰り返されてきたところは、あるいは鬱蒼(うっぞう)とした杉林となり、あるいは杉の幼木が育っていた。しかし、多くの天然林は手つかずのまま。村人は小屋掛けをして炭焼き窯(がま)を設け、樫やクヌギなどを伐採・集材して炭を焼いた。

 隆の長兄もその一人だった。隆が中学にあがり、腕力が付いてくると、よく手伝いをさせられたものだった。

 長兄が適当な長さに切った木を、小屋の近くに集めるのが隆の仕事だった。朝から夕方まで、単調な作業が続いた。窯に木を並べる日には人手が足りず、村の衆に応援を依頼していた。ふだんと違い、小屋は賑やかだった。

 炭焼きは契約した一帯の天然林がなくなると、新たな地に移動した。こうして、次第に山はハゲ山になっていった。

 次は植林だった。

 村総出で、苗木を山奥まで運んだことがあった。隆は小学校の高学年になり、苗木を背負って山道を登った記憶がある。杉の苗木だった。植林には補助金も出され、およそ不適な崖っぷちなどにも苗木が植えられた。

 日本中が「国土緑化」に血眼になっていた。
 これには理由があった。空襲で焼失した家屋の再建に、大量の材木を必要としていた。さらに高度経済成長期に入り、各種の木材需要が増大、伐採と植栽が急務となった。

 小学生までが杉の苗木を運ぶ——こんな光景が全国でも珍しいものでなくなっていたことは、想像に難くない。

 一方、父親はあちこちに出かけて、森林の下草刈りや枝打ちなどを熱心に行っていた。
 隆が大学に進み、夏休みに帰省して父親の山仕事に同行したことがあった。そこは千足村の向こう山の山頂に近かった。指呼(しこ)の間のようでも、往復するだけで三時間近く掛かった。父は倦まず通い、細心の手入れにより、見事な杉林が育っていた。

 長兄は焼いた炭を、山奥から張られた何本かの架線を利用して搬出した。途中の中継地には、共同で建てられた小屋もあった。搬出作業にも隆が駆り出されたことがあった。

 千足村の中央にも一本、架線が張られていた。村の奥、街道跡から集落の入り口に架けられ、そこを中継地点にして対岸の祖谷街道に荷物を運んでいた。

 炭俵などが空中を移動する様は痛快だった。背負って歩くと三〇分は要するところを、ほんの十秒あまりで運ぶことができた。
 林業に携わる若い山師が、この魔力に取りつかれた。仲間が止めるのも聞かず、その山師は滑車に体を結わい、陸地を離れてしまった。
 スピードが乗ってくると、猛烈な力が加わる。数瞬後、山師は、千足谷へと落下していった。若妻の嘆きようは人々の涙を誘わずにおかなかった、と言われていた。
 この出来事はしかし、すぐに村人の口にのぼらなくなった。忘れようと努めたのである。

 架線で転落死した山師はともかくとして、林業は危険と背中合わせだった。近所には山仕事で片足を失った人もいた。

 ある日、長兄が山仕事から帰るなり、神棚に燈明をあげていた。
 長兄の不注意で、斜面の下方にいた仲間に木材が直撃しそうになったとのことだった。大事故につながる。長兄は「ご先祖様が護ってくれた」と神妙だった。

 §3 村社会

 
 たいていの家が林業と農業の兼業だった。
 家の周囲に作物を植えた。大家族の割に、収穫量が少なかったこともあり、傾斜地に鍬を入れ、遠く離れた山の中腹まで田畑を広げた。段々畑、棚田である。

 手っ取り早く現金収入になるものは、炭焼きのほか林業の日庸(ひよう)くらいだった。農業では換金作物として徳島藩伝統の煙草が栽培された。

 ほとんどの家が肉牛を飼っていた。子牛から育て、成長すると市場に出す。当日、牛は鳴いた。別れを惜しんだのか、行く末を悲しんだのか。いずれにしても、哀れでならなかった。

 牛は農耕にも使われ、春になると、荒い息を吐きながら田んぼを掘り返していた。その後はきれいに耕され、水が張られて田植えの季節を迎える。


 田植えも共同作業だった。何軒かで組を作り、順に植えていく。
 当日、膝下まで浸かって横一列に並ぶと、左右の畔(あぜ)から、等間隔に印が付けられた長い縄が渡される。縄の前に、束になった苗が投げ入れられ、一斉に田植えが始まる。

 日本の農村に古くから伝わる風物詩だった。豊作を祈り、田の神を祀って歌い、舞った田楽は、ここから発祥した。

 大人たちは一糸乱れぬ動作で、リズミカルに苗を植えていく。ひょうきん者が皆を笑わせ、めでたい田植えを盛り上げた。
 大人以上に、子供たちの気持ちは高揚していた。夜には、その家に呼ばれて、ご馳走が振る舞われるからだ。
 夕餉(ゆうげ)の時刻になると、提灯に灯をともして三々五々、村人が集まる。大人に混じり、お膳の前に正座する子供たちの姿があった。
 母親の実家の田植えを含めて、隆は四軒に招かれた覚えがある。

 田植えが終わった翌日、学校から帰ると、泥が沈殿して澄んだ水面に、五月の真っ青な空が写っている。整然と植えられた苗の淡い緑が映え、そのコントラストに隆は思わず足を止めていた。

 村人は明るかった。集まると、たわいもない冗談をよく言っていた。
 夏には庭に床几(しょうぎ)を出し、蚊遣りを焚きながら大きな渋団扇(しぶうちわ)を手に、夕涼みをした。村人が通りかかると
「まあ、休んで行きなはれ」
 と、誘った。
 ここでも世間話に花が咲いた。
 隆は聞き耳を立てていた。まるで、大人社会をのぞき見している心持ちだった。

 §4 得たもの・失ったもの


 いつの頃からか、こうした風習は途絶えた。都会へ出稼ぎに行く者が増えてきたのである。
 人口の減少と裏腹に、村は豊かになっていった。毎月、仕送りが届く。テレビが普及し、扇風機や冷蔵庫、洗濯機なども競って購入された。

 それまでの農耕牛に代わって、小型の耕運機が導入され、農作業は楽になった。農薬も強力なものが出回り、生産性は上がった。

 田畑から害虫は激減した。気が付くと、ヘビやカエル、ドジョウ、タニシ、トンボや蝶なども歩調を合わせて、視界から消えていた。

 ホタルも見かけなくなった。小学生の頃はいながらにして蛍狩りができた。田んぼや泉の上で浮遊する光。時には家の中まで迷い込んでいたものが、すっかり遠い存在になっていた。

 家の奥の野山は、幼い隆にとってワンダーランドだった。
 隆が小学校低学年の夏休み。朝起きると、虫かごを手に近くの林へ行くのが日課だった。
 クヌギの幹を蹴ると、バサバサとクワガタやカブトムシが落ちてきた。その中で、形の良いものだけを虫かごに入れた。

 クヌギ林の奥にはいろいろな種類の木が生えていた。それらの木の実を求めて、ウサギやタヌキ、リス、雉(きじ)、山鳥などが集まる。隆は獣道にくくりワナを仕掛け、ウサギと山鳥を獲ったことがあった。
 また、幼い頃、叢(くさむら)で雉の巣を発見し、雛(ひな)を持ち帰った。雛たちは庭で放し飼いにされ、仲良くエサをついばんでいた。分身のように可愛がったが、生育したかどうかは不明である。

 しかし、ここにも田畑同様、変化の波は押し寄せていた。
 クヌギに群らがる昆虫や蛾、蝶、蜂などが、目に見えて減ってきたのだ。ことさら寂しいとも思わなかった。子供は概して気まぐれだ。学年が進むにつれ、小動物に対する関心は薄れてきていた。

 §5 悠久の流れ


 隆の家は村の最奥部にあった。水田の水や生活用水は、さらに奥の小さな渓から引いていた。
 一年中、水が涸(か)れることなく、しかも冷たくて美味(おい)しい水が流れていた。天然のワサビが繁茂し、父親が静岡にワサビ田の視察に出かけたこともあった。事業化を考えていたのである。

 千足谷も多くの村人に恩恵をもたらしていた。水量の豊富な中流域では広い田んぼが作られ、ちょっとした水田地帯となっていた。

 ほかの家でも、飲み水は千足谷に頼るまでもなく、あちこちに小さな渓や湧き水があった。
 水を引くのに、竹を二つに割り、節を抜いて繋げたものを使った。そのため、木の葉などがよく詰まった。水が来なくなると、子供の出番だった。「隆、早う行って見てこい」
 父親は決まって、隆にそう声をかけた。

 通学は祖谷川と松尾川を越え、片道四〇分くらい歩いた。隆の場合は千足谷の土橋を渡らなければならず、欄干がないために気が抜けなかった。

 小学校の低学年の頃、下校途中で幼馴染みと千足谷に降りて、よく道草をした。

 隆は初夏の千足谷が好きだった。風が草花の香りを運んでくる。岸にはネコヤナギがかすかに風に震える。聴こえるのは、サラサラと行く水音だけだった。
 そっと近づくと、ムツゴやカワエビが素早く姿を消す。岩に吸い付いたジンゾク(カワヨシノボリ)は落ち着き払っていた。

 中学生になると、千足谷につけ針をした。
 タコ糸に針を結び、先にミミズを刺しておくという簡単な仕掛けだった。夕方、中流から祖谷川まで浸けて歩き、早朝に回収する。たいてい二、三匹のウナギが獲れた。

 千足谷はまた、子供たちに天然のプールを提供していた。
 中流の流れが緩やかな場所では、谷をせき止めてもらって遊ぶ、幼い子も見受けられた。

上級生になると、子供たちは上流の滝つぼに遊び場を移した。

 滝は二〇メートルほどの落差があり、幅一〇メートル弱、奥行き二メートル余、深さ一・三メートルほどの滝つぼを作っていた。
 これだけの岩を穿つには、気が遠くなるような年月を要したものと思われた。また、滝つぼの幅からして、当時より何倍もの水量があったはずだ。谷の水は、鋭角のV字に山を削った。滝の北側の絶壁は人を寄せ付けていなかった。

 厳しい自然の営みが残した滝つぼだが、夏は子供たちの歓声が溢れた。盆が過ぎると、水温が急に冷たく感じられるようになる。
 やがて落葉が水面に漂い、周囲の山々が冠雪する。千足谷に沈黙の季節が訪れる。滝は凍り、中流域でも流れは氷に閉ざされる。

 村で動いているのは、空を行く鳥くらいだった。

 §6 転変


 隆は一五まで千足村で過ごした。
 中学を卒業後、高校進学のため徳島市内に下宿した。確か、一八の年に長兄は兄嫁を、出稼ぎ先の和歌山に呼び寄せた。
 隆の足は千足村から遠のき、年老いた両親だけがひっそり暮らしていた。

 山野に分け入り、宅地を造成して田畑を開墾したのは祖父だった。
 明治の終わり頃、同じ千足村から婿養子にきた。その祖父も隆が二三の時、千足村で生涯を終えた。九四歳だった。

            ◆

 隆の齢三〇が近くなり、両親は結婚を急(せ)かせるようになった。
 母親が親交のあった村人に相談すると
「うちの嫁の妹に年ごろのがおる」
 ということだった。

 隆は見合結婚した。待望の孫の顔を見て、両親は幸せの絶頂にあった。しかし、母親は急に衰えが目立ってきた。
 検査を受け、病魔に蝕まれていることが判明した。母親は病院に入院した。
 隆の妻は一歳の長男を連れて両親の世話をしに帰った。隆も一度、母親を見舞ったことがあったが、一九八四年(昭和五九)七月、東京で母親の訃報を聞いた。

 隆は取る物も取り敢えず、千足村に駆け付けた。一人になった父は葬儀の後、長男夫婦のもとに身を寄せた。七三歳と平均寿命に満たなかった母に比べ、父は九四まで生きた。

 生家が空き家となり、隆は帰省すると、義姉の家に滞在した。たいてい一泊だけのあわただしい日程だった。

 義姉宅の真向かいに隆の生家跡が見える。眼下には千足谷が流れている、はずだった。ところが、目に入るのはコンクリートの巨大な堰堤(えんてい)。いわゆる、砂防ダムだった。

 最近、この砂防堰堤は母親が亡くなった年に建設されていたことが、分かった。

 戦後、国を挙げて植林した杉が四〇年ほどの間に、成木となっていた。その一方で、外国産木材の輸入自由化が拡大され、八〇年(昭和五五)をピークに国産木材価格は低迷、林業従事者の減少と相まって、大半の森林が手入れされないまま放置されることとなった。

 杉に限って見れば、下草が刈られることがないと、地表は荒れ、生物は生育しにくい。間伐や枝打ちがされない人口林では、地表に太陽光は届かず、土地の荒廃に拍車がかかる。クヌギや樫などの落葉広葉樹なら落ち葉が雨水を蓄え、地下深く浸透させるが、荒れた杉林に降った雨は地中に浸透することなく地表を流れ下る。

 近年の異常気象による集中豪雨は、全国各地で土砂災害を引き起こすようになった。とりわけ、濁流に乗って民家や橋を襲う流木は、もはや凶器でしかない。

 砂防堰堤は頻発する土砂災害への対応策として建設が進められたものである。千足谷では二〇〇六年(平成一八)、少し上流にも砂防堰堤が増設されている。

 甚大な被害をもたらす集中豪雨の裏で、当然のことながら、渇水も進んでいた。この二つは表裏一体である。

 地中深く染みた雨水や雪解け水は、何年あるいは何十年か後に湧き水となって再び地表に出てくる。荒れた山地では、この保水機能も著しく低下している。
 千足村においても、いたるところにあった湧き水を、あまり見かけなくなった。千足谷の供給源が涸れてきたのである。
 千足谷の恩恵に最も浴してきた中流域では、今や大部分を堰堤に堆積した土砂が覆う。かつての流れは伏流水となり、谷の片りんさえ留めていなかった。

 §7 血族

 
 生家はすでに朽ち果てている。義姉の家に泊まると、村は静まり返っていた。往時には二一軒、一五〇人前後だったものが、三軒、七人となった。限界集落の典型だ。

 ターミナルで、数少ないバスを待つ。

 話しかけてきた人がいた。声に聞き覚えがあった。祖父の甥(おい)、家督を継いだ末弟の長男だった。隆には従叔父(いとこおじ)にあたる。近くの病院に通院している、という。

朝一番のバスで出てきて、受診の後、午後一番の便に乗る。終点で降りて、停めておいたバイクで、老妻の待つ千足村に戻る。これで、ほぼ一日がつぶれる。

 ある時、従叔父がバス会社の事務員に、クレームを付けていた。

 病院そばの停留所に、運よくターミナルに向かうバスが停まっていた。小走りで近づくと、バスが発車してしまった、という。

 これが最終バスだったら、とんだ結末になっていた。昇降客が少ないので、ドライバーの注意も散漫になりがちだ。事の深刻さの割に、従叔父の口調は穏やかだった。

 従叔父はユーモアにあふれ、聡明だった。聞いてみたいことがたくさんあった。いずれ、ゆっくり訪ねるつもりだった。

 その従叔父が二〇二二年(令和四)に亡くなった。千足谷に転落死したのである。

 祖父の生家は村のほぼ中央にあった。
 庭は公道を兼ねていて、祖父の生家を過ぎると、急勾配の山道となる。山道は六軒の家へと分岐していた。生活に不便なこともあって、これらの家はいち早く空き家となった。
 都会へ出る際、家の周囲に杉を植えることが、いつしか習慣になっていた。杉は生育が早く、過疎地の多くは早晩、杉林と化していく。

 例に漏れず、従叔父の家の裏には湧き水があった。昔は池に鯉が泳いでいた。
 家の横は地形が山谷(やまだに)になっていて、谷間に水が流れていた。従叔父の近所ではこの水を生活用水や農業用水にしていた。
 この水も古来、村人の生活に欠かせないものだった。

 いつの頃からか裏山の湧き水が涸れることが多くなった。山谷を流れる水量も減って来た。従叔父の家の上方に広がっていた杉林が樹齢を重ね、また、空き家の周囲の杉も生育してきた。山野が保水力を失ってきたのである。

 従叔父は止むなく、千足谷から生活用水を引いた。滝の上にホースを固定し、数百メートルの距離を送水していた。竹の樋(とい)と違って、途中で詰まる心配はないが、水源ではどんな不測の事態が起きないとも限らない。
 ホースの水が涸れたので、従叔父は水源を見に行った。滝のあたりは高い崖になっている。そこで足を滑らせたのだった。

 田舎の環境はもう、高齢者にとって厳しすぎる。身をもって体験してきた一生だった。長寿の家系にふさわしく、従叔父も卒寿を超えていた。とは言え、心残りの最期だったことだろう。

 §8 リセット


 隆は四〇歳で眼疾により失明宣告された。なんとか仕事は続けてきたものの、四九歳で転職のために専門学校に入学、鍼灸師の資格を取って開業した。

 一五の春に千足村を出てから、前だけを向いて突っ走ってきた。そんな隆のベクトルを一八〇度かえる出来事があった。二〇一一年(平成二三)の東日本大震災である。

 何もかも呑み込んでいく津波の映像は、隆の価値観を崩壊させた。いても立ってもいられず、災害ボランティアに参加した。施術コーナーに並んだ被災者と故郷の人々がダブった。帰りの電車の中で、妻にメールしていた。
「過疎地の医療に貢献したい」
 妻からは「うん」と、一言だけ返事があった。

 郊外の旧市街地に自宅兼治療院を建て、母校の小学校跡には分室も開設した。意気込みをよそに、視覚障害はますます進んで、隆は盲導犬ユーザーとなった。Uターン当初より往診の機会も減り、盲導犬と患者さんの来院を待つ毎日。無理はできない年齢なのである。

 患者さんの中には林業関係者が何人かいる。ある会社の代表は就業して五〇年になる。父親が創業した会社であり、もう七〇年近く現場を見てきた。

 その日も、林業の話になった。
「明らかに失政です」
 と、代表は断じた。
「その責任を誰も取ろうとしない」
 意外な発言だった。

 代表は続けた。
「そもそも針葉樹林と広葉樹林、自然のバランスを崩してはいけなかった」

 従叔父ならどう言うだろうか。
(同じことを考えていたのではないか)
 隆には確信に似たものがあった。
 ふと、田の草取りをしていた従叔父の顔が浮かんだ。
 麦わら帽子がよく似合う人だった。


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