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キム・ウォニョン『だれも私たちに「失格の烙印」を押すことはできない』小学館

著者は、骨形成不全症のため車いす生活を送っている韓国の作家、パフォーマー、弁護士だそうである。

本書で取り上げられているのが「不当な生(Wrongful Life)」訴訟である。障害を抱えた子どもが、生れてこない方がよかったという考えのもと、医師に対して損害賠償を請求する民事訴訟の一つで、おおむね重い障害のある子どもがこの訴訟の原告となる。

親が子どもを代理して、医師の過失によって障害児が生まれ、子ども自身(親)に損害が生じたから、賠償しろと請求する。

「不当な生」とは、善良でな、または悪いことをしでかした生のことでなく、尊重されない生、一個人の存在として認められない「失格とされた生」のことである。貧しく、教育も受けられない人々や、重い障害や病気のある人々、偏見を抱かれがちな性的指向や性自認のある人々は、「不当な生」と思われやすい。

障害者を共同体の構成員として受け入れる場合、人生の困難は伴うかもしれないけれど、あらゆる差別に反対し、人生が不幸せでなく、価値のないものではないと信じることができるだろうかという問題を避けて通ることはできない。

障害児が生れる瞬間も、非障害児の誕生とまったく同じように祝福と期待、希望と愛情で満ちた素晴らしい時間として記憶することができるだろうか。また、簡単な施術で障害を治すことができ、同じ障害の子どもがうまれなくなるとしても、その施術をためらいなく拒否することができるだろうか。

障害者に失格の烙印を押すのは、偏見から差別をする者だけでなく、障害者をよく見せるためのパフォーマンスに動員させる政治家や議員、障害者や病人の属性に当てはめて保護、支援しようとする法や制度、また生れてこない方が苦労がなくよかったと思う障害者の親、さらにはお金や権力を得て、人格者になることで「欠陥」を補おうとする障害者自身さえもあり得る。

「私は法的に障害者を雇用しなければならないから、あなたを雇用するだけです」と言われたら、自尊心は傷つくが、自分の実力に自信があれば、堂々としていられる。しかし、魅力的ではないと思われた場合、私的な親睦、性的なつながり、社会の非公式ネットワークでは不利となる。

障害のある子どもを受け入れなくても、障害のある子どもは親を愛することができる。障害についての差別を否定し、堂々とすることができなければ、尊厳ある魅力的な存在となれないわけではない。決して完全でない「弱さ」こそ、異なるアイデンティティ集団に属している私たちを束ねることができる。

弁論という形式で論述され、多少難解なところもあるが、その深い考察力に圧倒される書物である。だれも「失格の烙印」を押すことができない社会の実現を切に望むところである。


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