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山口一美編著『ハワイ読本ー日本人がハワイを好きな理由ー』創成社

常夏の島ハワイ。日本人にとってハワイはあこがれの海外旅行先であり続けている。それはなぜだろうか。

ハワイは貿易風が北東から吹く北緯20度付近に位置する火山島であり、貿易風が心地よさを感じさせ島の緑を育むばかりでなく、島の北東側に多くの雨を降らせ清水が地下に溜り、砂糖を生産するのに必要な多量の水の供給を可能とし、砂糖耕地の労働者として日本から多くの移民が渡ることとなった。

ハワイの島々にポリネシア人が初めて到達したのは、紀元1000年前後とされ、その後、数世紀にわたり、4千キロ以上離れたタヒチ周辺と双方向の往来が行われていたと考えられている。ポリネシア人は双胴カヌーで太平洋を移動し、生活に欠かせない動植物を運んだ。

その中にハワイ語でコーと言う、ニューギニア原産の砂糖キビがあった。これが後にハワイの一大産業となる。

1778年1月、英国海軍のクック船長が、ハワイ諸島を見つけ、サンドイッチ諸島と名付けた。これが欧米に伝わり、貿易船の恰好な経由地となり、19世紀に鯨を求めて太平洋に進出してきた捕鯨船の補給と鯨油販売の中継基地となった。

カメハメハ大王が1795年にハワイ王国を成立させた後、大王の息子カメハメハ2世の時代に、欧米人が上陸し始めると、免疫を持っていなかったネイティヴ・ハワイアンに病気が蔓延し、急激な人口減少が起こり、後に砂糖農園の労働者を受け入れる大きな要因の一つとなった。

カメハメハ3世が、1848年制定した法律「グレート・マヘレ」により、それまで土地は皆の物との観念が成り立っていたハワイで、土地の私有を初めて認める制度となった。全島の3分の1ほどの土地を王領として確保した後、他の土地を一般に分け与え、外国人の土地所有を認めた。これにより、欧米人所有の農地が大幅に増えるきっかけとなり、農業労働者不足が深刻化した。

カメハメハ4世の時代、日米修好通商条約批准のため、遣米使節団が米海軍ポーハタン号で、往路ホノルルに寄港。同じく米国に向かった咸臨丸は、帰路、ホノルルに投錨し、軍艦奉行木村摂津守喜毅が4世に謁見した。このとき王が日本からの移民を提案し、これが移民の発端となる。謁見には勝海舟が同席し、中濱万次郎が通訳を務めた。

7代目の王、カラカウアは、1876年に米国との互恵条約を締結し、米国への砂糖輸出が飛躍的に伸びた。カラカウアは1881年に世界一周の旅に出て、往路、日本を訪問した。明治天皇の謁見し、日本からの移民を要請した。

しかし、カラカウアの晩年、砂糖業者を中心とした米国への併合を求めるハワイ経済界の力が強まり、王権を揺るがす事態となった。1891年、女王になったカラカウアの妹、リリカララニは、2年後、経済界の圧力に屈するかのように王権を放棄した。

米国24代大統領クリーブランドは併合を決断せず、ハワイ共和国として存続し、米国からの旅行客が増え、ワイキキにモアナホテルが開業した。

米国25代大統領マッキンリーは、1898年、ハワイ併合を認めた。米西戦争の結果、フィリピンとグアムが米国領となり、ハワイの有用性を認めた議会は承認し、1900年に合衆国準州となった。ハワイの砂糖産業は増大し続け、移民の受入れは増大した。

ハワイの詳細を最初に日本に伝えたのは、富山の運搬船長者丸の次郎吉で、1838年、捕鯨船ジェームズ・ローパー号に救助され、ハワイ島ヒロに上陸した。帰国後の次郎吉の証言は『蕃談』という書籍に残されている。

1841年、中濱万次郎が、捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、ホノルルに上陸したことは有名である。

1866年、ハワイ王国外務大臣ワイリーは、日本語を解したオタンダ系米国人ヴァン・リードにハワイ王国総領事の肩書きを与え、幕府の許可を得て、横浜と江戸で出稼ぎ労働者を募集し、147名が渡航した。この一団を「元年者」と後に呼ばれる。

しかし、募集時の不十分な説明、長時間労働、農作業に適さない人もいたことから、3分の1が帰国、また後、半分は米国本土に移住している。

1881年、カラカウア王が明治天皇に謁見し、移民を願ったことから、井上馨外務卿とロバート・アーウィンハワイ王国総領事の間で条約が締結され、1885年に官約移民が始まった。広島、山口、熊本、福岡の4県出身者が96.1%を占める。出稼ぎが目的で、約6割が帰国している。

王国終焉後は私約移民として、合衆国準州となり自由移民として継続したが、1903年からは、朝鮮半島からも日本経由でハワイに渡っている。しかし、1900年代に入り、カルフォルニア州で日系人排斥の動きが強まると、日本政府は、労働目的の米国への旅券交付を停止した。

ところで、沖縄からの移民は、最初は1900年1月のことで、「沖縄移民の父」と呼ばれた當山久三の働きかけによる。後発ながらも、1924年当時、福岡を抜いて4蕃目に多くなっていた。

米国への移民は制限されても、米国に住む日本人の家族の呼び寄せは認められた。しかし、1924年、排日移民法が成立すると、日本からの移民は南米大陸に移行した。

ハワイで定住化すると、日系人の共同体が形成され、県人会や郡人会など、同郷の互助組織も機能した。また、各宗派の開教師などが寺社を建て、移住者の心の支えとなった。

Ⅰ世が苦労の末、定住すると、教育と医療に関心が及び、日本語学校が各地に設立された。また、日本から来島した医師により母国語で診療を受けられる安心感は強く、総合病院「クアキニ・メディカル・センター」はその流れをくむ。

砂糖農園は、労働者に長時間労働を強い、かつ、出身国や地域で賃金に差を付けた。労働者同士の情報交換を嫌い、出身国別に居住地を分け、英語を奨励せず母国の習慣と言葉の生活を容認した。一方、労働条件は一向に改善せず、たび重なるストライキが行われた。20世紀になりと、フィリピンから移民が増え、より安い賃金で働いた。

一方で、それぞれの国から来島した人たちが同じ区画で働くことから、お互いの文化を知り、現在のハワイの文化多様性に繫がっていった。日本からの移民は日本食の弁当を持参して食べるが、他の国からの移民と食べ物を交換するようになり、それが「ミックスプレート」の原点になったと言われている。

2世は、属地主義の国籍法により、二重国籍となり、米国市民権を与えられた。第2次世界大戦で欧州戦線で戦った日本人を忘れることはできない。米国に定住しても、1世に米国市民権が与えられ、帰化するのは第2次世界大戦後である。

第2次世界大戦が始まり、日系社会も、きな臭いものとなってきたが、1941年12月7日午前8時前の日本帝国海軍の真珠湾攻撃は「まさか」の出来事であった。当日夕刻から戒厳令が敷かれ、灯火管制が始められた。日本人の主要な人々の拘束が始まり、米国当局は有事を想定して事前に勾留すべき人の洗い出しを終えていた。

1世のみならず、米国市民権を持つ2世も、敵性外国人とみなされ、社寺の行事禁止、日本語学校の閉校、邦字紙の発行停止、日系人所有の漁船は港に留め置かれた。再攻撃を警戒してワイキキビーチにも鉄条網が張り巡らされた。

ハワイでの強制収容対象者は、家族を含めて2,270名。少数ではあっても日系人社会に与えた影響は大きかった。各地の一時収容所を経て、ホノルル空港対岸のサンド・アイランドに収容され、一部米国本土の強制収容所や司法省直轄の抑留所に送られた。他の人たちは、1943年3月、急遽造られたホノウリウリの収容所に移された。

ホノウリウリの収容所は、真珠湾の西、一般道路から見えない谷合に造成され、1945年10月まで運営された。当時「地獄谷」と呼ばれ、米国籍がありながら危険とされた帰国2世、収容地区は区切られていたが、ドイツ人、イタリア人、戦争捕虜が収容された。戦後、すべて撤去された。発掘され、オバマ大統領が2015年2月国定史跡に指定したが、一般公開されていない。

戦後のハワイ経済は砂糖農園のビッグ5による寡占状態が続いたが、ダニエル・イノウエを筆頭に日系政治家が指導力を発揮し、州昇格への動きも加速した。経済面では、サカエ・タカハシが、住友銀行の協力で、1954年セントラル・パシフィック・バンクを設立し、日系人が銀行から融資を受けやすくした。

1952年12月、マッカラン・ウォルター法の成立により、日本人1世がようやく米国市民権を得ることが可能となり、1988年レーガン大統領が署名した市民的自由法により、真珠中の日系人強制収容に対し国として正式な謝罪と補償がなされた。

戦後、日本、沖縄、朝鮮に送られた食料品、粉ミルク、医薬品、学用品島の援助慰問物資を送ったLARA(アジア救済公認団体)の慰問物資総額の約20%、約80億円が各国の日系援助団体によるものである。ハワイから沖縄に送られた豚528頭は繁殖されて3年後には10万頭にまで増えた。

東京オリンピックが開催された1984年、海外旅行が解禁され、初の海外旅行団は、「第1回ハワイダイヤモンドコース旅行団」で、オアフ、マウイ、ハワイ、カウアイ4島を巡る7泊9日、添乗員同行、全食事付きで1人36万4千円であった。主催は第一銀行と日本交通公社で、共催はパンアメリカン航空である。

1970年、羽田・ホノルル間にボーイング747ジャンボ機が就航し、ハワイ旅行が大衆化した。夕刻になると、羽田空港旧国際線ターミナルの3つの搭乗口すべてがホノルル線のパンアメリカン航空、ノースウエスト航空、日本航空のジャンボ機で占められる日もあった。

1970年代、文化復興運動「ハワイアン・ルネッサンス」が巻き起こり、古典フラ、ハワイ語、歴史文化研究への関心が高まりを見せた。来島する旅行者を歓迎しつつ、ハワイ文化の真髄をより正しく知ってもらおうとする地道な活動が継続された。

アロハ(Aloha)は、Aloが顔、前面、Haが息、呼吸という意味があるという。ハワイの詩人、哲学者、言語学者、教育学者のパキは、アロハチャントをつくった。

A Akahiai 思いやり、優しさ・・・優しさを持って感じ考える
L     Lokahi  調和、ハーモニー・・・調和に中にしっかりと立つ
O Oiu'olu 心地よさ・・・・・・・感情と共に思考のバランスをとる
H Ha'aha'a  謙虚さ・・・・・・・・謙虚さを示し謙虚である
A Ahonui    忍耐強さ・・・・・・・自立を学ぶ忍耐強さを持つ

アロハは、古代ハワイ人の最も重要な価値観とされる。アロハの声掛けは、「あなたの存在に愛情と最高の尊敬を抱いている」と言ってもらっていることなのである。

ハワイを訪れる前に日本とハワイの結びつきについて知っておくことも役立つのではないかと思う。本書には、アロハシャツ、フラ、ハワイの自然環境さらに移動手段、コンドミニアムなどについても記載されている。

ハワイへ行って癒やされる前に一読するのもよいかもしれない。旅行ガイドにはない情報が詰まっている。






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