山竹伸二『共感の正体 つながりを生むのか、苦しみをもたらすのか』河出書房新社
世界は共感であふれているかもしれない。共感があってこそ、相手とつながっているという安心感がある。苦しいことに共感されるだけで、その苦しみが緩和する。また、相手に共感することで、相手のことがわかる感じがする。今、共感ブームがやってきている。ビジネスの領域でも共感力が重視されている。
現代社会は共感力を求めている。共感できない人間は批判の対象となりやすい。しかし、すべてに共感ができない以上、無理をして相手に合わせることで、強いストレスを負うこともある。また、相手の苦しむに共感しすぎれば、自分自身も苦しくなり、ストレスを感じる。
共感があるからこそ、お互いを思いやり、助け合うことができる。しかし、共感に頼れば、自分が関心のある人、関心のある問題にばかり肩入れしまう。それ以外の見知らぬ人々の問題については想像力が及ばず、むしろ争いを生む危険性さえある。
仲間や身内の人間、少数の人々の苦しみに共感するとき、彼らを苦しめるその他大勢の人間に敵対し、攻撃的になりやすい。共感ブームと拮抗する形で、反共感論の主張もある。本書は、共感の本質を理解しようとしている。
他の子が泣いている様子を見て、思わず泣きだす赤ちゃんは、泣き声が大きくてびっくりして泣くのではない。テープに録音した自分自身の泣き声を聞かせても、全然泣かない。赤ちゃんは、他の赤ちゃんの泣き声を識別して泣いている。
生後1年目の終わり、相手の苦痛に対して泣くだけであるが、生後2年目になると、相手を慰めよう、元気づけようとする行動が見られるようになる。生後2年目後半で自己が形成され、他者の思いやり、利他的行為ができるようになる。
しかし、子どもは共感の感情を最初から制御できない。親が赤ちゃんに共感することにより、自分の心、情緒に気づくことができ、感情を制御できるようになる。親は子どもの模倣することで、共感や対処能力を伝えている。子どもも親の微笑みに応えて微笑み返すことにより、共感力を一層高めている。
ミラーリングは、誰かが笑うとつい私も笑ってしまう、といった模倣のことだ。権力のある人間はこうした模倣をしない。社会の独裁者であれ、家庭の支配者であれ、権力をにぎることで共感性は失われ、加速度的に支配関係が強化される。
一方、共感精度の高い母親の子どもは、自己肯定的であるという実験結果も報告されている。また、共感精度の低い子どもはいじめの対象になりやすく、不幸や抑うつといった内面の問題に苦しんでいる傾向があった。
自閉症スペクトラムの人は、生まれつきの認知の障害からコミュニケーションがうまくいかないため、適切に共感力が育まれなかった可能性がある。共感力が育たなければ、コミュニケーションがうまくいかなくなり、悪循環に陥ってしまう。
「sympathy」と「empathy」の違いは、共感の分類をややこしくさせている。「empathy」は感情移入という意味のドイツ語に対応させたのが始まりではあるが、「sympathy」には感情移入がないと言われることがある。しかし、少なくとも「sympathy」にも感情の共有という意味は含まれている。
「認知的共感」を「sympathy」、「情動的共感」を「empathy」とする論者もいるが、多くの研究者はどちらも「empathy」として捉えている。しかも、19世紀以前の哲学的な共感論では、「empathy」という言葉はなかったので、「sympathy」という言葉が使われている。
相手と同じ感情であると感じる共感(情動的共感)は、誰でも日常的に体験する。相手の喜びに共感した場合、自分自身によいことが起きたように嬉しくなる。こうした経験において、自己の感情の了解(自己了解)と同時に、それが他者の感情と同じものであるという確信が生じる。
一方、相手と同じ考え方、感受性、価値観であると感じる共感(認知的共感)は、情動的共感のような感情の共振、感情の一致の確信は起こらないとしても、自分と同じものを持っている、という意識が生じている点では変わらない。どちらも他者への同一化、自分と相手の同一視が生じている。
幼児期は、相手の感情を自己の感情と混同することで、情動的共感が起きるが、やがて相手の感情と自己の感情を区分(自己了解)しつつも同じ感情として情動的共感が起きる。自分の感情を客観視し、相手の感情に巻き込まれることが減ってくる。さらに認知の発達により、相手の感情を想像し推論できることで認知的共感が起こる。
共感という経験は対人関係ににおける感情共有の確信であり、相手に対して親和的な感情が生じ、他人事ではないと感じられる。この時、自己了解と同時に、他者の感情了解が生じる。相手が望む行為の選択、つまり利他的行為を可能にする。相手の感情を理解するためには、言葉と想像力、推論する理性の力を身につけることが必要である。
共感によって生み出される利他的行為は、苦しんでいる相手を手伝ったり、相手の救いになるように取り計らったりするだけでなく、相手の気持ちを受けとめたり、話を聞いてあげたりするなど、精神的なケアも含まれる。
共感してくれる相手の何気ない一言がヒントになり、自分への理解が深まる場合もあるだろう。共感している相手は、自分と同じ感情を抱いているだけでなく、自分よりその感情の意味を理解していることが少なくない。共感してくれる相手の表情や言葉から、自分の感情にあらためて気づかされ、自己了解を得ることができる。自分がこれからどうしたいのか、どうすべきなのか、その可能性も見えてくる。
こうした原理は、心理的治療や看護、介護、保育などにおける心理的ケアに共通するものであり、これらの領域で共感が重視されている。また、共感を他者理解にも使うことができる。熟練した心理臨床家、ベテランの看護師や介護福祉士、こうした職業でなくても、感受性が豊かな自己内省力のある人であれば、共感を介して相手の気持ちを理解することは、ごく自然に行われている。
共感はすべてよいことが起こるわけではない。誰かの苦しみに共感し、助けたいと思う場合でも、必ずしもよい結果、正しい行動につながるとは限らない。共感から、目の前にいる人を手助けしてしまい、結果的に大勢の人を苦しめるたり、困らせたりすることがある。助けたつもりでいても、相手にとっては迷惑だったり、かえって悪い結果を招く場合も少なくない。
また、共感は憎悪や怒りのような感情にも共振するため、憎しみや怒りを増幅させる危険性がある。仲間への共感から、仲間以外の人々を敵視したり、憎悪や軽蔑の眼差しを向ける排他的共感を生みやすい。共感による民族や国との一体感は、外国への差別意識、敵対意識につながり、繰り返される戦争、少数民族への迫害、異質な文化への差別などは、排他的共感に拍車をかけている。
共感は、人間同士の心のつながり、共に生きているという意識をもたらす。しかし、この共同性の意識においても、適度な距離感、公正な判断力がなければ、容易に集団心理に呑み込まれてしまう。そこで、異なる意見や価値観の人々との間にも、差異を認め合いながらも共感できる協調的共感が必要となってくる。
現代カウンセリング理論を築いたカール・ロジャーズは、セラピストには「無条件の肯定的配慮」「自己一致」「共感的理解」の3つの条件が必要とした。精神分析の領域において、共感こそ患者理解の要と考えた最初の人であるH・コフートは、「分析者は共感的でないと、必要なデータを観察したり種集することができない」と述べ、共感される体験に治癒効果があるとの考え方も示した。
あらゆる心理療法が共感を重視しているわけではないが、共感が心理的治療の成否の鍵を握っている。治療者の承認を介した自己了解こそが心理的治癒という現象の中核にある。自己了解は自分の感情に気づくこと、本当の気持ちを自覚することであり、自分がどうしたいのかがわかれば、納得いく行動を選択し、自由に生きることができる。心の病に苦しんでいる人に対しては、自由を取り戻すために自己了解を促す必要がある。
完全に「他者のため」という動機だけで良心が生じるわけではない。他者に承認されたい、他者と共に生きたい、という「自己のため」の動機も当然ある。そうでなければ、自己犠牲を美徳とするような偏った義務論になりかねない。
共感によって他者の苦しみを知れば、自己の欲望を超えて、心から他者を助けたいという想いも強くなる。承認欲求と救済欲求が重なり合い、「自己のため」の行為が「他者のため」の行為になる。共感の経験を繰り返し、理性的な思考が深まるにつれ、多様な他者の身になって考える力もついてくる。成熟した良心は自己の欲望を自覚したうえで、他者を心から助けたいと感じ、より普遍性の判断を求めるようになる。
著者は、本書により、共感のデメリットを減らし、よりよい形で共感を活かすことを主張する。共感のリスクはあるが、共感のメリットはリスクを大きく超える可能性があるとも主張する。現代において、他者との違いを認識しながら、お互いに承認できる共通点を見つけることが重要となっていることが理解できる。大変深い考察がされている。
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