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自由の海で息をするための食べ方。

抹茶味のプロテイン、アーモンドミルクにオートミールを一晩漬けたもの。

ふと、高知に移り住む前によく食べていた朝ごはんを思いだした。

それは美味しくて食べていたのか、「痩せたい」と刷り込まれた幻想の奴隷的作法だったのか。それでも一日三回、"ヘルシーな食事"を身体に取り込む行為は、自分自身をエンパワーしていた。いつのまにかそんな食事も記憶の霞のなかにおいて来てしまった。

6月11日、朝6時過ぎ。トウモロコシ畑に農園長は立つ。
早朝、実に栄養が凝縮された状態で収穫するのがトウモロコシ収穫の通例らしい。私は5時に起きて、農園長の後をついていくことにした。

日が昇る前の畑から見える景色を見てみたい。あと農家の百姓ぶりにちゃんとついていきたいと思った。生のとうもろこしを畑でかぶりつきたいという打算込みで。

高知県の真ん中より少し西寄りの小さな町、中土佐町・久礼(くれ)の海に面した小さな集落に、わたしが週の半分通う中里自然農園はある。

「かじってみたら」

といわれ、かぶりついた。コーン一粒一粒の薄皮の内側に閉じ込められていた果汁のような水分が、勢いよく飛び散った。

茹でたトウモロコシよりも奥ゆかしい甘さで、野性味が残っている。

歯と歯の隙間に挟まるね

トウモロコシを育てるための農作業の一過程に携わる、そうして汗を流した時間が回収されていく感覚。

この感覚が「食べる」ということなのだろうか。


今日のお昼ご飯は絶対バター醬油のトウモロコシペペロンチーノだ、と決めていた。とにかくトウモロコシを愛でたい。

一年の中で2週間ほどしか味わえないのだから。

6月中旬、畑に並ぶ野菜は、ズッキーニ、コリンキー、春菊、ケール、セロリ、とうもろこし、モロッコいんげん、にんじんなど。

出荷担当のさっこちゃんが台所に置いといてくれた端数の野菜たち。昼飯の材料になる。

もう終わりかけのズッキーニとの別れも惜しみながら、分厚く輪切りにカットし、パスタをゆでる(これは農園長担当)。

三人であっという間に平らげてしまった。

美味しい喜びがいつにもまして身体に染み込んでくるのは、仕事の忙しさにかまけて自炊をサボる数か月を送っていたからだろう。

ここ数か月を白状すると、土鍋で米を炊くヒマがあったら寝ていたいし、スーパーで買ったお惣菜やサンドイッチに頼ることもしばしば。自炊がままならない自分を責めてばっかいてもしょうがないので、自分に許しを請うた。

#丁寧な暮らし 、やってられっか。

都合のいい生き物である。開き直ると、自炊をせずに出来合いのものを食すことに罪悪感という罪悪感が消え去る。

生きやすくなった。

と同時に、自分が誰だかわからなくなった。

人のアイデンティティは存外、一日三回巡ってくる習慣によって形作られていたりするものだ。それがが強いられているものであれ、好んで選択しているものであれ、私の無意識にぬるりと入り込む。

イスラム教徒が豚肉を避けるたびに、
ヴィーガンが肉食の選択肢を避けるたびに、
修行僧が精進料理を食べるたびに、
彼らを形作るアイデンティティはより強くゆるぎないものになる。

なんでも食べれる時代に、何を食べてもいい私は、それでも自分を縛る道しるべを求めている。日が昇る前、まだわずかに涼しい風に吹かれながら、畑に立って見えたのはそんな自分だった。




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