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日本人と「公平」の裏表

『大和心とは何か』にも書いた通り、日本人は「公平」を重んじる。

清水克行著『喧嘩両成敗の誕生』でも語られている通り、歴史的に日本人は命を犠牲にしてまで公平を重んじてきた。

公平を重んじるとは、つまり、”それぞれが置かれた立場や境遇の違いに納得できる状態”を目指すという事である。

これは例えば、障害者など社会的弱者がそうでない者より手厚く保護を受けることは正当な理由がある”違いに納得できる”事柄であり、これが行われることは「公平」で適切な保護が行われず苦境に置かれる事は「不公平」といえる。

逆に業者が利益を得るため他人の所有地に不法投棄を行っても処罰されないのは”違いに納得できない”「不公平」な事態であるといえる。

これらの事例に対して、何らかの救済あるいは適切な処罰が行われるという「不公平」を是正し「公平」をもたらすことが強く求められるわけである。

ここまでだと純粋に善い話のように思うが、「公平」をもたらすために払われる犠牲を考えると単純にイイモノとはいえない。

日本人は公平を期すために”皆が納得できるよう弱い立場にある者は救済されるべき”となりやすい一方で、中世、敵討ちの応酬が行われたように”自分が納得できるまで相手を貶め弱らせるべき”という風にもなってしまうのである。

「公平」は結局、”納得できるか”の問題であるため、その人が感じる「不公平」は身勝手なものになる場合も多々ある。

逆恨みや妬み嫉み、羨みによって、不合理な不公平感を生じるのは世の常であり、同じ事物に相対しても、その評価は大いに主観に左右されてしまう。

(この無秩序な「公平」に一定の秩序をもたらすのが私のいうところの「大和心」であるともいえるが余談である)

これはつまり、日本の社会に幸福な者が多ければ他者の不幸や逆境を不公平と感じる者が多くなり、逆に辛い者が多ければ多いほど他者の幸福や順境に対して不公平を感じる者が増えるということである。

前者は不幸の是正を図る事によって公平を期そうとし、後者は幸福の毀損を図ることによって公平を期そうとするため、後者が増えれば増えるほど社会全体で他人の足を引っ張りまくる事になってしまうのである。

これにより、不幸な人が増えると足を引っ張る人が増え、足を引っ張る人が増えると不幸な人が増えるという足引っ張りスパイラルが起きてしまう。

不景気やら増税やらなんやらで辛い状態にある人が多く、将来が絶望視されている現代日本の社会はまさに後者の”公平を求める働き”が全盛である。

これを示す研究として、多国籍の大学が協力した実験で”日本人に特にスパイト行動(自己の不利益を受忍してでも他者に不利益をもたらす行動)が多い”という結果が出ているが、これも”日本人の公平を求める性質”によるものである。

つまり、自分が受けた不利益という「不公平」を除くため、自分がさらなる不利益を受けてでも不利益を与えた他者にも不利益を与え、以て”双方が不利益を得るという「公平」”を期そうとしてしまうのである。

余談だが、この実験結果を取り挙げ日本人種の悪辣さと劣等性を喧伝しようとする向きは失当である。実験でも”スパイト行動が最終的にフリーライド(タダ乗り)を減少させ全体の平等を増進した”と結論されているように、これには社会にとって有益な面もある。

先に述べた不法投棄の「不公平」の例のように、中には引っ張るべき足もあるのである。

ここまでをまとめると

・日本人は「公平」を重要視する。
・「公平」とは待遇や境遇の差異に納得できる状態。
・「公平」を求めて他者を助け、他者を叩こうとする。
・「公平」は主観による曖昧なものなので、
  その人の境遇によっても助ける・叩く対象に変化が生じる。

となる。

ただ、今の日本では圧倒的に他者の足を引っ張り貶めようとする向きが多いため、他者を助け引き上げようという「公平」を求めることの正の側面に懐疑的になる人もいると思う。

だが現代の状況だけを見て「過去も同じであった・より酷い状態であった」と思うのは(誰もが落ちる陥穽であるが)浅はかである。

これを示す例として、『火垂るの墓』のおばさんに対する評価の大勢が逆転している事が挙げられる。

以下は高畑勲監督に対するインタビューの抜粋

・当時の社会は非常に抑圧的な、社会生活の中でも最低最悪の”全体主義”はびこっていた時代
 
・そんな時代においては、あの未亡人(※西宮のおばさん)のいうことぐらい特に冷酷でもなんでもなかった
 
・清太の失敗はそんな”全体主義”の時代に抗い、節子と二人きりの”純粋な家庭”を築こうとする、というおそろしく”反時代的”な行為に走った事
 
現代(※公開当時)の青少年や私たち大人が心情的に清太を理解しやすいのは、時代が逆転し価値観が反転したから
 
・しかしいつか再び時代が逆転したとしたら、清太に共感するどころかあの未亡人以上に清太を糾弾する意見が大勢を占める時代がやってくるかもしれない
 
・僕はそれが恐ろしい

※アニメージュ1988年5月号 「火垂るの墓」高畑勲インタビュー 「88年の清太へ」より

同監督著の『映画を作りながら考えたこと』では、おばさんは少し冷酷だし清太も迎合せず可愛げがなく、両者に落ち度があるという風に中立的な目線で語られているように、本来、両者はどちらがより悪いという性質のものではない。

しかし、公開当時の世論、人々の気風からすれば、非難されるのはおばさんの方で清太は可哀想というのが大勢であった。

それが、今、おばさんの態度は当然で清太は甘えているという風に大勢の評価が入れ替わっている。

SNSを探ってみれば、昔、同じ映画を見た同じ人間でも最近見たときには意見が変わっているのを見て取れるだろう。

これは、過去の日本人と今の日本人で物事の受け取り方が変わっている事を示している。

かつて、苦しい時代を生きた人間には当然であったことが平和になって当然ではなくなり、清太への同情や清太に冷たく当たるおばさんへの非難が大勢になった。

そして現在、また苦しい状態にあるか将来を悲観する日本人ばかりになったため、清太の苦境は甘えで冷たく扱われるのは当然というのが大勢になったと考察できるわけである。

余談として、これに似た気風の変化としては体罰の話がある。
歴史上、戦国時代くらいには日本でも体罰が行われていたのが江戸時代になると体罰は絶対駄目という風潮になり大正時代まで親や教師が手を挙げるのは以ての外という時代が続いた後、戦中戦後に体罰の全盛期が訪れ、最近また体罰は駄目という風潮になり、他方、体罰禁止は甘えという声もよく見かける。

閑話休題

結局のところ、日本人が「公平」を求めることは中世から持ち続ける変え難い特性であり、他者の足を引っ張るなど悪い方に向くこともあるが同時に不正義の是正や弱者救済を勧めるなど社会に善をもたらす部分もある。

日本人はこの特性を理解し、うまく向き合うほかない。

私の著書がその一助になれば幸いである。








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