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点字ブロックのその先へ―私と白鳥さんの出会い―

それは2023年の暮れ。冷たい雨の降る夕方。息子のお迎えの前に時間ができたので当時住んでいたまちの図書館に寄った。とくになにか目当ての本があった訳ではなく、ほんの10分時間が潰せたらなと思っていただけ。

今思えばその10分が、今後の自分のなにもかもを変えることになった。

図書館のオススメ本のコーナーに、「目の見えない白鳥さんアートを見にいく」という本が紹介されていた。まちの小さな図書館で、芸術関係の本は既に借りたことがあるものばかり。アートに関する本が紹介されているのが嬉しくて、視界に入った瞬間に「これは借りるぞ!」と決めた。

息子を保育園から連れて帰り、ご飯風呂寝かしつけのルーティンを済ませ、深呼吸をして本の表紙をめくった。目の見えない白鳥さんがアートを見にいくって、そもそも一体どういう事?と、いぶかしみながら。どうかどうか「アートは心でみるものよ☆」などという薄っぺらい内容でありませんように、と、願いながら。

その晩、約300ページの分厚いこの本を、4時間半で読み終えた。読み終えた後も興奮し通しで一睡もできなかった。

目の見えない美術鑑賞者・白鳥建二さんは、大学時代に彼女との初デートで初めて美術館へ出かけた。その時のワクワクが忘れられず、白鳥さんはあちこちの美術館へ出かけるようになった。この本では、白鳥さんが本の著者である川内有緒さんと友人・マイティーさんとともに、全国各地の美術館を渡り鳥のように旅する様子が描かれている。

目の見えない人がアートを鑑賞すると聞くと、「手で触って鑑賞するのかな」とか、「作品からのパワーを感じとることができるのかな」とか、ついついそういう方法が頭に浮かんでしまう。

でもそれは、障がいのある人が"ふつう"のことを楽しむには、なにかしらの"ふつう"ではないパワーがあって、「障がいがあっても"ふつう"ではないそのパワーがあるからすごーい!」みたいな、変なバイアスがかかっている。

いや、そもそも"ふつう"って何やねん!という話であるし、そういった意味では白鳥さんは至って"ふつう"なのだ。

白鳥さんの美術館の楽しみかたは触覚や超能力によるものではなく、作品の前で起こる会話を楽しむというもの。その会話は、アートを介した予測不能のジャズセッションのようなものであり、その人の人生観を内包する本質的なコミュニケーションへと展開していく。

この本の最後の章には、執筆とほぼ同時に進められていた映像制作について書かれていた。

川内有緒さんの大学時代の友人であり、映像制作の仕事をしている三好大輔さんという方がいて、最初は10分くらいのショートムービーをつくるために白鳥さんの美術鑑賞の様子を映像に収めていたのだが、結果、100分超のドキュメンタリー映画となっていった。

映画は自主配給で上映されており、本と出会った2023年の年末時点ではチラホラ都心の映画館で上映が始まった頃であったように思う。

「富山では観ることができんかも..」とその田舎っぷりを恨みつつも希望は捨てず、週に1度はホームページ上の映画公開情報をチェックする事約4ヶ月、富山市のほとり座で白鳥さんの映画が上映されるというニュースが飛び込んできた。しかもしかも、上映期間中の日曜日には舞台挨拶で川内有緒・三好大輔監督、そして白鳥さんご本人もやってくるらしい!!

「行かねば....」と速攻で予定を組み、心臓が飛び出そうになりながら迎えた舞台挨拶前日。

のっぴきならない事情により映画を観に行く事が出来なかった。泣いた。

のっぴきならない事情とは、息子の預け先が見つからなかったということだ。

前日の夜に預かってもらえる状況ではなくなり、ふがいなさにうちひしがれていた。

私はシングルマザーではあるが、シングルかどうかなど関係なく、小さな子どもを養育している人が自分の観たい映画を観たいタイミングで観るためには相当な段取りと運が必要な場合がある。舞台挨拶の件はすごくすごく楽しみにしていた分、ショックが大きかった。

「子どもが小さいうちは、自分の時間なんてなかなか取れないよねー」とぼやいてみるものの、そう自分に言い聞かせる度に見えないレールが自分の目の前に敷かれていて、そこを辿る事でしか前に進めないような気がしていた。舞台挨拶の日に行けなかったことで、世界と私の間に見えない亀裂がピキッと入ったような気さえした。空しかった。

それでも映画だけは諦めきれなかったので、平日に仕事を休んでほとり座までダッシュし、上映45分前からほとり座のロビーで上映を待っていた。

チケットを買うお客さんたちのほとんどが「白鳥さん1枚!」と言って買っており、みんな白鳥さんが好きなんだなと思った。

上映時間まであと10分となったころ、ふと映画のポスターに目が止まった。上映を待つ間にずっとぼんやり眺めていたのに、その時初めて、右上のほうに書かれていた言葉に目が止まった(ほんとに、目が見えているからといってなにもかも見えているわけではないんだな..)

その言葉とは、

ー僕たちが行くのは、点字ブロックのある道だけではないー

映画を観る前からぶわっと涙が出てしまった。

点字ブロック。

目が見えない人の安全のために主要な道路に敷かれているもの。美術館の展示室には点字ブロックは敷かれていない。だけど白鳥さんは美術館へ行き、会話によるアート鑑賞をする。

美術館だけでなく、彼は行きたい場所へ行く。点字ブロックの先へ。蕎麦屋で誰よりも上手に蕎麦をすすり、贔屓の居酒屋で晩酌をする。白鳥さんの行く先々には、そもそも点字ブロックなど無かった。

◯◯だから◯◯したほうが良い、は、◯◯だから◯◯すべきだ、にいつの間にか刷り変わっている事がある。

母親だから家族といる時間を優先したほうがいい、女だから養ってもらえる人と結婚したほうがいい、老後が寂しくなるから◯歳までに結婚したほうがいい、子どものために離婚しないほうがいい

美術館では迷惑をかけないように静かにしたほうがいい、美術館には乳幼児を連れて行かないほうがいい、障がいがある人は健常者に負けないように努力をしたほうがいい

誰かのためを想って発した言葉は、実は自分自身をがんじがらめに縛っている鎖であったりもする。そして、どんなに自分の好きなようにしようとしても、足元にはいつの間にか"点字ブロック"が敷かれていて、辿っていけるのは主要な道路ばかり。そのくらい、"世間の常識"というものは、強い。

それでも、アートの前では一人一人の答えしかあり得なくて、それと同じように、◯◯したほうがいい、なんて人に言えるような事なんて、そもそもひとつもなくて。

この映画は、やはりアートの映画ではない。障がいについての映画でもない。

アートを介したコミュニケーションについての映画であり、愛や人生、差別や死生観にも関わる本質的なものをガツンと突いてくる。

ああそうだ、私はこういう映画が観たかったんだな、こういう映画を観ることを諦めないで良かったなと、心の底から思った。

ほとり座の薄暗いはずのロビーに光が差し込んだように感じ、自分と世界の間にピキッと入ったひび割れが、じわりじわりと修復されていくような暖かさに包まれていった。

映画の中はあたたかい空気が流れていて、白鳥さんと一緒にすごした時間が丁寧に切り取られていた。みんな、白鳥さんとアートを見に行くのが、好きだったんだろうな、楽しかったんだな、と、しみじみと感じた。

楽しかったこと、幸せだった一瞬一瞬はもう二度と戻らないけれど、そんな宝石のような時間が宝箱に敷き詰められているような、キラキラ輝く映画だった。

「私は白い鳥になりたい」と、映画の中である人が言った。私も白い鳥になりたい。点字ブロックのその先へ。◯◯であるべき、の向こう側へ。

他の誰にもなれない私は、私だけの幸せを探しに行かないといけないのだから。

こんな素晴らしい映画をたった一人で観たままでいるのは勿体ない。

もっと多くの人に観てほしいし、観た後にああだこうだ喋りたい。だからもう、やるしかないのだとムクムク力が湧いた。自主上映会、やりたい!

せっかく自主上映会をやるんだったら、絶対に美術作品の展示と一緒にやりたいなと思っていた。だから、地元のアーティストに声をかけて、小さな芸術祭を開催することにした。つまり、白鳥さんの映画があってこその"旅鳥たちの芸術祭"なのだ。

私は白鳥さんにまつわる物語が好きだし、アートが好きだし、芸術祭が好きだから。

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