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地図は自分でつくるもの。Walk With Me 西野壮平 写真展


名は体を表すなあと、最近よく感じる。
西野壮平さん。写真家。その名の通り、壮大で平らな作品を見に、福井県の金津創作の森まで、片道3時間のドライブ。
 
あえて高速は使わなかった。だって西野壮平さんは、歩いて見た風景を写真に収め、それらをコラージュして作品を作っているのだから。歩いて福井までは行けないので、せめて下道で時間をかけて行きたかった。
 
金津創作の森は大好きな美術館の一つ。展示室は3~4部屋で、そんなに広くないのも良い。展示の写真撮影がOKなのも良い。SNSでの集客と展示の純粋さのバランスが、いつもすばらしいなと思う。
 
展示室に入ると、目の前にはモノクロの地図のような風景。目がチカチカするなあ。メガネで来れば良かったと、少し後悔。別府のまちを歩き、写真を撮り、それらをコラージュで再構築した作品。
別府だから、温泉の写真が沢山あっておもしろかった!じっくり見ると、じいちゃんたちの入浴シーンが至る所に…。その土地を歩かないと見えないもの。ただの風景画ではない。彼が歩き、過ごし、見た別府のまち。
 
その他にも、京都、NY、東京、知床、伊豆などなど。彼がそのまちで過ごした膨大な記録・記憶・風景。それらの集積。なんだかくらくらしてきた。めまいを起こしてしまいそうなほどの、一枚の平面の中に詰め込まれた、膨大な情報。
 
現代人が一日で取得する情報は、江戸時代の人の一生分だと、どこかで聞いたことがある。江戸時代の人が現在にタイムスリップしたら、きっとこんな気持ちになるんだろうな。人の記憶や心の中なんて、うっかり覗くもんじゃないのかもしれない。とうてい受け止めきれないよ。
 
“道中にはあらたな人や風景との出会いも印象的な出来事であったが、それより驚きであったのは、自分が歩くことに比例して風景が変化していくことだった。自ら選んだ道を、自らの時間感覚で歩き世界を発見していくことが、未知なる“何か”の問いに対して近づく行為のようなことだったのかもしれない”
 
“写真を撮りながら世界と出会い、世界を通して自分を見つめることが旅の重要性であるのであれば、私にとって歩くことは自己修練の時間なのかもしれない。未知なる道を歩き世界を身体的にマッピングしていく。”
 
作家のコメントから一部抜粋させていただいた。そうか、彼にとって歩くことは、自分を見つめなおすことなんだなあ。自分で選んだ道を自分の足で歩くという経験、そういうことをしないと、絶対に見えてこないもの。まちや風景の中を旅しているようで、自分の大切な人や記憶の中に想いを巡らす。そして、その記録をコラージュしている間も、きっと彼の内省の旅は続いているのだろう。
 
彼の作品の端々から“禅の精神”を感じるのは、彼が常に自分自身の存在の真実を探しているからなのかもしれない。ひたすら歩きながら。
 
とても印象に残っている作品がある。
「Study of Anchorage」
停泊の研究と訳せばいいのかな。
お経のような、古文書のような、うねうねとした線。ガッツリ作りこまれたコラージュではなくて、余白やゆとりが美しい。
彼と一緒に、歩いて歩くまくってへとへとになった後、展示の一番最後にこの作品が現れた。
 
この作品、港に停泊する漁船をつないでいるロープの影が、波で揺らいでいる様子を撮影し、コラージュしたものらしい。
 
コロナ禍で移動自粛中、彼が海辺のまちで毎日のように見ていた風景。一本のロープで陸に繋がれている漁船と、どこにも行けない自分自身。あの時誰もが感じていた閉塞感、不安、焦りが、彼の心にお経のように心に浮かび上がっていた。
 
どこにも行けないからこそ、見えてくる風景はあるのだな。
 
帰り道、長いドライブの中で一番迷ったのは、何度も通っているはずの南砺市内。見知らぬ場所に出かけなくとも、冒険は出来る。知っているようで知らなかった風景は、自分の心を旅することで見つかるのかもしれない。未知なる“何か”は、きっと自分の中にある。
 
この日の夜は、久々に会うお世話になった方々とお寿司を食べた。久々と思ったけど、ほんの2,3ヵ月ぶりだった。そしてこのお寿司屋さんを訪れたのは、なんと7年ぶり。あの時とはありとあらゆるもの全てが変わったけれど、7年前と変わらないのは、その日見てきたものを、「すごかったよー!」と話が出来る人たちがいるってこと。そういう話をしながら食べたお寿司は美味しかった。のどぐろ!エビ!茶碗蒸し!神!
 
なんて幸せなことなんだろう。
自分の今いる場所が、自分にとってどれだけ大切なのかという事を知るために、人は旅に出るのかもしれない。

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