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歴史小話集③

【弘法大師空海の入定を巡って】
弘法大師空海は讃岐(香川県)の出身で、父は佐伯直善通(よしみち)と言った。その善通の邸宅を寺にしたのが善通寺である。当初、空海は叔父の阿刀大足を頼って大学に進んだが、仏教に傾倒して出奔、各地を巡って修行した。途中、室戸岬で修行中に明星を飲み込む神秘体験をする。
その後、経緯はわからないが、留学僧として遣唐使に参加し、長安の青龍寺で恵果和尚に入門、わずか2年で伝法灌頂を受け、真言密教の奥義を体得して帰国した。嵯峨天皇の信任を得、東寺を下賜されて日本初の真言密教の根本道場とする。晩年は高野山を修行の場として整備し、62歳で入定した。
同時代の文献によると火葬されたらしいのだが、真言宗教団内で宗祖として神格化される中で、現在の高野山奥の院で入定しているという伝承が生まれ、観賢僧正が入定している空海の剃髪と衣替えを行ったという説話が登場した。さらに時代が下がると、空海が土中入定を行ったという伝承が新たに生まれたようである(たしかフロイスの『日本史』に記述があったと思う)。この、空海が土中入定したという伝承が、湯殿山の即身仏に影響を与えたのではないかという考えがある。最後の即身仏となった仏海上人は入定墓を作らせていて、入定墓造作の伝承が湯殿山の行人に共有されていたことがわかる。

【馮道と藤堂高虎に見る乱世の価値観】
馮道は中国・五代十国時代後期の政治家で、その才覚で各所を渡り歩き、五朝十一君に仕えたという。優れた宰相という評価がある一方で変節漢として非難されることもあるが、乱世において、その評価は当たらないと思う。特定の主君に忠誠を尽くせるのは平時であって、すべてが流動的な乱世においては、渡り歩かないと無駄に命を滅するからだ。
よく似ているのが藤堂高虎で、自分は先見の明がある人物と評価しているが、秀吉没後、急速に家康へ近づいたので、やはり変節漢呼ばわりされることがある。当時、秀吉が天下を統一したものの、後継の秀頼はまだ幼く、事態はどう転ぶかわからなかった。
特定主君への滅私奉公を美とする武士道は太平の世となった江戸時代に現れたもので、それを乱世であった戦国時代に遡って適用するのはおかしい。乱世と平時では価値観が違って当たり前だ。家臣も家族や郎党を食わせていかねばならず、いつ主家が滅ぶかわからない乱世では、より良い働き口を求めて渡り歩くのが常道だったと思われる。滅私奉公が可能なのはその主君に命を尽くせるだけの甲斐性がなければならず、流動的な世の中では家臣を引き止めるのに苦労したであろう。少しでも主家に不満があれば容易に調略に乗る、それが乱世である。
乱世には乱世の価値観があるのである。

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