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和士開暗殺事件と藤原種継暗殺事件

『北斉書』の日本語訳が刊行されるなど、中国南北朝時代が注目を集めている。私がこの時代に関心を持ったのは、田中芳樹氏の小説『蘭陵王』を読んだのがきっかけだ。この時代は極めて血なまぐさい時代で、戦争と粛清の嵐だったが、その中で気になる事件があった。和士開暗殺事件だ。
和士開は胡人の子孫で、北斉の初代皇帝である文宣帝には軽薄として疎まれたが、武成帝には重用された。武成帝の死後も後主に引き続き重用されたが、その専横を憎まれ、琅邪王高儼によって殺害された。このあたりの経緯は正史『北斉書』に当たっていないので、小説『蘭陵王』からの推測だが、この琅邪王の和士開暗殺計画は非常に綿密なもので、和士開殺害後に宮中を制圧していれば、クーデターとして成功していたと思われる。後主は統治能力に秀でた君主ではなく、琅邪王に期待する勢力もあっただろうと思われる。ところが、琅邪王らは和士開暗殺だけで満足してしまい、最終的には処断されて終わってしまった。

田中芳樹『蘭陵王』(文春文庫)

この事件のあらましを見て思い出したのが、平安時代初期に起きた藤原種継暗殺事件である。
藤原種継は式家の祖・宇合(うまかい)の孫で、正三位中納言の地位にあり、長岡宮造宮使として宮都造営の責任者となった。しかし、遷都後間もない785年、夜間工事の視察時に矢を射掛けられ、翌日薨去した。その後の調査で大伴氏・佐伯氏などから大勢の逮捕者が出、首謀者は斬首されたほか、連座して流刑に処された者も多くいた。事件はさらに波及し、すでに亡くなっていた大伴家持は除籍、皇太弟早良親王は廃嫡された。

藤原種継暗殺の舞台となった長岡宮跡

この事件は大伴氏・佐伯氏などの旧勢力が、新興勢力の藤原氏に対して巻き返しを図った事件ともとれるのだが、種継暗殺後はなすすべもなく捕縛されている。この時、桓武天皇は旧都奈良へ戻っており、クーデターを決行するには理想的な状態だった。
国も時代もまったく違うが、この2つの事件には共通性があるような気がしてならないのである。


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