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中国史小話集⑱
【劉禅と郤正】
中国・三国時代の蜀漢の後主(2代目皇帝)の劉禅は、陳寿に「仕える臣下によって善にも悪にも染まる、無垢な人だった」と評されていて、ある意味純粋な人柄だったらしい。そのため、諸葛亮没後も蔣琬、董允、費禕といった賢臣たちが健在な間は特に問題がなかった。
彼らの死後、宦官・黄皓の専横が目立ってきてからが問題で、黄皓は劉禅を意のままに操ろうとし、劉禅は政務に憂いてしまったようである(董允の後継となった陳祗は黄皓の専横を止められなかった)。
郤正は優れた人物であったが、黄皓が邪魔をし、日の目を見ることがなかった。蜀漢滅亡後、魏に移住した劉禅は、郤正の指導で落ち度なく振る舞うことができたため、「郤正を評価するのが遅すぎた」と嘆いたという。郤正は穏やかな性格で軋轢を好まなかった。そのため、黄皓との仲は良好だったが、敵視され追い落とされなかった一方、気に入られ引き立てられることもなかったという。
【郭子儀の伝説】
中国・唐代の軍人で、安史の乱の鎮圧に大功があった郭子儀は、いわゆる大器晩成型の人で、若い頃の事績が史書に全く記されていない。その事績のほとんどは50代以降になってからのものである。
そんな彼に、次のような伝説がある。 若い頃、郭子儀が空を眺めていると、高貴な馬車が降りてきた。中には一人の女性が乗っていた。その日は七月七日であったため、その女性が天女(織女)であると気づいた郭子儀は、天女に「願わくば、我に富と長寿をお授けください」と祈った。すると天女は「あなたは大いに富み、大いに出世するでしょう。そして、大いに長生きなさるでしょう」と告げて消えた。その後、郭子儀は大功を立て、とんとん拍子に出世して官職は太尉(武官の最高位)に至り、齢九十で身罷った。子供や婿は皆高官に昇り、孫は数十人に達した。功績によって賜った土地や品物は多数あった。
以上は『太平広記』にある話である。このことから郭子儀は富貴の象徴とされ、よく画題となった。
【酒で身を滅ぼした張飛】
中国・三国時代に蜀漢の皇帝・劉備に仕え、その両腕として活躍した関羽と張飛は、天下に名を轟かせる豪傑だった。ただ、関羽は部下に手厚く接する一方、同僚を軽んじる傾向があり、張飛は同僚に敬意を表する一方で部下にきつく当たる傾向があったという。そして、それが命取りになったと言われる。
史書等によると、張飛は酔うと些細なことで部下を咎め、棒叩きにすることがあった。そして、刑罰を与えた後も自分の側に侍らせていた。劉備は、張飛がいつか恨みを買って寝首を書かれるのではないかと恐れていたが、劉備が関羽の弔い合戦を計画した際、張飛は無茶な命令を下し、履行できなかった部下2人を打擲して、酔って寝込んでいるところをその部下に殺されたという。2人は張飛の首を持って呉へ逃げ、それが火に油を注ぐかたちで劉備の怒りを増幅させてしまった。開戦後、孫権は2人を蜀へ送り返し、子の張苞が2人を処刑しているが、Wikipediaに基づくと『三国志演義』の創作と思われる。