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歴史小話集①

【『日本書紀』考】
『日本書紀』の「紀」について、三浦佑之先生は中国の紀伝体歴史書における「本紀」を指すのではないかと考察しておられる。つまり、『日本書紀』とは『日本書』の「紀」、本紀であり、当初は中国の紀伝体歴史書に倣った『日本書』が構想されていたのではないかと。しかし、列伝は編纂されず、結果的に「紀」だけが完成して『日本書紀』と呼ばれるに至ったことになる。
三浦佑之先生は合わせて、『風土記』は『日本書』の「地理志」編纂の基礎資料とする想定で編纂されたと見られていて、一理あると思う。
また、『藤氏家伝』は『日本書』列伝作成のための基礎資料だった可能性もあるようだ。


【邪馬台国の場所について】
邪馬台国、現状は九州説も近畿説も無理がある。原因はその日程で、意図的に引き伸ばされているという指摘もある。現状、九州説は陸行一月を一日、近畿説は南を東と読み替えている。その点、論の危うさは近畿説も九州説も同じ。ただ、当時の中国では倭=日本列島は南北に長いと考えられていたようなので、東を南と記している可能性は高いと思う(当時の日本に、東西南北を表す言葉があったかどうかも疑問で、東に相当する言葉を陳寿が南と解釈した可能性もあると思う)。
ワイは近畿説を取るが、九州説だと伊都国に一大率という代官を置く意味がわからんのだよなあ。


【騎馬民族征服王朝説は成立するか?】
騎馬民族征服王朝説についてふと考えたのだが、もし、征服王朝を築けるほど騎馬民族が渡来したのであれば、為政者の周辺の文化は完全に騎馬民族のものに置き換わっているはずである。しかし、日本の伝統的な葬法である前方後円墳体制は崩れず、より発展していく。円筒埴輪も編年が可能なので文化に断絶は見られない。
ただ、北魏を建国した鮮卑拓跋部は中国の文化を積極的に取り入れ漢化していったが、これは中国の文化が「進んだ文化」だったからで、日本で同じことが起きたとは考えにくい。
そうすると、やはり騎馬民族征服王朝説には無理があるという結論になるのである。


【歴史の叙述と歴史の研究】
歴史学の学史で避けて通れないのがヘロドトス、トゥキュディデス、司馬遷なのだが、気をつけなければならないのは、彼らがやったのが「歴史の叙述」であって、「歴史の研究」ではないということである。「歴史の研究」はレオポルト・フォン・ランケの登場を待たねばならなかった。
中国においては、唐代に劉知幾が過去の正史の内容を検討したりしていて、ある意味では歴史研究のさきがけとも言える。正史の研究は清代の考証学派に受け継がれていくが、科学としての歴史学の成立はヨーロッパに先を越される事になった。


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