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考古学小話集①

【4世紀の纏向遺跡の中枢部】
纒向遺跡の中枢部は、4世紀になるとそれまで中枢部があった辻地区から、より山手の巻野内地区へ移る。珠城山古墳群の北側である。ここでは区画溝が検出されているが、吉野川分水の工事中に柱根と思しき丸太が大量に出たという証言があり、居館があったのは間違いなさそうである。吉野川分水の工事に先立ち発掘調査が行われなかったのが悔やまれる。
付近には垂仁天皇の纒向珠城宮、景行天皇の纒向日代宮伝承地の碑があるが、4世紀代であれば垂仁・景行両天皇の在位時期と合致し、纒向遺跡の居館遺構が両天皇の宮跡である蓋然性は高まると思われる。

纏向遺跡の全体図

【野洲川放水路と服部遺跡】
滋賀県野洲市と守山市の境界を流れる野洲川、当初は写真の矢印のところで二股に分かれていた(一方は北上して「吉川」の文字のほうへ、一方は西流して国道477号線のマークのほうへ)。
洪水等が相次いだことから、昭和に入り、中央に放水路を造って分かれた2流路を廃川にする工事が行われた。この放水路建設時に発見されたのが服部遺跡である。
服部遺跡は弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡で、度重なる洪水に襲われつつもその都度復興を繰り返したことが遺構の重なりからわかる。弥生時代を通して集落で、弥生時代中期には墓地を伴っていたようだ。

野洲川下流域のようす(矢印が旧分岐点)

【三輪山南麓に古墳がないのはなぜか】
奈良県桜井市の三輪山周辺には古墳が築造されていない空白地が広がっている。大神神社を基準に見てみると、北は字茅原までいかなければ古墳はなく、南は大和川の対岸にあたる鳥見山山麓までいかなければ古墳がない。このことから、神聖な神南備である三輪山周辺には、死の穢れを恐れて古墳を造らなかったのではないかという説が土生田純之先生らによって唱えられていた。
しかし、元天理市職員の泉武氏は、三輪山南麓が氾濫原であることから、洪水が多く、古墳築造に向かない土地だったのではないかと推察されている。私も泉氏の説を押している。信仰で説明するのは無理がある。

大神神社とその周辺

【黄泉の国と古墳】
黄泉(コウセン)というのは古代中国の死生観における来世のことで、地下世界とされる。
記紀神話に出てくる黄泉(よみ)の国のルーツはこれで、暗闇の世界であることが描写されていること、黄泉比良坂という坂が出口に存在することから地下世界のイメージが強い。古墳の横穴式石室がモデルであるとする説もある(黄泉の国=玄室、黄泉比良坂=羨道、千引きの岩=閉塞石)。
*古墳の中には石室に高低差があり、羨道が下り坂になっているものがある。
これには異論もあり、黄泉の国=古墳の石室という点は変わらないものの、黄泉比良坂を山の葬地へ続く道と捉える考え方がある。

横穴式石室

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