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民俗学小話集⑥

【即身仏、舜義上人】
即身仏の1体、舜義上人は、鎌倉・宝戒寺の住職を勤めた高僧で、隠居先の茨城県妙法寺に祀られている。入滅後、阿弥陀如来の石仏の胎内に納められ、阿弥陀堂に祀られていたが、ときの住職の夢枕に立ち「我再び世に出て衆生を救わん」と告げた。そこで棺(石仏)を開けてみたところミイラ化していた。入滅から78年後のことである。上人は入滅時に「五辛を絶ち、南無と唱うれば頭痛を治さん」と遺言したといい、頭痛にご利益があるとされる。
阿弥陀石仏は胎内を卵型にくり抜き、遺体を座姿勢で納められるようになっていたが、大柄な上人には狭すぎたようで、遺体は押し潰されて気の毒な姿勢になっている(首の骨が折れてしまい、前かがみの姿勢で顔だけ持ち上げたようになっている)。
舜義上人は阿弥陀信仰に基づく即身仏とされるが、死後、偶然遺体がミイラ化して残ったもので、上人自身に遺体を保存する意志はなかったようだ。むしろ、石仏の胎内に眠ることで、阿弥陀と一体になることを望んだように見える。この点は、薬師如来石仏の台座に入って入滅した宥貞法印(福島県貫秀寺に祀られる)とよく似ている。
阿弥陀信仰を持つ即身仏には、他に弾誓上人がいる(京都府古知谷阿弥陀寺に祀られる)が、現在は石棺内に納められ非公開(以前は公開されていたらしい)。

【即身仏、宥貞法印】
福島県の貫秀寺に、宥貞法印の即身仏が祀られている。
宥貞法印は高野山金剛三昧院で密教を学び、各地を巡って福島に到達、定住して地域の人々のために加持祈祷を行った。91歳の時、弟子の宥林に跡を継がせると、村人を集めて薬師如来十二大願の説法を行い、その夜にあらかじめ用意していた薬師如来石仏の台座(刳り貫いて石棺にしてあった)に入った。そして十数日後に入滅したようである。法印は生前、「我が身をこの世に留めて生身の薬師如来たらん」と遺言していて、石仏内で薬師如来と一体化することを考えていたらしい。
法印が住していた観音寺は廃仏毀釈に前後して廃寺になり、法印の遺体や石仏、関連資料は近隣の貫秀寺に移されて現在に至る。
ただ、法印がいつ頃から即身仏として祀られ始めたのかは謎で、一説では石仏が貫秀寺に移された時ではないかという。法印の関連資料はすべて地元の指定文化財になっているが、即身仏は元が人体なので文化財保護法の管轄外で文化財指定は受けていない(できない)。
法印は地元で「コーチさん」と呼ばれていて、日本ミイラ研究グループの松本昭氏も不思議がっておられたが、東日本大震災に伴う調査で、法印の正式な名前が「弘智法印宥貞」であることが判明した。地元で「コーチさん」と呼ばれていたのは正しかったわけである。

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